上荒田町

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上荒田町
—  町丁  —
上荒田町の位置
上荒田町
座標: 東経130度32分47.6秒北緯31.576278度 東経130.546556度31.576278; 130.546556
日本の旗 日本
都道府県 鹿児島県の旗 鹿児島県
市町村 25px 鹿児島市
地域 中央地域
地区 中央地区
人口 (2015年(平成27年)3月1日現在)
 - 計 5,965人
等時帯 JST (UTC+9)
郵便番号 890-0055 

上荒田町(うえあらたちょう Uearata-Chō)は、鹿児島県鹿児島市町名。旧鹿児島郡鹿児島近在荒田村鹿児島市大字荒田[1]郵便番号は890-0055。人口は5,965人、世帯数は3,437世帯(2015年3月1日現在)[2]。上荒田町の全域で住居表示を実施している。

地理

鹿児島市の中央部、新川下流域に位置している。町域の北方は中央町上之園町、南方は郡元唐湊、西方は田上、東方は荒田に接している。

西部を南北に鹿児島市電2系統が通っており、町域内には中洲通電停神田(交通局前)電停市立病院前電停がある。西端では九州旅客鉄道鹿児島本線指宿枕崎線が合流しており、その付近に鹿児島車両センター(2011年に鹿児島総合車両所より改称)がある。

南部には日本たばこ産業鹿児島工場があったが、2005年に閉鎖され、2015年5月1日加治屋町にあった鹿児島市立病院高麗町にあった鹿児島市交通局の電車施設が移転した。

歴史

成り立ちから市制施行まで

荒田という地名は鎌倉期より荘園名として見え、薩摩国のうちであった。建久8年の薩摩国図田帳の記述にあるのが初見であると考えられており、大隅正八幡(鹿児島神宮)領であったとされている。室町後期から戦国期にかけては荒田名と書かれるようになった[3]

江戸期には薩摩国鹿児島郡鹿児島近在のうちで、村高は「天保郷帳」では1,317石余、「旧高旧領」では1,525石余であった。1879年明治12年)に荒田村の一部から下荒田町(現在の下荒田の一部)が分立した[3]

市制施行以後

1889年(明治22年)に市制が施行されたのに伴い、鹿児島城下47町及び近在3村の区域より鹿児島市が成立し、江戸期の荒田村は鹿児島市の大字荒田」となった。1911年(明治44年)には大字荒田の一部を鹿児島郡西武田村大字田上(現在の田上及び田上町)に編入し、同時に大字荒田の残部は大字からとなり「上荒田町」に改称した[1][3]

1970年(昭和45年)に上荒田町の一部より中央町、翌年1971年(昭和46年)には荒田一丁目及び荒田二丁目1973年(昭和48年)に下荒田一丁目から下荒田四丁目1974年(昭和49年)には郡元一丁目から郡元三丁目に分割された[4]

町域の変遷

分割実施後 分割実施年 分割実施前
藩政村時代
下荒田町 1878年明治11年) 荒田村の一部
市制施行以後
西武田村田上の一部 1911年(明治44年) 鹿児島市大字荒田
上荒田町
中央町 1970年(昭和45年) 上荒田町の一部
荒田一丁目及び荒田二丁目 1971年(昭和46年)
下荒田一丁目から下荒田四丁目 1973年(昭和48年)
郡元一丁目から郡元三丁目 1974年(昭和49年)

施設

ファイル:Kagoshima-sharyojo.jpg
鹿児島車両センター
公共
教育
  • タラビューティ専門学校
  • タラ看護専門学校
  • タラデザイン専門学校

ギャラリー

小・中学校の学区

市立小・中学校の学区(校区)は以下の通りである[5]

町丁 番・番地 小学校 中学校
上荒田町 744-869、908-910 鹿児島市立武小学校 鹿児島市立武中学校
上荒田町 その他 鹿児島市立中洲小学校 鹿児島市立甲南中学校

交通

鉄道

道路

県道

脚注

  1. 1.0 1.1 現在の上荒田町と荒田を含めた範囲。
  2. 統計情報 - 鹿児島市、2015年4月11日閲覧。
  3. 3.0 3.1 3.2 『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店 p.77
  4. 『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店 p.126
  5. 小・中学校の校区表”. 鹿児島市役所. . 2010閲覧.

関連項目

座標: 北緯31度34分34.6秒 東経130度32分47.6秒


テンプレート:鹿児島市発足時の町・字