エリザベス・ステュアート
エリザベス・ステュアート(英語: Elizabeth Stuart, 1596年8月19日 - 1662年2月13日)は、スコットランド王ジェームズ6世すなわちイングランド王ジェームズ1世と王妃アンの長女、チャールズ1世の姉。プファルツ選帝侯フリードリヒ5世(ボヘミアの「冬王」)の妃。夫婦での亡命は名誉革命の布石となった。
イギリス王ジョージ1世の祖母であり、現在のイギリス王室の祖先にあたる。
ドイツ語名はエリーザベト・シュトゥアルト(Elisabeth Stuart)。
生涯
エリザベスが生まれた当時、スコットランドのみの王であった父ジェームズ6世は老いたイングランド女王エリザベス1世の後継者となることを望み、女王の歓心を買うつもりもあって、自らの長女に女王と同じ名を付けた。1603年、エリザベス1世は死去し、ジェームズ6世はイングランドとアイルランドの王位を新たに継承した。
1613年、エリザベスはプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚し、宮廷のあったハイデルベルクで暮らした。フリードリヒ5世は1619年にボヘミア王に即位したが、翌1620年の白山の戦いに敗れて王位を逐われ、1622年には本国プファルツもハプスブルク軍の侵攻を受けてオランダ共和国へ逃れた。エリーザベトは夫に従ってオランダに亡命し、以後はハーグで暮らした。夫に先立たれた後、1661年にイングランドへ帰り、翌1662年にロンドンで死去した。
陽気で美しく慈悲深かったエリザベスはイングランドでも人気が高かったが、嫁ぎ先のプファルツやボヘミアでも人々に慕われ、「ブリテンの真珠」「イングランドの薔薇」「慈愛の王妃」などと呼ばれた。
夫フリードリヒ5世との間には13人の子をもうけた。長男フリードリヒ・ハインリヒは若くして水死したが、家督を継いだ次男カール・ルートヴィヒは三十年戦争終結後に選帝侯位と所領の大半を回復した。一方、三男ループレヒト(ルパート)と四男モーリッツ(モーリス)はイングランドで叔父にあたるチャールズ1世に仕え、イングランド内戦で王党派の一員となって活躍した。五女ゾフィーはハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストと結婚したが、その息子ゲオルク・ルートヴィヒはエリーザベトの孫であることを根拠にイギリス王ジョージ1世となった。
子女
- ハインリヒ・フリードリヒ(1614年 - 1629年)
- カール1世ルートヴィヒ(1617年 - 1680年) - プファルツ選帝侯
- エリーザベト(1618年 - 1680年) - 哲学者、ヘルフォルト女子修道院長
- ループレヒト(ルパート、1619年 - 1682年) - イングランド内戦の王党派指揮官、カンバーランド公
- モーリッツ(モーリス、1620年 - 1652年) - イングランド内戦の王党派指揮官
- ルイーゼ・マリア(ルイーゼ・ホランディーネ、1622年 - 1709年) - 画家、モビュイソン女子修道院長
- ルートヴィヒ(1624年 - 1625年)
- エドゥアルト(1625年 - 1663年)
- ヘンリエッテ・マリー(1626年 - 1651年) - ハンガリー貴族ラーコーツィ・ジグモンド伯爵と結婚
- フィリップ(1627年 - 1650年)
- シャルロッテ(1628年 - 1631年)
- ゾフィー(1630年 - 1714年) - ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストと結婚、ジョージ1世の母。
- グスタフ・アドルフ(1632年 - 1641年)