カブトビール

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カブトビールは、かつて丸三麦酒によって、愛知県半田市半田赤レンガ建物として整備されている工場で、1898年明治31年)から1943年昭和18年)まで製造されたビール

概要

ファイル:Nagoya Station in Taisho and Pre-war Showa eras.JPG
大正~昭和初期の名古屋駅とカブトビールの広告
ファイル:Kabuto-beer Handa brewery.jpg
大正時代の加富登麦酒株式会社半田工場(現在の半田赤レンガ建物

中埜の丸三麦酒醸造

1887年明治20年)に、中埜酢店の4代目中埜又左衛門とその甥であり後に敷島製パンの創業者となる盛田善平が丸三麦酒醸造所を設立し、1889年(明治22年)5月に「丸三ビール」を初出荷する[1][2][3]1896年(明治29年)に丸三麦酒株式会社として法人化し、1898年(明治31年)10月31日に愛知県半田市榎下町に、のちに半田赤レンガ建物として整備される工場を新築し、銘柄を「加武登麦酒(カブトビール)」に改める[1][2][3]1900年(明治33年)のパリ万国博覧会で金牌を受賞し、当時は東海地方で最大のシェアを誇った[1]

根津の日本麦酒鉱泉

1906年(明治39年)12月に根津嘉一郎が譲受して日本第一麦酒株式会社となり、1908年(明治41年)に加富登麦酒株式会社へ改称する。1922年大正11年)に帝国鉱泉株式会社と日本製壜株式会社を併合して日本麦酒鉱泉株式会社に改称する。1933年昭和8年)7月に大日本麦酒株式会社と合併し、1943年(昭和18年)に企業整備令の適用で、半田工場を閉鎖してカブトビールの製造を終了する[3]

雑記

カブトビールの名称は、ビールなどを喉で勢い良く飲む「かぶる」から「カブト」に、日清戦争後であることから勇ましいの商標を用いた、など諸説ある[1]

2005年に復刻版が作られ、半田赤レンガ建物の公開時などに販売される[4]

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 カブトビール” (日本語). 半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場). 半田市 (2009年3月26日). 2010年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2017閲覧.
  2. 2.0 2.1 ミツカンがビール造り?” (日本語). ミツカンのはなし. ミツカン. . 2012閲覧.
  3. 3.0 3.1 3.2 カブトビールの歴史” (日本語). カブトビール. 赤煉瓦倶楽部半田. . 2012閲覧.
  4. カブトビール 復刻までの道” (日本語). カブトビール. 赤煉瓦倶楽部半田. . 2012閲覧.

外部リンク