得撫島
得撫島 | |
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座標 |
北緯45度56分00秒 東経150度2分00秒 |
面積 | 1,450[1] km² |
最高標高 | 1,426[2] m |
所属国・地域 |
帰属未定 (実効支配:ロシア) |
地図 |
得撫島(うるっぷとう)は、千島列島にある島。ロシア名はウループ島 (Остров Уруп)、英語表記はUrup。
島の名前の由来は、アイヌ語で「紅鱒」を意味する「ウルㇷ゚」から。知里真志保の著書にもこのことが記してある。
地理
長さ約 115 キロメートル、幅は約 20 キロメートルで、択捉水道(ロシア名:フリーズ海峡 пр. Фриза)を隔て、およそ 40 キロメートルで択捉島と相対し、北東方向110 キロメートルには新知島がある。全体的に北東から南西に向けて細長いエンドウマメのような形を持つ。国後島より僅かに小さく、千島列島では4 番目に大きな面積を有する。
- 台場山(だいばざん、542 メートル[4]、Rudakov)
- 硫黄山(いおうざん、998 メートル[5]、Tri Sestry)
- 白妙山[6](しろたえさん、1,426 メートル[1][2][6]、Ivao、最高峰)
以上の火山の周辺にも複数の山がある。火山があるため、現在も噴煙や温泉が噴出しており、硫黄の臭いが漂う。オホーツク海側には、温泉が滝となって流れている箇所がある。
島は海獣保護区に指定されていることから「ラッコの島」とも呼ばれている。北端の烏ノ尾岬は最大のラッコの生息地であり、300~400頭が確認されている。
択捉島との間には、植物学で言う分布境界線(宮部線)がある。ここは(植物学上の)温帯と亜寒帯との境であり、得撫島より北の島には広葉樹林が見られなくなる。
島には、戦時中に旧日本軍が作ったトーチカが残っている。また、旧ソ連の実効支配が始まってからは国境警備隊が駐留していた。北東部に防空レーダー基地、測候所、灯台などが集中し、150人程が居住していたが、現在は撤退により放置され、廃墟や残骸として残っている。
歴史
続縄文時代とオホーツク文化期に集落が発達した時期があるが、日本史における近世においては定住者がいなかった。択捉島など他島のアイヌ民族が漁猟のために一時的に居住していた。
- 1635年(寛永12年) - 松前藩が千島列島を含む蝦夷地の地図を作成。
- 1643年、オランダ東インド会社のフリースが上陸し、十字架を立て「コンパニースラント」(東インド会社の土地)と命名して、領土宣言をした[7]。
- 西洋人では初の「発見者」となる。
- 1651年(慶安4年) - 正保国絵図のため松前藩が提出した地図に、「ウルフ」の名がある。
- 1700年(元禄13年) - 幕命により松前藩は千島や勘察加を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成。
- 1715年(正徳5年) - 松前藩主は幕府に対し、「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
- 1754年(宝暦4年) - 松前藩家臣の知行地として松前藩によって開かれた国後場所に含まれる。
- 1766年 - ロシア人イワン・チョールヌイ(Иван Чёрный)がカムチャツカ半島から南下し、毛皮目的のラッコの捕獲などを開始。以後、日露両国の活動が交錯する。
- 1772年 - 千島アイヌとロシア人が衝突し、ロシア人が島から退去。しかし、その後もロシア人の活動は続く。
- 1786年(天明6年) - 最上徳内が幕吏として初の本格的な調査を実施。
- 1791年(寛政3年) - 最上徳内が択捉島と得撫島を探検。
- 1801年(享和元年) - 富山元十郎・深山宇平太が日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の柱を建てる。
- 1855年(安政元年) - 日露通好条約(不平等条約のひとつ)によりロシア領とされる(択捉水道が国境線になる)。クリミア戦争中、9月に英仏海軍によって一時的に占領される。
- 1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約により再び日本領となり北海道 (令制)千島国得撫郡に含まれる。
- 1945年(昭和20年)8月 - ソ連軍が上陸し占領する。日本が降伏した9月2日に出された一般命令第1号により、ソ連占領地とされた。
- 1946年(昭和21年) - GHQ指令により、日本の施政権が正式に停止される。直後に、ソ連が領有を宣言する。
- 1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約で日本は領有権を放棄する。しかしソ連はその条約に調印していないため、日本は北方四島以外の千島列島の帰属は未確定と主張する。
- 1991年(平成3年) - ソ連崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。
現在はロシア連邦が実効支配しているものの、日本政府は国際法上、帰属未定地であるとしている。
気象通報の島
かつて得撫島は、NHKラジオ第2放送の「気象通報」で「ウルップ島」としておなじみの島だった。しかし1997年7月19日を最後に観測結果の入電が途絶え、2001年12月3日に正式に観測地点から除外される。その理由は公表されていないが、島の気象測候所が廃止されたという説が支配的である。
参考文献
- 『北方領土地名考』 北方領土問題対策協会編、1978年
- 『千島縦断』 北海道新聞社編、1994年、100~103頁
- ↑ 1.0 1.1 “International Kuril Island Project(IKIP、国際千島調査、英文)”. University of Washington Fish Collection or the respective authors. . 2009年7月24日閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 “Global Volcanism Program”. 米国立自然史博物館(英文). . 2009年7月16日閲覧.
- ↑ “Global Volcanism Program”. 米国立自然史博物館(英文). . 2009年7月16日閲覧.
- ↑ “Global Volcanism Program”. 米国立自然史博物館(英文). . 2009年7月16日閲覧.
- ↑ “Global Volcanism Program”. 米国立自然史博物館(英文). . 2009年7月16日閲覧.
- ↑ 6.0 6.1 帝国書院編集部編 『新詳高等地図 初訂版』 帝国書院、2009年 102 頁
- ↑ 「最初の千島探検」根室市公式HP
注釈
- ↑ 帝国書院 (2009) 102 頁では 1,326 メートル