得撫郡
得撫郡(うるっぷぐん)は、北海道(千島国)根室支庁にあった郡。
人口46人(1940年)、面積1,494km²[1]。
当該地域の領有権に関する詳細は千島列島#領土問題を参照。
概要
全域が千島列島中部の島嶼で構成され、町村制が施行されなかったため所属町村はない。2010年まで日本の一部法令に名称だけが残存していた。
郡全域が農林省の養狐事業地および臘虎膃肭獣猟獲取締法による海獣保護地域で民間人渡航禁止のため、定住者はなく農林省関係者が少数越年していた。国勢調査では昭和15年の46名が最大となっている。ただし、明治38年以降の徴発物件一覧には1世帯2名の定住が確認されているうえ、同法施行前からの既得権を持つ択捉島の漁民が4 - 10月の漁期に滞在していたことから定期航路も存在したが、施行後は通年居住は禁止されていた。得撫島西部の床丹が中心集落で、東部にも見島という拠点があった。
千島列島の亜寒帯南端にあたり、植物学上の分布境界線(宮部線)の北側となっている。
郡域
1876年(明治9年)から2010年(平成22年)まで変更なし(並び順は北から)。
- 猟虎水道(ラッコ水道。知理保以島と知理保以南島との間の海峡)
- 猟虎島(ラッコ島)
- 知理保以南島(ブラト・チルポエフ島)
- 南得撫水道(ウルップ海峡。新知島と得撫島との間の海峡のうち、知理保以島の南側。深さ200m[2])
- 得撫島(ウルップ島)
歴史
樺太千島交換条約までの沿革
江戸時代になると、正保元年、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。1661年、伊勢国松坂の七郎兵衛の船が得撫島に漂着したが、蝦夷(アイヌ)の助けで択捉・国後・十州島(北海道本島)を経て寛文元年(1662年)に江戸へ帰っている(『勢州船北海漂着記』)。元禄13年には、幕命により松前藩は千島や勘察加を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成し、 正徳5年になると、松前藩主は幕府に対し「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。宝暦4年、得撫郡域は松前藩によって開かれた家臣の知行地・クナシリ場所に含まれた。北方探検が盛んに行われるようになると、天明6年と寛政3年には最上徳内が得撫島を探検、享和元年6月には富山元十郎と深山宇平太が得撫島に「天長地久大日本属島」[4]の標柱を建てている。
江戸時代後期、得撫郡域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に推し進めるロシアの脅威に備え、寛政11年得撫郡域は公議御料とされた。文化3年(1806年)4月25日以降、継右衛門ら6名の慶祥丸乗組員たちが、漂着した北千島方面(幌筵島・羅処和島)から南の択捉・国後・十州島方面へ向かう際立ち寄っている。文政4年得撫郡域は松前藩領に復したが、安政元年日露和親条約(不平等条約のひとつ)により得撫島はロシア領とされた。1875年11月樺太・千島交換条約によって再び日本領となった後、得撫郡が置かれる。北海道千島国に属した。
樺太千島交換条約以降の沿革
- 明治9年(1876年)1月14日 - 得撫郡が設置され、千島国の所属となる[5]。
- 明治10年(1877年) - 条約附録に従い、得撫島にあった千島アイヌの村落がロシア領に移住し、郡内は無人となる[6]。
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての得撫郡が発足。
- 明治13年(1880年)7月 - 根室郡外八郡役所(根室花咲野付標津目梨国後得撫新知占守郡役所)の管轄となる。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により根室県の管轄となる。
- 明治18年(1885年)1月 - 根室郡外九郡役所(根室花咲野付標津目梨国後得撫新知占守色丹郡役所)の管轄となる。
- 明治19年(1886年)
- 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、根室支庁の管轄となる。
- 大正5年(1916年) - ラッコ、オットセイほかの狩猟が禁止され、農水省による越年が新知郡と併せて6ヶ所13人で開始[7]。
- 昭和18年(1943年) - 得撫島北端のカラス岬で飛行場建設が始まる。
- 昭和20年(1945年)9月2日 - 日本政府が降伏文書に調印、同時に一般命令第1号により、ソ連占領下となる。
- 昭和21年(1946年)
- 昭和27年(1952年)4月28日 - 日本政府がサンフランシスコ講和条約により領有権を放棄。
- 平成22年(2010年)4月1日 - 「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例(平成21年3月31日公布)」[8]と「財務省組織規則の一部を改正する省令(平成21年10月26日 財務省令第67号)」[9]により法令上も消滅。
人口
国勢調査の結果のうち、大正14年 - 昭和10年のデータは、昭和10年の国勢調査報告[10]による。
- 大正9年 - 国勢調査 33人(男32人、女1人)、世帯数6[11]。
- 大正14年 - 国勢調査 20人。
- 昭和5年 - 国勢調査 13人。
- 昭和10年 - 国勢調査 29人(男23人、女6人)、うち常住人口16人。
- 昭和15年 - 国勢調査 46人(男41人、女5人)、世帯数8[12]。
参考資料
- ↑ “International Kuril Island Project(IKIP、国際千島調査、英文)”. University of Washington Fish Collection or the respective authors. . 2010年9月5日閲覧.
- ↑ ウルップ海峡における水塊・流速構造と乱流混合観測 日本海洋学会大会講演要旨集(2008.03.14)
- ↑ Пролив Фриза ロシア語版wiki
- ↑ 天長地久とは老子7章からの言葉で「天長く地久し」という、永遠不変の意。天長節・地久節はこれから。
- ↑ 法令全書第11冊(明治9年) 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
- ↑ 根室外九郡役所統計概表 経歴 デジタルアーカイブ 国立国会図書館
- ↑ 報知新聞 1934.6.19-30 神戸大学 電子図書館システム
- ↑ 北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例 支庁制度改革の取組(地域主権局) 北海道
- ↑ “法令データ提供システムによる最新版検索結果(別表第九)”. 総務省. . 2010年9月5日閲覧.
- ↑ 市町村別人口 01北海道昭和10年国勢調査 政府統計の総合窓口
- ↑ 世帯数及人員-市町村 01北海道 大正9年国勢調査 政府統計の総合窓口
- ↑ 世帯および男女別人口(全人口)-全国,道府県,郡,市区町村 昭和15年国勢調査 政府統計の総合窓口