「ビキニ環礁」の版間の差分

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[[画像:Flag of Bikini Atoll.svg|thumb|ビキニ環礁の地域旗<br />青地の中の23の白い星が当環礁の23の島、右上の3つの黒い星がキャッスル作戦で破壊された3つの島、右下の2つの黒星が島民が移住した2つの島を示している。旗の中の[[マーシャル語]]の記述は、1946年に米軍から退去を求められた際に首長が島民に語った言葉で「全ては神の手の内に」を意味する。]]
 
  
'''ビキニ環礁'''(ビキニかんしょう、Bikini Atoll)は、[[アメリカ合衆国]]による第二次世界大戦後の最初の[[核実験]]([[原子爆弾]]実験)が行われた[[環礁]]である。現在は[[マーシャル諸島共和国]]に属する。また、この原子爆弾の実験が由来となって[[ビキニ (水着)|水着のビキニ]]の名称が生まれた(後述)。
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'''ビキニ環礁'''(ビキニかんしょう、Bikini Atoll)
  
== 概要 ==
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西太平洋,[[マーシャル諸島]]北西部の[[環礁]]。長さ 40km,幅 24kmほどの楕円形の礁湖を囲む礁上に,約 20のサンゴ島がある。
'''ビキニ島'''とも呼ばれ<ref name=sd>須藤健一「ビキニ」世界民族問題事典、平凡社、2002</ref>、[[第二次世界大戦]]前の日本の[[海図]]には'''ヒ゜キンニ島'''と記述されている例もある<ref>海軍省水路部:編『マーシャル諸島北部諸分圖 北太平洋』([http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008431628-00 国立国会図書館 YG4-Z-L-3285])。当環礁の近海で、[[水素爆弾]]実験により被爆した[[第五福竜丸]]の航海日誌にも、「ピキンニ島」の記述が見られる。</ref>。
 
  
23の島嶼からなり、礁湖の面積は594.1平方キロメートル。
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[[第2次世界大戦]]中アメリカ合衆国軍が占領,[[原子爆弾]]実験場(核実験場)に決まると,住民は南東に約 800km離れたロンゲリク島,のちにキリ島に強制移住させられた。最初の核実験は 1946年7月1日に行なわれ,20ktの原子爆弾によって 80隻もの廃船[[標的艦]]が爆破された。
  
[[1946年]]から[[1958年]]にかけて、[[太平洋核実験場]]の一つとして[[アメリカ合衆国]]が23回の[[核実験]]を行った<ref>太平洋核実験場全体では1946年から1963年の間に105回、同じマーシャル諸島ではエニウェトク環礁と合わせて69回の核実験が行われた。</ref>。
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2度目の実験は同年7月25日,水中爆発によって 9隻の標的艦が沈んだ。1954年3月1日の[[水素爆弾]]実験では,付近のロンゲラップ環礁の住民および近海の禁止区域外で操業中だった日本の漁船『第五福竜丸』などが放射性を帯びた「死の灰」([[放射性降下物]])を浴び,深刻な被害を受けた([[第五福竜丸事件]]
  
2010年、[[第34回世界遺産委員会]]において、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リスト([[文化遺産_(世界遺産)|文化遺産]])に登録された<ref>{{cite web
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核実験は[[エニウェトク環礁]]とともに 1958年までに 60回以上にわたって実施され,この地域の自然と住民にはかりしれない深いきずあとを残した。1969年以降アメリカ政府によって放射能で汚染された表土の入れ換えなどの環境修復が試みられたが,住民は戻っていない。2010年,核実験の威力を伝えるうえできわめて重要な証拠が保存されているとして,[[世界遺産]]の文化遺産に登録された。
|url = http://whc.unesco.org/en/news/642
 
|title = World Heritage Committee inscribes seven cultural sites on World Heritage List
 
|accessdate = 2010-08-01
 
|publisher = UNESCO
 
}}</ref>。マーシャル諸島共和国初の世界遺産となった。
 
  
== 核実験 ==
 
1946年、アメリカ合衆国は、当時信託統治領であったビキニ環礁を核実験場に選んだ。住人170人は[[無人島]]の[[ロンゲリック環礁]]に[[強制移住]]させられたが、漁業資源にも乏しく、飢餓に直面した<ref name=sd/>。
 
 
1948年に米軍ミサイル基地[[クワジャリン環礁]]に寄留し、さらに無人島[[キリ島]]へと強制移住させられた<ref name=sd/>。同年、実験場が隣の[[エニウェトク環礁]]に変更された。
 
 
1954年には再度実験場がビキニ環礁に戻り、核実験は1958年7月まで続けられた。この12年間に23回の核実験が実施された<ref name="IAEA">国際原子力機関 (IAEA) [http://www-ns.iaea.org/appraisals/bikini-atoll.asp Conditions at Bikini Atoll] 閲覧 2014-3-3</ref>。
 
 
=== クロスロード作戦 ===
 
[[画像:Operation Crossroads Baker (wide).jpg|right|thumb|[[クロスロード作戦]]のベーカー核実験で発生した巨大な水柱]]
 
{{main|クロスロード作戦}}
 
ビキニ環礁で行われた最初の核実験は、[[1946年]][[7月1日]]と[[7月25日]]の[[クロスロード作戦]]である。これは[[1945年]]の[[ニューメキシコ]]、[[広島県|広島]]、[[長崎県|長崎]]に続く、史上4番目と5番目の核爆発であり、第二次世界大戦後の最初の核実験であった。
 
 
大小71隻の艦艇を標的とする[[原子爆弾]]の実験であり、主要標的艦は[[アメリカ海軍]]の[[戦艦]]「[[ネバダ (戦艦)|ネバダ]]」、「[[アーカンソー (戦艦)|アーカンソー]]」、「[[ニューヨーク (戦艦)|ニューヨーク]]」、「[[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]]」、[[航空母艦|空母]]「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」などのほか、[[第二次世界大戦]]で接収した[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[戦艦]]「[[長門 (戦艦)|長門]]」、[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の[[重巡洋艦]]「[[プリンツ・オイゲン (重巡洋艦)|プリンツ・オイゲン]]」なども標的となった。
 
 
=== キャッスル作戦(水爆実験) ===
 
[[File:Castle Bravo Detonation USDE.ogv|thumb|thumbtime=15|left|ブラボー実験で生じた爆発の動画映像]]
 
[[画像:Castle Bravo Blast.jpg|thumb|[[キャッスル作戦]]・ブラボー実験の[[キノコ雲]]]]
 
{{main|キャッスル作戦|ロンゲラップ環礁}}
 
[[1954年]]からは4度の水爆実験が実施された<ref name=sd/>。
 
 
1954年[[3月1日]]の[[キャッスル作戦]](ブラボー実験)では、広島型[[原子爆弾]]約1,000個分の爆発力(15Mt)の[[水素爆弾]]が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルの[[クレーター]]が形成された。このとき、日本のマグロ漁船・[[第五福竜丸]]をはじめ約1,000隻以上の漁船が、[[死の灰]]を浴びて被曝した<ref>森住卓「[http://www.morizumi-pj.com/bikini/bikini.html ビキニ水爆実験-被曝者はいま]」</ref>。日本人船長らは犠牲となった<ref name=sd/>。また、ビキニ環礁から約240km離れた[[ロンゲラップ環礁]]にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになった。この3月1日は、'''ビキニ・デー'''として[[原水爆禁止運動]]の記念日となり、継続的な活動が行われている。
 
 
== 放射能調査 ==
 
アメリカ合衆国は1958年から残留放射能の調査を開始し、1968年にはビキニ返還を約束して放射能除去作業を開始した<ref name=sd/>。8月には「居住は安全である」との結論が出され、島民の帰島が許可され、実験に先立ち離島した167人の内139人が帰島した。1974年には140人の帰島が許可された<ref name=sd/>。しかし、放射能の影響で身体的異状が多数発生したため、住民は再び離島を余儀なくされ、キリ島などに移住した<ref name=sd/>。
 
 
1975年に島民は安全性に疑問を持ち、アメリカ政府に対して訴訟を起こした。
 
 
その後1975年、1976年、1978年に調査が行われ、1978年9月には再避難することとなった。2度目の避難の後、1980年、1982年にも米国による調査が実施された。
 
 
1986年に独立した[[マーシャル諸島共和国]]政府は、第三者による調査を実施した。その報告書は1995年2月に提出されたが、米国政府は報告書を承認しなかった。
 
 
1994年、マーシャル諸島政府は国際原子力機関 (IAEA) に放射能調査を依頼し、1997年5月にIAEAによる調査が開始された。1998年にIAEAは報告書「Radiological Conditions at Bikini Atoll: Prospects for Resettlement」 を発表し、その中で本環礁に定住し、そこで得られる食料を摂ると、年間15mSvに達すると推定され「永住には適さない」と結論づけた<ref name="IAEA"/>。
 
 
== 現況 ==
 
島民は、強制的に[[ロンゲリック環礁]]へ、さらに[[キリ島]]へと移住させられた。上記の理由も有り、2017年現在も、原島民は島に戻れていない。キリ島はビキニ島の半分の面積しかなく、400人の住民は食糧難の下、アメリカ政府から生活保障費を受け取っている<ref name=sd/>。ビキニ島に人が居住できるようになる(原島民が島に戻れる)のは、早くても2052年頃と推定されている<ref name=sd/>。<!--
 
 
{{要出典範囲|date=2015年7月|[[放射能]]レベル自体は、短期間の滞在では問題ないレベルまで下がっており}}、現在では美しい沿海、上記艦船は[[スクーバダイビング|ダイビング]]スポットになっている。リゾートホテルもある。-->
 
 
[[2008年]][[4月]]、[[オーストラリア]]研究会議 (ARC) は、ビキニ環礁のサンゴ礁の現状について発表した。その発表によると、ビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅した。
 
 
== ビキニ(水着)の名称の由来 ==
 
[[1946年]]7月1日の原爆実験([[クロスロード作戦]])の直後の[[1946年]][[7月5日]]に[[ルイ・レアール]]が、その小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえ("like the bomb, the bikini is small and devastating"<ref>[http://www.atomicheritage.org/history/operation-crossroads Operation Crossroads] Atomic Heritage Foundation、Legacyの章の最後の段落 The Bikini tests also inspired the eponymous swimsuit. Paris Swimwear designer Louis Reard adopted "Bikini" for his new line of swimwear during Operation Crossroads. Réard's bikini was not the first two-piece swimsuit, but he explained that "like the bomb, the bikini is small and devastating."</ref>)、ビキニと命名してこの水着を発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20080927104351/http://www.guardian.co.uk/travel/2006/jun/10/sttropez.filminspiredtravel.france.culturaltrips?gusrc=rss&feed=travel Paula Cocozza, "A little piece of history"]
 
The Guardian, Saturday June 10 2006  "When the US army conducted its atomic bomb tests on the Bikini atoll in the Pacific on July 1 1946, out of the mushroom of the explosion Réard plucked a name for his creation that would stand the test of time. Four days later, his "bikini" was modelled by Micheline Bernardini." </ref>。
 
 
ビキニの名称は、「'''[[水素爆弾|水爆]]'''実験になぞらえた」と誤って言われることがある<ref>[https://mainichi.jp/articles/20140226/mul/00m/030/023000c 漫画で解説 ビキニデーとはの巻] 毎日新聞、毎日まんがニュース、2014年2月26日 漫画の台詞が「1954年3月1日に南太平洋のビキニ環礁で米国が行った水爆実験「ブラボー」。  水着を考案したフランス人が『その衝撃は水爆級』だからと命名したようだぜ。」と誤って記述されている。</ref>。ビキニ環礁における最初の水爆実験は[[1954年]]3月1日の([[キャッスル作戦#ブラボー実験]])で、この水着の発表の8年後である。なお、人類最初の水爆実験は[[1952年]][[11月1日]]、[[エニウェトク環礁]]におけるもの([[アイビー作戦]] )である。
 
 
== 世界遺産 ==
 
===登録基準 ===
 
 
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== 脚注・出典 ==
 
== 脚注・出典 ==
 
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== 参考文献 ==
 
*斉藤達夫『ミクロネシア』すずさわ書店、1975年
 
*Kiste,J. Bikini.Univ.of Hawaii Press,1979.
 
  
 
== 関連項目 ==
 
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*[[ラリック列島]]
 
*[[ラリック列島]]
 
*[[エニウェトク環礁]]
 
*[[エニウェトク環礁]]
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*[http://www.bikiniatoll.com/ ビキニ環礁]
 
*[http://www.bikiniatoll.com/ ビキニ環礁]
 
*[http://www.rmiembassyus.org/ マーシャル諸島共和国]
 
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世界遺産 ビキニ環礁核実験場
マーシャル諸島
英名 Bikini Atoll Nuclear Test Site
仏名 Site d’essais nucléaires de l’atoll de Bikini
登録区分 文化遺産
登録基準 (4), (6)
登録年 2010年
備考 いわゆる負の世界遺産[1]
公式サイト 世界遺産センター(英語)
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ビキニ環礁(ビキニかんしょう、Bikini Atoll)

西太平洋,マーシャル諸島北西部の環礁。長さ 40km,幅 24kmほどの楕円形の礁湖を囲む礁上に,約 20のサンゴ島がある。

第2次世界大戦中アメリカ合衆国軍が占領,原子爆弾実験場(核実験場)に決まると,住民は南東に約 800km離れたロンゲリク島,のちにキリ島に強制移住させられた。最初の核実験は 1946年7月1日に行なわれ,20ktの原子爆弾によって 80隻もの廃船標的艦が爆破された。

2度目の実験は同年7月25日,水中爆発によって 9隻の標的艦が沈んだ。1954年3月1日の水素爆弾実験では,付近のロンゲラップ環礁の住民および近海の禁止区域外で操業中だった日本の漁船『第五福竜丸』などが放射性を帯びた「死の灰」(放射性降下物)を浴び,深刻な被害を受けた(第五福竜丸事件

核実験はエニウェトク環礁とともに 1958年までに 60回以上にわたって実施され,この地域の自然と住民にはかりしれない深いきずあとを残した。1969年以降アメリカ政府によって放射能で汚染された表土の入れ換えなどの環境修復が試みられたが,住民は戻っていない。2010年,核実験の威力を伝えるうえできわめて重要な証拠が保存されているとして,世界遺産の文化遺産に登録された。

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

脚注・出典

  1. 世界遺産アカデミー監修『くわしく学ぶ世界遺産300』マイナビ、2013年、p.216

関連項目

外部リンク