大石良金
大石 良金(おおいし よしかね、元禄元年(1688年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。弟に大石吉之進、大石大三郎。また妹に大石くうと大石るりがいる。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。
生涯
討ち入り前後
元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男として赤穂に誕生。幼いころには疱瘡を患ったという。
元禄14年(1701年)3月14日(4月21日)、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩が即日切腹、赤穂藩が改易となった時、良金は数え年で14歳であり、元服前だった。
赤穂城を幕府の収城使脇坂安照に引き渡した後、良金の父の良雄は遠林寺において藩政残務処理にあたったが、この間の、5月11日(6月16日)、良金は生母りくや弟吉之進、妹くうとるりの四人を連れてりくの実家但馬豊岡藩家老石束毎公の屋敷へ向かった。この豊岡滞在中に良金は毎公より脇差を与えられた。
その後、7月に良雄が京都山科へ移り住むと、りくや良金たちも山科へ移る。このとき良雄は浪人となった旧赤穂藩士たちから誓紙血判状を受けて、浅野家御家再興運動に尽力中であった。良金は、12月に元服して義盟に加わった。翌元禄15年(1702年)4月、良雄は妻りくを離別して幼い子どもたちとともに再び実家の豊岡へ帰したが、良金は山科に残り父と行動を共にする。
7月、浅野長矩の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となると、良雄は円山会議において吉良義央への仇討ち一本に決定。9月19日(11月8日)、良金は良雄に先立って江戸に下り[1]、垣見左内と名乗って江戸では日本橋石町三丁目(現東京都中央区日本橋本町)の宿屋小山屋弥兵衛店に滞在。続いて下向してきた大石良雄もここに入った。
12月15日未明。47名の赤穂浪士は吉良義央の屋敷へ討ち入り、良金は裏門隊の大将を務めた。激闘の末に浪士たちは吉良を討ち果たして、本懐を果たした。赤穂浪士一行は泉岳寺へ引き上げ浅野長矩の墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。
幕府は赤穂浪士を四大名家にお預けとし、良金は堀部武庸、大高忠雄ら9名と共に松平定直(久松松平家・伊予松山藩)屋敷へ預けられた。翌元禄16年(1703年)2月4日、公儀により赤穂浪士へ切腹が命じられ、良金は同家お預けの10人のうち最初に切腹を仰せ付かった。松平家家臣波賀朝栄の介錯で切腹。享年16。最年少の浪士だった。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。
逸話
- 戒名は刃上樹剣信士。なお大石親子は、家格が殿様の名代が務める譜代の城代家老(代々世襲)のため、別格扱いで赤穂藩での菩提寺の花岳寺では、良金の戒名には院号の超倫院が付されている。
- 子供のいない長矩からも、学の深い聡明さを愛でられ(良金は、藤江熊陽という学者に付き学んでいた)幼い時からわが子同然に可愛いがられたため、終生その恩を忘れなかった。元服間もないため、良金に子はなく次弟も出家中に若くして病死したため、父と兄良金の顔を知らない(討ち入り当時は、幼児だった)三男・大三郎良恭(よしやす)が、後に六代将軍家宣に代替わりに際し大赦され、浅野家芸州広島本家で仕官して大石姓に戻ることになった。
- 幼少時に、お城で拝謁の折に馬を拝領したいと堂々と請願し流石は武士の子である、と殿様に褒められたという逸話がある。家老になっていたら、父以上の能力があったといわれた。反目して父のもとから離脱しようとした堀部ら急進派の江戸組に対し、自ら人質志願し、父に先立ち江戸入りするほどの判断力と統率力があった。良雄が江戸入りするまで、よく江戸若手チームの暴発を防ぎ、偵察などに全力するよう老将とともに指導した。討ち入りの戦闘は剣豪といわれた若手が多く配属された裏門で殆ど行われ、将としての責任は良金のほうが、父より重かった。抜け穴を見つけ自分からとっさに飛び込むなどもして、後にその機転は上に立つ者として預かり先で、その器を高く信任された。
- 良金は両親の離婚を知らず切腹している。証拠として良雄は、預け先の熊本藩邸経由で大目付(公儀最高の評定所)宛てに提出した自筆親類書では、妻りくを離縁した者として書いているが(連座回避のための離婚)、良金が久松松平家経由で提出した親類書には、りくを母として認定し「両親」扱いで記載されている。大名家預かりとなったことは、幕府にとって「またもの(大名である、殿様の更に「目下」の家来だから)」に過ぎぬ浪士たちが、「旗本格」として貴賓待遇の扱いとなった。
- 当時としては稀な罪人扱いでは無く、縄も格子もかけられず、邸内なら散策も自由に出来たという。また、良金は年末に預け先で流行風邪で高熱を発して接待役を慌てさせたことが細川邸に伝えられるなど、他の大名家同士で情報が伝達されあっていた。2汁5菜に加え夜食や寝酒など寝食相当なご馳走攻めに辟易した様子を記した預かり先の記録も有名である。
- 切腹当日は将として最期まで扱われ、真っ先に切腹し首実検を受けた。若年にも関わらず堂々として余裕ある態度に、検視役人が泣いたという逸話がある。切腹後は、大目付邸出頭の際に押収された大小の刀や采配、袖の白布に名前入りの討ち入り装束や預かり中に拝領した着用衣類や、切腹の際の死装束などが、大目付・仙石久尚の好意で、当時としても異例ながら幕府に没収処分されず遺族に形見として下げ渡された。
- 浪士全員が生前に泉岳寺埋葬を、願書をもって希望し叶えられ、遺体は直接寺へ運ばれ、遺髪とともに預かり先の接待役が、それぞれの遺族の居場所を調べて四家担当者が別々に訪ね歩いては渡したという。預け先でも末端身分の者ではなく、家老格に接待させる等、破格待遇であった。
その他
- 当時としては大柄であり、身長は五尺七寸(172cm前後)あったという。身長145cm程度が平均身長といわれた時代なので、弁慶さながらの大男に見られたそうで原元辰の堀部武庸宛書簡に「主税、年ぱいよりひね申し候」というくだりがある。若いが、早くからしっかり者であった。
- 京都滞在中の元禄15年(1702年)、四条河原の色子(歌舞伎役者)相山幸之助と衆道(男色)の契りを結んだという。
注
- ↑ この時期親族(母りくの叔母香で、大和高取藩筆頭家老の中谷清右衛門の妻)に送った書状が、近年判明している。「共同通信」2010年1月30日付