白樺派
白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮のひとつ。また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のことである。
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概略
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。1910年(明治43年)刊行の雑誌『白樺』を中心として活動した。
そのきっかけは1907年(明治40年)10月18日から神奈川県藤沢町鵠沼の旅館東屋で武者小路実篤と志賀直哉が発刊を話し合ったことだと志賀が日記に記している。学習院の学生で顔見知りの十数人が、1908年から月2円を拠出し、明治43年(1910年)春の刊行を期して雑誌刊行の準備を整えたという[1]。同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも『白樺』以外にない。『白樺』は学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。彼らが例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発からである[2]。さらには漢詩や俳諧などの東洋の文芸に関しても雅号・俳号の類を用いなかった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。また白樺派の作家には私小説的な作品も多い。写実的、生活密着的歌風を特徴とするアララギ派と対比されることもある。
白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生、椿貞雄、雑誌『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路はその明るい性格と意志の強さから思想的な中心人物となったと考えられている[3]。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼いころからの知人も多く互いに影響を与えあっていた。
彼らは恵まれた環境を自明とは考えず、人生への疑惑や社会の不合理への憤る正義感をすり減らさずに保ち得た人々であり、トルストイの影響を強く受けたことや有島武郎がその晩年に自分の財産を小作人に分かち与えたこと、武者小路の「新しい村」の実験に見られるような急進主義にもそうした傾向はよくあらわれている[4]。
白樺文学館
白樺文学館は、千葉県我孫子市緑の旧志賀直哉邸跡地前に[5]、2001年(平成13年)1月に白樺派の作品を広く公開するために建設された文学館である[6]。
コンセプト立案者および初代館長は武田康弘。また開館にあたっては日本オラクル初代社長の佐野力が資金提供した。
我孫子市には柳宗悦が1914年(大正3年)に移住し、彼に誘われる形で1915年(大正4年)には志賀直哉が移住して「城の崎にて」「和解」「暗夜行路(前篇のみ)」を同地にて執筆するなど、白樺派と深いつながりのある土地である。さらに1916年(大正5年)には武者小路実篤も居を構えており、彼らとの交流からバーナード・リーチが同地に窯を築くなど、明治後期から大正時代にかけて白樺派の拠点であった。
清春芸術村と清春白樺美術館
現在の山梨県北杜市長坂町中丸に所在する清春芸術村および清春白樺美術館は、武者小路実篤が『白樺』第8巻第10号に発表した「日記のかはり」の中で語った、新美術館建設の理想が元になっている。
武者小路や志賀直哉を敬愛し親交のあった銀座吉井画廊社長・吉井長三が、白樺派の理想を実現すべく、山梨県旧日野春村、旧秋田村、旧清春村の3村合併に伴い、1975年(昭和50年)に廃校となっていた旧清春小学校跡地を買い取り、1981年(昭和56年)に芸術村を建設した。
続いて1983年(昭和58年)には芸術村内に清春白樺美術館を建設。同美術館には白樺派同人の絵画や原稿などを中心とした諸資料が収蔵されている。美術館以外の施設としては、パリ・モンパルナスの集合アトリエ「ラ・リューシュ」を模した会員制貸しアトリエ、東京から移築された梅原龍三郎のアトリエ、ルオー礼拝堂、レストラン(ラ・パレット)などがある。
調布市武者小路実篤記念館
東京都調布市若葉町の武者小路実篤記念館は、実篤が1955年から1976年まで、晩年の20年間を過ごした邸宅(現:実篤公園)の隣接地に1985年10月に調布市が開館。
実篤の本、絵や書、原稿や手紙、実篤が集めていた美術品などを所蔵し、文学や美術などいろいろなテーマによって展覧会をほぼ5週間ごとに開催。閲覧室では、実篤の本、実篤が好きだった画家の画集、友人であった志賀直哉や岸田劉生らの本、雑誌『白樺』や日本近代文学の本などの閲覧も可能。