慶滋保胤
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慶滋 保胤(よししげ の やすたね)は、平安時代中期の貴族・文人・儒学者。丹波権介・賀茂忠行の子。官位は従五位下・大内記。家学であった陰陽道を捨てて紀伝道を志し、姓の賀茂を読み替えて慶滋とした。
経歴
文章博士・菅原文時に師事して文章生から大内記兼近江掾となる。康保元年(964年)に念仏結社『勧学会』の結成に力を尽くした。永観元年(983年)には元号を「永観」に改める際の詔などを起草している。
若い頃より仏教に対する信仰心が厚く[1]、息子の成人を見届けると[2]、寛和2年(986年)に出家して比叡山の横川に住した。また同年、念仏結社『二十五三昧会』の結成にも関わったとされる。法名は始め心覚と称し、その後寂心と改めている。内記入道と呼ばれ、諸国を遍歴した後、洛東如意寺(如意輪寺)で没した。なお、藤原道長に戒を授けたこともあり、保胤が没した際、道長がその供養のために、大江匡衡に諷誦文[3]を作らせたとされる[4]。
弟子に寂照(俗名:大江定基)がいる。
著作
著書『池亭記』は、当時の社会批評と文人貴族の風流を展開し、隠棲文学の祖ともいわれている[5]。また、浄土信仰に傾倒して『日本往生極楽記』を著した。漢詩は『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)及び『和漢朗詠集』に、和歌は『拾遺和歌集』(1首)[6]に作品が収載されており、現代まで伝えられている。
脚注
登場作品
- 説話
- 近代
- 現代
- 陰陽ノ京(渡瀬草一郎)
典拠レコード: