官位

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日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗百済新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。

官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という[1]日本において、官職と位階は律令法律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。

用語

日本の律令には唐の官品令にならった官位令があり、『令義解』は官を大臣以下書吏以上の官職、位を親王一品から少初位までの位階とする[2][1][3]。官位相当における各官職に相当する位階、すなわち相当位のことをいう場合もある[1]。日本では位階だけを指して官位ということはない。位階の前身は冠位である。

朝鮮史学では『三国史記』等の史書に官爵、位、秩、官階、官銜などと記され、日本の冠位・位階にあたる高句麗・百済・新羅の等級を、官位と呼ぶ[4]。よって、朝鮮三国の官位と日本の官位は別物で、朝鮮三国の官位と日本の冠位(あるいは位階)が互いに相同である。

官位制の概要

官位制は中国から他の政治行政制度と共に継受され、日本で独自の発展を遂げた。官吏を序列化する制度は603年推古天皇11年)の冠位十二階に始まり、その後数度の変遷を経る(冠位・位階制度の変遷)。そして、701年大宝元年)に成立した大宝令718年養老2年)に成立した養老令にはそれぞれ『官位令』という令があり、これにより官位制は確立した。官位令によれば位階は皇族には一品(いっぽん)~四品(しほん)の品位(ほんい)4階があり、諸臣は正一位~少初位下の30階があった。

官位制は位階と官職を関連付けて任命することにより、官職の世襲を排して適材適所の人材登用を進めることを目的とした。しかし高位者の子孫には一定以上の位階に叙位する制度(蔭位の制)を設けるなど、当初からその目的は達成困難なものであった。

官位制自体は、形骸化されつつも明治時代に律令法が廃止されるまで続いた。また、位階制度はその後変遷を重ねながらも栄典制度のひとつとして現在に至るまで存続する。

官位制の内容

官職と位階の対応には、幅がある。また、時代によって官位相当も変化する。

下位の位階の者が官位相当よりも高位の官職に就く場合をといい、高位の位階の者が官位相当よりも下位の官職に就く場合をという。また、叙位されたものの官職に就かないことを散位あるいは無官という。

従五位下以上と六位の蔵人は昇殿を許されたために殿上人太政官のうち従三位以上もしくは参議のことを公卿と呼んだ。五位に昇ることを叙爵、冠(こうぶり)賜るという。

俸給は、原則として位階に対して支給される。そのため、異なる官職に就いていても位階が同じならば同じ俸給であった。平安時代以降には皇族・公卿など高い身分にある者、または上級の官職や博士など官職に対しても俸給が支給されるようになった。その他、国司には俸給の他に国司としての収入があった。

官位制の変化

官職奈良時代に法文化された当時はその本来の意味を有していたが平安時代に入ると新しく血脈的な尊卑をも表現するようになり、ひいては家格の象徴となり国家的な意味はほとんどなくなってしまう。本来、官職はその国家的仕事に直結し自己の身分を示すのは位階であったが官職が身分や家柄を示すようになったため官位相当という令制以来の原則にも変化が現れ始め、江戸時代末期に至るまで官職と位階は身分や家格を示す標準となり宮廷生活における権威を持っていた。

官位相当表

以下を参照。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁
  2. 『国史大辞典 第3巻』吉川弘文館、1999年平成11年)、764頁)
  3. 『日本歴史大辞典 第3巻』河出書房、1981年昭和56年)、257頁。石村貞吉『有職故実 上』講談社学術文庫、1987年(昭和62年)、39-40頁
  4. 武光誠『日本古代国家と律令制』92頁注3。

関連項目