大東亜省
大東亜省(だいとうあしょう)は、戦時中の1942年(昭和17年)から1945年(昭和20年)にかけて設置されていた日本の省庁。委任統治領、及び占領地域の統治を業務とした。
概説
1942年6月16日の行政簡素化実施要領において、時局に適応した行政各庁の組織簡素化が求められ、官史削減を含む新官制案が各省庁で検討された。同年7月26日に行政簡素化実施案を閣議決定、各省庁等における簡素化案は9月に纏まり、これらをもとに内閣や各省庁等の官史削減とそれに伴う省務の調整、改組が進められた。こうした行政改編中に、9月15日、『大東亜省設置案』と外務省行政簡素化実施案等が一括決定された。この『大東亜省設置案』は、日本商工会議所等から広域経済圏の担当省庁設置が要望され、企画院を中心として既に検討されていた案のひとつであった。
大東亜省は、東條英機内閣(提案の中心となったのは鈴木貞一企画院総裁)の大東亜省設置案に準じ、1942年(昭和17年)11月1日に設置された。大東亜省は、拓務省廃止に伴い、他省庁(興亜院、対満事務局、外務省東亜局及び南洋局)とともに一元化したものであり、官房、参事、総務局、満洲事務局、支那事務局及び南方事務局によって構成されていた。構想されていたのは、いわゆる大東亜共栄圏諸国を、他の外国とは別扱いとして外務省の管轄から分離させることにより、大日本帝国(日本)の対アジア・太平洋地域政策の中心に据えることであった。
なお、大東亜省の設置の際、9月1日に外務大臣東郷茂徳は辞任し、同日に貴族院議員に勅任された。東郷は、その設置が「二元外交」を招くとともに、上記地域の植民地支配を日本が画策しているという誤ったメッセージとしてアジア諸国や敵国(連合国)から受け取られかねないことを懸念したためである。ちなみに専任の大東亜大臣は初代の青木一男のみでありその後は外務大臣が兼務したものの、青木の在任期間は後の四代の合計よりはるかに長い。
上記目的にて設置されたものの、第二次世界大戦(太平洋戦争)の戦況が悪化するにつれ大東亜省の存在意義は当初の理想とはかけ離れたものとなった。敗戦後の1945年(昭和20年)8月26日の勅令(大東亜省廃止ニ伴フ外務部内臨時職員設置制中改正等ノ件 昭和20年8月26日勅令第491号)により、大東亜省は即日廃止され、外務省に吸収された。
大東亜大臣一覧
- 辞令のある再任は代として数え、辞令のない留任は数えない。
- 臨時代理は欠缺の場合のみ記載し、海外出張等の一時不在代理は記載しない。
代 | 氏名 | 内閣 | 在任期間 |
---|---|---|---|
大東亜大臣(大東亜省) | |||
1 | 青木一男 | 東條内閣 | 1942年11月1日-1944年7月22日 |
大東亜大臣(大東亜省)・外務大臣 | |||
2 | 重光葵 | 小磯内閣 | 1944年7月22日-1945年4月7日 |
3 | 鈴木貫太郎 | 鈴木(貫)内閣 | 1945年4月7日-1945年4月9日 |
4 | 東郷茂徳 | 鈴木(貫)内閣 | 1945年4月9日-1945年8月17日 |
5 | 重光葵 | 東久邇宮内閣 | 1945年8月17日-1945年8月25日 |
設置当初の幹部人事
※カッコ内は前職
内部部局
- 総務局長:竹内新平(対満事務局次長)→杉原荒太
- 総務課長:杉原荒太(外務省調査部第1課長)
- 経済課長:愛知揆一(大蔵省外事課長)
- 調査課長:塩見友之助
- 錬成課長:島津久大
- 考査課長:
- 満洲事務局長:今吉敏雄(拓務省拓北局長)
- 支那事務局長:宇佐美珍彦(興亜院部長)
- 南方事務局長:水野伊太郎(外務省南洋局長)
- 交易局:山本茂
次官
北京駐在公使
代 | 氏名 | 任命 | 免職 | 前職 | 備考 |
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1 | 塩沢清宣 | 昭和17年11月1日 | 昭和19年10月14日 | 陸軍少将・陸士26期 | |
2 | 楠本実隆 | 昭和19年10月14日 | 陸軍中将・陸士24期 |
張家口駐在公使
代 | 氏名 | 任命 | 免職 | 前職 | 備考 |
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1 | 岩崎民男 | 昭和17年11月1日 | 昭和19年7月14日 | 陸軍少将・陸士27期 | |
2 | 楠本実隆 | 昭和19年8月1日 | 陸軍少将・陸士31期 |