朝鮮のスポーツ
本項目では、朝鮮のスポーツについて日本統治時代の朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国(以下「北」と略称)、大韓民国(以下「南」と略称)を含めた朝鮮全体のスポーツを説明する。
Contents
概説
李氏朝鮮時代には、肉体的活動を卑しめる儒教の為に体育やスポーツは発達しなかった。崇文卑武(学芸を崇めて武芸を卑しめる)の思想が普及し、文官は道徳や地位が高いとして崇敬され、武官は道徳や地位が低いとして軽侮されたので、武技も不振だった[1]。
近代的なスポーツは日本統治下で広まった。李氏朝鮮の教育は科挙受験のための古典漢文教育に偏っていたが、日本統治下での新しい学校教育の中で体育が導入された。日本統治下で、各種の競技団体が設立されて、競技大会が開かれた。日本統治下では、選手は日本の国内大会に参加したり、日本代表としてオリンピックなどの国際大会にも参加した。
第二次世界大戦の結果として日本の統治が終了(光復)し、朝鮮半島は南北二つの国家に分かれたが国際大会に南北合同チームで参加し「コリア」の名前で国旗の代わりに統一旗を使うこともある。南では、現在四大プロスポーツとして野球、サッカー、バスケットボール、バレーボールがある。以下、競技別に説明する。
総合大会
1919年に朝鮮在住日本人が朝鮮体育協会を設立した。次いで1920年に朝鮮人の団体である朝鮮体育会が創立された。朝鮮体育会は、1920年に第1回全朝鮮野球大会を開催し、以後、全朝鮮蹴球大会 (1921) 、全朝鮮庭球大会 (1921) 、陸上大会 (1924) 、氷上大会 (1925) など各種競技大会を開催した。1925年に朝鮮で初の総合競技場である京城運動場(後の東大門運動場)が作られ、同じ年に朝鮮神宮が作られたことを記念して、総合競技大会である朝鮮神宮競技大会(朝鮮神宮奉賛体育大会)が開催された。以後、毎年開催され、明治神宮競技大会の予選大会の役割も果たすようになった。一方、朝鮮体育会も1934年に、野球·サッカー·テニス·陸上·バスケットボールの5種目からなる総合競技大会を開いたが、開催回数は1920年の野球大会を第1回として数えたため、第15回全朝鮮総合競技大会と呼ばれた。朝鮮体育会は1938年に解散させられ、朝鮮体育協会に統合させられたので、全朝鮮総合競技大会も中止となった。
第二次大戦後の1945年に朝鮮体育会(現在の大韓体育会)が再建された。全朝鮮総合競技大会は、南の大韓民国全国体育大会に引き継がれて開催されており、回数は大会中断中も通算して数えているため1945年が第26回大会となっている。大会は個人別から地方別の市・道対抗戦に変わっている。
北の体育大会には、白頭山賞体育競技大会(백두산상 체육경기대회)、万景台賞体育競技大会(만경대상 체육경기대회)、普天堡たいまつ賞体育競技大会(보천보홰불상 체육경기대회)などがある。競技場には、金日成競技場(김일성경기장)、5·1競技場(5·1경기장)、東平壌競技場(동평양경기장)、羊角島競技場(양각도경기장)、アンゴル体育村(안골체육촌)、平壌体育館(평양체육관)、平壌氷上館(평양빙상관)、蒼光院水泳場(창광원수영장)などがある。
オリンピック
1932年にロサンゼルスオリンピック日本選手団として、3人(マラソン2人、ボクシング1人)が朝鮮人として初めてオリンピックに出場した。次いで冬季オリンピックにも、1936年2月にガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック日本選手団として、スピードスケートに3人が出場した。1936年8月には、ベルリンオリンピック日本選手団として朝鮮人が7人(マラソン2人、バスケットボール3人、サッカー1人、ボクシング1人)出場し、マラソンで孫基禎が金メダルを獲得した。
第二次大戦後は、南の韓国は、夏冬とも1948年からオリンピックに参加している。金メダルは、夏冬あわせて104個を獲得しているが、種目別で多いのはショートトラックスピードスケート19、アーチェリー19、レスリング11、柔道11、テコンドー10、などである(2012年現在)。北の北朝鮮は、冬は1964年、夏は1972年からオリンピックに参加している。金メダルは、夏は14個(重量挙げ 4、レスリング 3、ボクシング 2、体操競技 2、柔道 2、射撃 1)獲得しているが、 冬季はまだない(2012年現在)。
1988年に南でソウルオリンピックが開かれた。北は当初は共同開催を主張したが、それができないと不参加となった。北は、ソウルオリンピックに対抗するものとして、翌1989年に第13回世界青年学生祭典を開いた。2018年には平昌オリンピックが開催され、一部競技では南北合同チームが組まれた。
個人種目での活躍が目立ち、中でも「軽量級」に多いのが特徴ともいわれる[2]。イギリスの日刊紙ガーディアンは、ロンドン五輪における「GDP数値と選手団規模」の比較では、北朝鮮のメダル順位が1位という結果を報道した[3]。
陸上
峰岸昌太郎は養正高等普通学校の体育教師として陸上競技を指導し、1929年から1931年まで大阪神戸間中等学校駅伝(阪神駅伝)で3連覇を成し遂げた。峰岸の生徒である金恩培と権泰夏は、1932年のロサンゼルスオリンピック男子マラソンで、日本代表として6位と9位になった[4]。1936年にはベルリンオリンピック男子マラソンで日本代表として、孫基禎が金メダル、南昇竜が銅メダルを獲得した。
劉約翰は1934年にマニラで行われた第十回極東選手権競技大会において円盤投げ四等になった[5]。
1947年にボストンマラソンで徐潤福が優勝。1950年にはボストンマラソンで咸基鎔が優勝、宋吉允が2位、崔崙七が3位となり1 - 3位を独占した。1992年にはバルセロナオリンピック男子マラソンで黄永祚が金メダルを獲得した。
サッカー
朝鮮で最も人気のあるスポーツはサッカーである[6][7]。1921年から朝鮮体育会主催で全朝鮮蹴球大会(ko:전조선축구대회)が開かれていたが、これとは別に平壌の関西体育会( ko:관서체육회)も全朝鮮蹴球大会( ko:전조선축구대회 (관서체육회))を開いていた。1933年に朝鮮蹴球協会が設立された。
1935年には、第15回全日本総合蹴球選手権大会(天皇杯全日本サッカー選手権大会)で全京城蹴球団が優勝し、第8回明治神宮競技大会サッカー競技でも京城蹴球団が優勝した。明治神宮競技大会サッカー競技では、この後も、咸興蹴球団、平壌日穀、平壌兵友が優勝している。
1936年のベルリンオリンピックにはサッカー日本代表として金容植が出場した。この大会で日本はスウェーデンを破りベルリンの奇跡と呼ばれた。
第二次大戦後、大韓サッカー協会は1947年に、朝鮮民主主義人民共和国サッカー協会は1958年に、国際サッカー連盟(FIFA)に加入した。ワールドカップでの、サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表、サッカー大韓民国代表、サッカー朝鮮民主主義人民共和国女子代表、サッカー大韓民国女子代表の成績は下表の通りである。
開催国 / 年 | 北 | 南 |
---|---|---|
1954 | 不参加 | グループリーグ敗退 |
1958 | 不参加 | 不参加 |
1962 | 不参加 | 予選敗退 |
1966 | ベスト8 | 不参加 |
1970 | 棄権 | 予選敗退 |
1974 | 予選敗退 | 予選敗退 |
1978 | 棄権 | 予選敗退 |
1982 | 予選敗退 | 予選敗退 |
1986 | 予選敗退 | グループリーグ敗退 |
1990 | 予選敗退 | グループリーグ敗退 |
1994 | 予選敗退 | グループリーグ敗退 |
1998 | 不参加 | グループリーグ敗退 |
2002 | 不参加 | 4位 |
2006 | 予選敗退 | グループリーグ敗退 |
2010 | グループリーグ敗退 | ベスト16 |
2014 | 予選敗退 | グループリーグ敗退 |
開催国 / 年 | 北 | 南 |
---|---|---|
1991 | 予選敗退 | 予選敗退 |
1995 | 不参加 | 予選敗退 |
1999 | グループリーグ敗退 | 予選敗退 |
2003 | グループリーグ敗退 | グループリーグ敗退 |
2007 | ベスト8 | 予選敗退 |
2011 | グループリーグ敗退 | 予選敗退 |
2015 | 不参加[8] | ベスト16 |
北の国内では、2010年に最上級蹴球連盟戦が設立され、4.25体育団や平壌市体育団など10クラブで構成されている。
南の国内では、1946年から全国サッカー選手権大会が開かれていたが、2001年から韓国FAカップに統合された。1983年にプロリーグであるKリーグ(設立時の名称はスーパーリーグ)が設立された。
野球
1920年に朝鮮体育会が第1回全朝鮮野球大会を開いた。日本の都市対抗野球大会にも第1回大会 (1927) から朝鮮の代表(都市対抗野球大会 (朝鮮))が出場しており、第14回大会 (1940) と第16回大会 (1942) で全京城が優勝した。
李栄敏(ko:이영민 (야구 선수))は、1928年に朝鮮で最初のホームランを打った。1934年に日米野球にも出場し、朝鮮野球協会(現在の大韓野球協会)初代理事長となった。1958年に、その名前を記念して、韓国の高校野球で最高打率を記録した選手に授与する李栄敏打撃賞(ko:이영민 타격상)が制定された。
南では、1982年に韓国野球委員会によるプロ野球(KBOリーグ)が始まった。過去に日本との間で、日韓プロ野球スーパーゲーム(1991、1995、1999)、日韓クラブチャンピオンシップ(2009、2010)が行われた。アジアシリーズにも参加している。野球大韓民国代表は2008年北京オリンピックで金メダルを獲得し、2009 ワールド・ベースボール・クラシックでも準優勝を果たした。
北では、野球はあまり盛んではないが、野球朝鮮民主主義人民共和国代表が国際大会に参加したことがある。
バスケットボール
1925年に朝鮮バスケットボール協会(現在の大韓バスケットボール協会)が発足。1936年には、全日本総合バスケットボール選手権大会で延喜専門学校(現在の延世大学校)が優勝し、ベルリンオリンピックにも日本代表として張利鎮(장이진)、李性求(이성구)、廉殷鉉(염은현)が出場した。全日本選手権では、その後も延喜専門学校や普成専門学校(現在の高麗大学校)が優勝している。
南では、1997年にプロリーグである韓国バスケットボールリーグが始まった。女子は韓国女子バスケットボールリーグがある。日本との間では、李相佰杯争奪日韓学生バスケットボール競技大会が行われており、かつてはbj-KBL チャンピオンシップゲームズや日韓Wリーグチャンピオンシップが行われていた。オリンピックのバスケットボール競技では女子が1984年に銀メダルを獲得した。男子は1948年の8位が最高で1996年を最後にオリンピック出場を逃し続けている。
バスケットボール朝鮮民主主義人民共和国代表は1993年のアジア選手権で準優勝した。
バレーボール
1925年に、日本から三枝祐竜を招いてバレーボールの講習会が行われ、同じ年、第1回全朝鮮排球大会が京城女子高等普通学校(現在の京畿女子高等学校、ko:경기여자고등학교)の校庭で行われた。1927年には男子の、1931年には女子のバレーボールが、朝鮮神宮競技大会の正式種目となった[9]。
オリンピックのバレーボール競技では、女子は、1972年に北が、1976年に南がそれぞれ銅メダルを獲得した。男子は南は1984年の5位が最高で、北はオリンピック未出場(2012年現在)。
南では、2005年にプロリーグであるVリーグが開始された。2006年には日本と日韓Vリーグトップマッチが始まった。
ハンドボール
1936年に日本に留学していた李丙学が朝鮮に戻って普成専門学校(現在の高麗大学校)でハンドボールを行ったのが最初である[10]。1940年に朝鮮ハンドボール協会が設立された。
南では長く不人気だったが、1980年代から国際的に成績を上げ、人気も出始めた。オリンピックのハンドボール競技では、南の女子が1988年と1992年に連覇している。南の国内リーグとしてハンドボール韓国リーグがある。
重量挙げ
朝鮮語では力道(ko:역도)という。1936年に第1回全日本重量挙競技選手権大会で金容星と金晟集(ko:김성집 (역도 선수))が優勝した。南寿逸(남수일)は、1938年の第3回日本選手権大会と1939年の第4回全日本選手権大会で、世界新記録を樹立した[11]。
第2次大戦後、金晟集と南寿逸は南の代表としてオリンピックに出場し、金晟集は1948年と1952年に連続銅メダル、南寿逸は1948年に4位となった。オリンピックのウエイトリフティング競技で2012年までに獲得した金メダルは、南が3個(うち女子1個)、北は4個(うち2個)である。
スケート
1933年に第5回全日本スピードスケート選手権大会が鴨緑江で開かれた。1936年2月にガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック日本選手団として金正淵、李聖徳、張祐植が出場した。
1934年に第八回全日本氷上選手権大会(昭和9年学生氷上大会)が日光で開かれ、崔龍振が500m(日本及び学生新記録)及び1500m(学生新記録)で優勝した[5]。現在、崔龍振は大韓氷上競技連盟常任顧問になっている[12]。
南では、2010年にバンクーバーオリンピックのスピードスケート競技で、男子500mで牟太釩(ko:모태범)、男子10000mで李承勲(ko:이승훈 (스피드 스케이팅 선수))、女子500mで李相花(ko:이상화 (스피드 스케이팅 선수))が金メダルを獲得した。オリンピックのショートトラックスピードスケート競技では、1992年に正式種目となってから、19個の金メダルを獲得し、国別では1位となっている。金琪焄(ko:김기훈 (쇼트트랙 선수))、安賢洙、全利卿、陳善有などの選手が活躍した。フィギュアスケートは、長い間良い成績が上げられなかったが、2010年バンクーバーオリンピックで金妍兒が金メダルを獲得した。
北では北朝鮮フィギュアスケート選手権が行われている。
ゴルフ
日本統治時代に、京城ゴルフ倶楽部、釜山ゴルフ倶楽部、元山ゴルフ倶楽部、平壌ゴルフ倶楽部などが作られたが、朝鮮には技術指導のできるプロがいなかったので、内地から浅見緑蔵、安田幸吉、中村兼吉というトップクラスのプロを招いた。その中で育った延徳春(연덕춘)(当時は日本名である延原徳春を名乗っていた)が、1941年に日本オープンゴルフ選手権競技で優勝した。戦争のため翌年から大会が中止になり、優勝カップは朝鮮に渡ったまま行方不明になってしまった。戦後、延徳春は競技出場のため何回も日本に来たが、優勝カップの行方については語ろうとしなかった[13]。
近年は朴セリら南出身のゴルファーが世界的に活躍している。
武術・格闘技
朝鮮の伝統的な格闘技としてシルムなどがある。コムド(剣道)、ハプキドー(合気道)、コハプト(居合道)、テコンドー(空手)、など日本起源のものについて、韓国起源説が語られる事がある。
プロレス
日本で力道山や大木金太郎など朝鮮出身のプロレスラーが活躍した。南には韓国プロレスリング連盟などの団体がある。1995年にアントニオ猪木らが平和のための平壌国際体育・文化祝典でプロレス興行を行った。
ボクシング
オリンピックのボクシング競技では、日本統治時代に、1932年に黄乙秀(ko:황을수)がウェルター級の日本代表として[14]、1936年には李奎煥(이규환)がライト級の日本代表として出場した[15]。第二次大戦後は、北は崔鉄洙などが金メダルを2個、南は金光善などが金メダルを3個獲得している。女子では北は尹錦珠、南は成受娟がともに2010年アジア競技大会で銅メダルを獲得しており、2012年のオリンピックには北から金慧松が出場した。
南ではプロボクシングのコミッションである韓国ボクシング委員会(KBC)が創設されており、世界王座管理団体のうち、世界ボクシング協会(WBA)、世界ボクシング評議会(WBC)、世界ボクシング機構(WBO)に加盟していた(国際ボクシング連盟(IBF)には1980年代に加盟していたが、後脱退)。しかしKBCで内部抗争が起こり、その結果2014年に新団体の韓国ボクシング連盟(KBF)が結成された。WBCとWBOはKBCのみ、WBAはKBFのみで公認されており、IBFは両団体とも公認されているが、KBFとの関係が親密である。1966年に金基洙が初の世界王座奪取に成功して以来これまでに43人の男子世界王者が誕生した。特に著名な王者としてはライトフライ級世界王座17度防衛を果たした柳明佑が挙げられる。しかし、2007年に池仁珍が王座を剥奪されたのを最後に2014年現在まで男子世界王者は不在の状態が続いている。女子プロボクシングは2000年より公式に認可され、2003年には李仁栄が初の女子世界王者(国際女子ボクサー協会)となり、WBA・WBC・WBOの3団体(IBFはなし)の女子世界王者は2017年4月までに13人(暫定含む)が誕生した。
北では前出の崔鉄洙が日本でプロに転向した後、中国に拠点を移して活動した。2005年から2007年までは女子プロボクシングに力を入れて国内で興行を打ち、3人のWBC女子世界王者が誕生しているが、現在はその活動も途絶えている。
ラグビー
日本統治時代の1928年に松岡正男が朝鮮にラグビー協会を設立した[5]。日本の全国中等学校蹴球大会(現在の全国高等学校ラグビーフットボール大会)で、1930年から1932年まで京城師範学校が3連覇し、1936年には培材高普が優勝している。
公営競技
脚注
- ↑ 체육 한국민족문화대백과
- ↑ 選手数、日本の2割で金4個 北朝鮮の「なぜ」 日本経済新聞
- ↑ <北朝鮮>ロンドン五輪で過去最高の成績
- ↑ 西尾達雄 「養正高等普通学校体育教師峰岸昌太郎について」 北海道大学大学院教育学研究院紀要 第104号 2008年3月
- ↑ 5.0 5.1 5.2 毎日年鑑 大阪毎日新聞社東京日日新聞社共編 1935年
- ↑ http://www.gallup.co.kr/gallupdb/reportContent.asp?pagepos=0&search=&searchKeyword=&selectYear=&seqNo=211 韓国ギャラップ 2009/05/20
- ↑ http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=081&aid=0002469504 ソウル新聞2014-10-07
- ↑ 2011年大会でドーピング規程に違反した選手がいたため、出場資格を停止された。
- ↑ 배구 한국민족문화대백과
- ↑ 馬場太郎 「革命政権の韓国を訪れて(海外ルポ)」 国際関係研究 3, 56-61, 1962年
- ↑ 社団法人日本ウエイトリフティング協会60年史
- ↑ 新たな日韓関係願って 韓国人スケーター参加 信濃毎日新聞 1998年2月5日
- ↑ 日本ゴルフ協会 「日本人が創造した朝鮮のゴルフと延徳春の活躍」 2004 DECEMBER vol.76
- ↑ “Otsu Shuko Biography and Olympic Results” (英語). Sports-Reference.com. . 2012年8月25日閲覧.
- ↑ “Keikan Ri Biography and Olympic Results” (英語). Sports-Reference.com. . 2012年8月25日閲覧.