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泉岳寺
所在地 東京都港区高輪二丁目11番1号
位置 北緯35度38分15.8秒
東経139度44分10.6秒
山号 萬松山
宗派 曹洞宗
寺格 江戸三箇寺
本尊 釈迦如来
創建年 慶長17年(1612年
開基 門庵宗関、徳川家康(願主)
文化財 浅野長矩赤穂浪士墓(国の史跡
地図
泉岳寺の位置
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泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗寺院青松寺総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる[1]

現在の住職駒澤大学名誉教授小坂機融

歴史

慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利浅野朽木丹羽水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。

赤穂事件で有名な浅野長矩赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が訪れる。また、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催される。また境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。

義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある[2]

他に、「高島易断」で知られる高島嘉右衛門の墓もある。

学寮

境内には学寮があり、後に吉祥寺旃檀林学寮、青松寺獅子窟学寮と統合して駒澤大学に発展したほか、現在でも僧侶は境内の学寮で共同生活を行いながら大学に通学している。

文化財

史跡(国指定)

  • 浅野長矩墓および赤穂義士墓
元禄14年3月14日江戸城中で吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩浅野長矩(内匠頭)の墓、及び、元禄15年12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂浪士(泉岳寺では「赤穂義士」と呼んでいる)の墓である。
赤穂浪士は一般に「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔がある。48基のうち、この萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には埋葬されていない間光風(新六)、そして討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行(吉右衛門)の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている[3]

アクセス

脚注

  1. 泉岳寺公式HPの『泉岳寺の歴史』に「江戸時代当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして~」との記述がある。
  2. 勝部真長1994『日本人的心情の回帰点 忠臣蔵と日本人』(PHP研究所)p.169-73 - 当時の住職、酬山の強欲振りとそれに対する社会から向けられた批判について詳しい記述あり。
  3. 『図説日本の史跡 第8巻 近世近代2』、同朋舎、1991

参考資料

  • 藤田正著『「別れ」事例内なる赤穂浪士 : 江戸期武士集団の社会心理学的考察』
  • 浦辺登『霊園から見た近代日本』弦書房、2011年、ISBN 978-4-86329-056-3

関連項目

外部リンク

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