「村上義一」の版間の差分
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村上 義一(むらかみ ぎいち、1885年(明治18年)11月10日 - 1974年(昭和49年)1月20日)は、官僚、政治家、実業家。日本通運や近畿日本鉄道の社長、日本民営鉄道協会顧問、日本交通公社会長などを務めた。
来歴・人物
滋賀県東浅井郡虎姫町(現・長浜市)出身。第三高等学校 (旧制)、東京帝国大学卒業。1912年に鉄道院(のち鉄道省)に入り、その後1930年には南満州鉄道(満鉄)で理事となった。1937年に設立された鉄道省系の国営企業であった日本通運の副社長に、1940年には社長に就任する(1943年まで)。1946年1月に幣原内閣(公職追放後の改造内閣)において運輸大臣に就任、同年6月5日には貴族院勅選議員になった[1](1965年に引退)。
1947年、近畿日本鉄道(近鉄)は公職追放により、社長の種田虎雄が職を追われることになった。このため、種田は同年代の同じ鉄道官僚出身である村上に後を任せることを決め、打診をした。
村上は参議院議員(同年貴族院から移行)の職務があるために、大阪市に本拠がある近鉄の社長になるのは難しいと断るものの、種田の再三の要請に負け、引き受ける事にする。この時の、村上の就任条件は、
- 議員活動のため、月の半分のみ大阪に滞在する
- 近鉄からは報酬は貰わない。大阪滞在時の宿泊先のみ確保してくれればよい
というものであった。
このため、近鉄では専務の佐伯勇と玉置良之助が実務面を司ることにし、村上は社長とはいえ、名前だけの存在という感が強かった。
なお、当時、近鉄の前身である参宮急行電鉄元専務の井内彦四郎を社長に担ぎだそうという動きもあったが、井内がこれを拒んだため、実現はしなかった。
1951年12月に佐伯に社長を譲り取締役も退任、直後に第3次吉田内閣第3次改造内閣にて運輸大臣に就任した。なお、前後するが1949年に日本国有鉄道が設立された際には、同総裁の候補にもなっている。翌1952年に運輸大臣を外れると、近鉄に相談役として復帰、1974年に亡くなるまで務めた。
なお、逝去後に村上家よりの満鉄関係記録が慶應義塾大学法学部に寄贈され、『村上義一文書』として慶應義塾大学三田図書館(現・三田メディアセンター)に所蔵されている。これは村上が理事在任中に職務上入手した文書類で、満鉄の歴史を語る上でも重要な資料となっている。
像が滋賀県長浜市の長浜城に、墓所は東京都の多磨霊園にある(胸像も建つ)。
脚注
- ↑ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
関連項目
外部リンク
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