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麒麟児 和春(きりんじ かずはる、本名:垂沢 和春(たるさわ かずはる)、1953年3月9日 - )は、千葉県東葛飾郡(現:柏市)出身の元大相撲力士。二所ノ関部屋所属、最高位は東関脇。現役時代の体格は182cm、146kg。得意技は突っ張り、押し、左四つ、寄り。
12代式守錦太夫は甥。
Contents
人物・エピソード
- いわゆる「花のニッパチ組」の一人として長く土俵を沸かせた「華のある力士」だった[1]。力士の多くが土俵上では感情を表さないことを美徳としていた当時、惜敗して土俵に這うと、拳を土俵に叩きつけて悔しがる様子を見せていた。
- 現役時代より柔和で人柄が良いことで知られており、懇意にしていた近所の女性からは弟のようにかわいがられていたという。それに関して、その女性から幕内定着以降暫く小遣いを渡されることがあったがその度に好意を無駄にしないために有難く受け取ったというエピソードが存在している。
- 力士のテレビCM出演が盛んに行われた頃、四股名からの連想で、旭國とともにサントリーのCMに出演した。
- ドワンゴに勤務する息子がいる。2011年5月の技量審査場所ではその息子が偶然にもニコニコ生放送での動画配信を担当していた。また息子の妻の祖先には第7代横綱・稲妻雷五郎がいるという[2]。
来歴
入門から十両昇進まで
父は国鉄の駅長を務めていたので夜勤が多く、病気がちな母を助けるために姉と二人でよく家事を手伝っていたという。小学2年生から柔道を行っていたが、中学入学時に90キロに達した体格を生かして柔道の大会で活躍したため相撲を志すようになったという。中学2年生のときに力士を志して両国へ出てきたが立浪部屋(羽黒山)に断られ、時津風部屋に行くと時津風(双葉山)は不在、3つめに訪れた二所ノ関部屋で二所ノ関(佐賀ノ花)が入門を認めてくれた。1967年5月場所で初土俵。幕下時代には生活態度を巡って兄弟子と口論になって反発した末に一旦髷を切って脱走したが直後に二所ノ関から寛容な態度で説得され、これを機に熱心に稽古をするようになった。1973年の9月場所と11月場所、幕下で2場所連続全勝優勝で十両に昇進。本名の「垂沢」から、兄弟子の大関・大麒麟が若手時代に名乗っていた四股名である「麒麟児」に改名。ちなみに十両昇進年齢が20歳以下なら「麒麟児」、21歳以上なら「海山」を名乗らせるつもりだったらしい。[3]
入幕以降
1974年9月場所新入幕、好成績でいきなり横綱・輪島にあわせられるなど[4]、すぐに幕内上位に定着。突っ張りを得意としたきっぷのいい押し相撲(左四つでも相撲が取れた)で入幕以来7場所連続勝ち越して関脇まで昇進し三役と三賞の常連になる[1]。輪島とは初顔の対戦以来、10度目の対戦(1976年9月場所)まで7勝3敗とカモにしていた(その後は逆にカモにされ、1不戦敗を含む1勝12敗)。同タイプの富士櫻との取組は人気を博し、1975年5月場所の8日目の天覧相撲では富士櫻と108発[5]の猛烈な突っ張り合いを見せ[1]、昭和天皇が思わず身を乗り出したことは有名な話で、協会も昭和天皇が観戦する日にわざわざ割を組んだほどだった。また、時間前に立合うこともしばしばあった。本人も富士櫻との対戦が現役時代最高の思い出だったと語る(ちなみに対戦成績は麒麟児が17勝9敗と勝ち越している)。
同部屋の天龍が二所ノ関を継承した金剛と確執を抱いたことを原因として1976年9月場所を最後に廃業した際、仲の良かった麒麟児は何度も引き止めようとしたと伝わっている。[6]
1979年に左膝を負傷して十両陥落。その後小結まで番付を戻すが1981年以降になると、次第に上位には通じなくなり、幕内上位では負け越し、番付が下がると勝ち越すというパターンの繰り返しが続き、いわゆるエレベーター力士として引退まで幕内に長く留まった。昭和天皇も「麒麟児は今度は勝ち越す番だね。下位に下がったから」と言ったエピソードがあり、引退までのほとんどがこの星取りパターンだった。1981年7月場所から1984年11月場所まで実に21場所の間、地方場所では勝ち越し、東京場所では負け越しを交互に繰り返している。両国国技館杮落としの1985年1月場所では9勝6敗と勝ち越し、このパターンをストップさせたものの、逆に翌3月場所で4勝11敗と負け越した。また1986年11月場所から1988年5月場所までの10場所間は地方場所で勝ち越し、東京場所で負け越しというパターンを辿っている。
現役引退
1988年9月場所に以前から痛めていた左膝を再度負傷、この場所限りで引退し年寄・北陣を襲名した。なお、引退の経緯については入門時の師匠である佐賀ノ花の未亡人が「あなたも十分やったから、もう(辞めても)いいんじゃない」と言われ、「もう潮時かな」と思ったことなどを語っている。[7]
現役引退後はNHKのテレビ中継や『サンデースポーツ』の解説で、実技をふまえたわかりやすい説明で視聴者から親しまれた。
2018年3月8日に停年(定年)を迎えたが、再雇用制度を利用せず日本相撲協会を退職した。
主な成績
- 通算成績:773勝792敗34休 勝率.494(出場回数1562は歴代8位、敗北数は歴代8位)
- 幕内成績:580勝644敗34休 勝率.474(出場回数1221は歴代5位、敗北数は歴代4位)
- 現役在位:129場所
- 幕内在位:84場所(歴代6位)
- 三役在位:17場所 (関脇7場所、小結10場所)
- 三賞:11回
- 殊勲賞:4回(1975年9月場所、1976年7月場所・9月場所、1978年11月場所)
- 敢闘賞:4回(1975年1月場所・5月場所、1982年3月場所、1988年3月場所)
- 技能賞:3回(1975年3月場所、1976年7月場所、1978年9月場所)
- 金星:6個(輪島2個、北の湖1個、三重ノ海1個、2代若乃花1個、大乃国1個)
- 各段優勝
- 十両優勝:1回(1974年7月場所)
- 幕下優勝:2回(1973年9月場所、1973年11月場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
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1967年 (昭和42年) |
x | x | (前相撲) | (前相撲) | 東序ノ口14枚目 3–4 |
東序ノ口5枚目 3–4 |
1968年 (昭和43年) |
西序二段125枚目 4–3 |
東序二段85枚目 2–5 |
東序二段98枚目 5–2 |
西序二段55枚目 3–4 |
西序二段62枚目 3–4 |
西序二段66枚目 3–4 |
1969年 (昭和44年) |
東序二段70枚目 6–1 |
西序二段15枚目 4–3 |
西三段目95枚目 3–4 |
西三段目99枚目 3–4 |
東序二段10枚目 5–2 |
東三段目78枚目 6–1 |
1970年 (昭和45年) |
西三段目36枚目 1–6 |
東三段目64枚目 3–4 |
西三段目69枚目 4–3 |
東三段目46枚目 6–1 |
東三段目14枚目 2–5 |
東三段目32枚目 5–2 |
1971年 (昭和46年) |
東三段目3枚目 4–3 |
西幕下52枚目 6–1 |
東幕下24枚目 4–3 |
西幕下18枚目 4–3 |
東幕下16枚目 2–5 |
東幕下31枚目 5–2 |
1972年 (昭和47年) |
東幕下17枚目 5–2 |
東幕下7枚目 3–4 |
東幕下12枚目 4–3 |
東幕下8枚目 2–5 |
西幕下21枚目 3–4 |
東幕下28枚目 5–2 |
1973年 (昭和48年) |
東幕下14枚目 4–3 |
西幕下11枚目 3–4 |
西幕下15枚目 3–4 |
東幕下21枚目 3–4 |
西幕下30枚目 優勝 7–0 |
東幕下2枚目 優勝 7–0 |
1974年 (昭和49年) |
東十両9枚目 8–7 |
東十両7枚目 6–9 |
西十両10枚目 9–6 |
西十両2枚目 優勝 12–3 |
東前頭9枚目 9–6 |
東前頭5枚目 8–7 |
1975年 (昭和50年) |
東前頭筆頭 10–5 敢★ |
東小結 8–7 技 |
東小結 9–6 敢 |
西関脇 8–7 |
西張出関脇 8–7 殊 |
東張出関脇 7–8 |
1976年 (昭和51年) |
西前頭筆頭 4–11 |
東前頭8枚目 6–9 |
東前頭11枚目 10–5 |
西前頭4枚目 11–4 殊技★★ |
東関脇 8–7 殊 |
東張出関脇 5–10 |
1977年 (昭和52年) |
西前頭3枚目 6–9 |
西前頭6枚目 8–7 |
東前頭3枚目 4–7–4[8] |
西前頭9枚目 9–6 |
東前頭4枚目 8–7 |
西小結 3–12 |
1978年 (昭和53年) |
東前頭8枚目 9–6 |
西前頭2枚目 4–11 |
東前頭10枚目 11–4 |
西前頭筆頭 5–10 |
西前頭5枚目 12–3 技 |
東小結 8–7 殊 |
1979年 (昭和54年) |
西関脇 8–7 |
西関脇 5–6–4[9] |
西前頭3枚目 3–12 |
西前頭12枚目 9–6 |
東前頭4枚目 休場 0–0–15 |
東十両2枚目 10–5 |
1980年 (昭和55年) |
東前頭13枚目 8–7 |
東前頭10枚目 11–4 |
西前頭筆頭 5–10 ★ |
東前頭4枚目 8–7 ★ |
西小結 7–8 |
西前頭筆頭 6–9 |
1981年 (昭和56年) |
西前頭4枚目 5–10 |
西前頭9枚目 9–6 |
東前頭4枚目 8–7 |
東前頭筆頭 9–6 |
東張出小結 4–11 |
西前頭6枚目 9–6 |
1982年 (昭和57年) |
東前頭2枚目 6–9 |
東前頭5枚目 11–4 敢 |
東小結 2–13 |
西前頭9枚目 9–6 |
西前頭4枚目 4–11 |
東前頭12枚目 11–4 |
1983年 (昭和58年) |
東前頭2枚目 3–12 |
東前頭10枚目 10–5 |
西小結 2–13 |
西前頭9枚目 10–5 |
西前頭筆頭 3–12 |
東前頭10枚目 10–5 |
1984年 (昭和59年) |
東前頭筆頭 4–11 |
東前頭9枚目 11–4 |
東小結 5–10 |
東前頭5枚目 8–7 |
東前頭2枚目 3–12 |
西前頭12枚目 8–7 |
1985年 (昭和60年) |
東前頭9枚目 9–6 |
東前頭4枚目 4–11 |
東前頭12枚目 9–6 |
西前頭6枚目 6–9 |
東前頭11枚目 9–6 |
東前頭2枚目 5–10 |
1986年 (昭和61年) |
東前頭8枚目 9–6 |
西前頭3枚目 6–9 |
西前頭8枚目 8–7 |
東前頭5枚目 7–8 |
西前頭6枚目 6–9 |
東前頭10枚目 10–5 |
1987年 (昭和62年) |
東前頭2枚目 4–11 |
東前頭10枚目 9–6 |
西前頭2枚目 3–12 |
東前頭9枚目 9–6 |
東前頭筆頭 5–10 |
東前頭7枚目 9–6 |
1988年 (昭和63年) |
西小結 2–13 |
西前頭7枚目 10–5 敢 |
東前頭筆頭 6–9 ★ |
東前頭4枚目 3–12 |
東前頭13枚目 引退 0–2–11[10] |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
- 垂沢(たるさわ、1967年9月場所 - 1973年11月場所)
- 麒麟児(きりんじ、1974年1月場所 - 1988年9月場所)
年寄変遷
- 北陣 和春 (きたじん かずはる 1988年9月-2018年3月)
CM出演
関連項目
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p21
- ↑ 元力士を父に持つニコ動大相撲担当「力士が親方に怒られる様子が見られることも」 - ニコニコニュース・2011年5月22日
- ↑ 映像で見る DVDマガジン『国技大相撲』昭和51・52年編 ベースボールマガジン社 2010年2月発売参照。
- ↑ この一番は注文相撲であっけなく輪島の勝ちとなったが、横綱らしくない取り方と解説者から「注文」をつけられた。
- ↑ 2012年10月10日放送『マツコ&有吉の怒り新党』より。
- ↑ 一般にはプロレス関係者と「幕内で勝ち越してから転身」と約束していたという説が伝わるが、他方で金剛の独断で天龍の意志に反して廃業届を出されたとする説もある。
- ↑ 『相撲』8月号 「親方紳士録/土俵人生いろいろ 第8回 北陣親方(元関脇麒麟児)」 ベースボールマガジン社 2009年7月30日発売参照。
- ↑ 右足首関節捻挫により7日目から途中休場、12日目から再出場
- ↑ 左膝関節血腫により11日目から途中休場
- ↑ 左膝外側側副靱帯損傷により2日目から途中休場
- ↑ 『ACC CM年鑑'79』(全日本CM協議会編集、誠文堂新光社、1979年 27頁、68頁)