「内藤洋子 (女優)」の版間の差分
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内藤 洋子(ないとう ようこ、1950年5月28日[1] - )は、日本の女優。茨城県神栖市生まれ、北鎌倉育ち。伯母はダンサーの和田妙子。娘は喜多嶋舞。鎌倉市立御成小学校、北鎌倉女子学園卒業[1]。
来歴・人物
4人姉妹の3番目として誕生。父は勤務医だった[2]。内藤家は藤原氏の庶流で、現在の静岡県浜松市の在で代々地主を務め、洋子の曽祖父の代からは医業を生業とした[3]。
小学校5年生の時に学校にエースコックのワンタンメンのCM撮影隊が訪れ、それがきっかけで雑誌『りぼん』のモデルを始めるようになり[4]、高校在学中の1965年、黒澤明監督の『赤ひげ』でデビュー(長女・黒澤和子が『りぼん』を定期購読しており、表紙のモデルをしていた内藤に黒澤明が目を付け、オーディションを受けるよう勧めたのがきっかけであり、最終選考に残ったメンバーには酒井和歌子がいた[5])。実は最後まで内藤と酒井のどちらにするのか迷い、最終的には2人の写真を長男・黒澤久雄に見せた結果、久雄の選んだ内藤に決まった[5][1]。
1966年、『氷点』には辻口陽子役で出演。番組が高視聴率を続けたことで、遊覧コースとして観光バスが自宅前を通過する程の事態となった(しかも「あちらに見えますのは、ドラマ『氷点』で陽子を演じている内藤洋子さんのご自宅でございます」と紹介された)[6]。主演の新珠三千代たっての共演だった。。
歌手としても成功し、松山善三監督の『その人は昔』の挿入歌だった「白馬のルンナ」が50万枚の大ヒットとなった[5][1]。
1つ年上の酒井とともに東宝から「青春スター」と呼ばれて売り出され、「永遠の美少女」と呼ばれ、内藤のほうが早く売れた。。
1970年、音楽家の喜多嶋修と結婚して芸能界を完全引退した[2][1]。
1974年、娘が2歳の頃に家族共々アメリカ・カリフォルニア州に移住した(子どもは舞のほか、渡米後に出生した長男と次女がいる)[2]。
その後は喜多嶋 洋子(きたじま ようこ)として絵本などを発表しているほか、時折テレビにも出演している[5]。
代表作
映画
- 赤ひげ(1965年)
- 大菩薩峠(1966年)
- あこがれ(1966年)
- お嫁においで(1966年)
- 伊豆の踊子(1967年)
- 続・名もなく貧しく美しく 父と子 (1967年)
- その人は昔(1967年)
- 育ちざかり(1967年) - 大内陽子
- 君に幸福を センチメンタル・ボーイ (1967年)
- 年ごろ(1968年)
- 兄貴の恋人(1968年)
- 若者よ挑戦せよ(1968年)
- 社長えんま帖 (1969年)
- 続・社長えんま帖 (1969年)
- 華麗なる闘い (1969年)
- 地獄変(1969年)
- 娘ざかり(1969年)
- 社長学ABC(1970年)
- クレージーの殴り込み清水港 (1970年)
- 続・社長学ABC (1970年)
- バツグン女子高校生 16才は感じちゃう(1970年)
- 日本一のワルノリ男 (1970年)
テレビ
舞台
CM
著作
脚註
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 引用エラー: 無効な
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タグです。 「profile
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 『女学生の友』 1966年8月号(小学館)188-193ページ
- ↑ NHK『スタジオパークからこんにちは』2006年1月ゲスト時の本人コメント。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 “1960年代後半を白馬のように駆け抜けた伝説的アイドル女優の極み、内藤洋子”. シネマズ. 松竹 (2016年8月21日). . 2016閲覧.
- ↑ 近代映画 近代映画社 1967年1月号 203頁。
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- 内藤洋子 - 日本映画データベース
- 内藤洋子 - テレビドラマデータベース
- “1960年代後半を白馬のように駆け抜けた伝説的アイドル女優の極み、内藤洋子”. シネマズ. 松竹 (2016年8月21日). . 2016閲覧.