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停車場・施設・接続路線 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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標津線(しべつせん)は、日本国有鉄道(国鉄)、および北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道川上郡標茶町の標茶駅で釧網本線から分岐し、標津郡標津町の根室標津駅に至る本線と同郡中標津町の中標津駅で本線から分岐し、根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線から成り立っていた。
国鉄再建法の施行により、1985年(昭和60年)8月に第2次特定地方交通線に指定された。その後、JR北海道に承継されたが、1989年(平成元年)4月30日に全線が廃止された[1][2][3]。
Contents
路線データ(廃止時)
- 管轄:北海道旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
- 路線距離(営業キロ):全長116.9km
- 標茶 - 根室標津 69.4km
- 中標津 - 厚床 47.5km(列車運行上は起終点が逆転しており、中標津方面行きが下り列車だった)
- 駅数:19(起終点駅を含む)
- 軌間:1067mm
- 複線区間:なし(全線単線、中標津 - 中標津町西6条付近までは単線並列)
- 電化方式:全線非電化
- 閉塞方式:タブレット閉塞式
- 交換可能駅:本線5駅(泉川・西春別・計根別・中標津・川北)、支線1駅(別海)
- 簡易委託駅:当幌・上武佐・計根別・川北
運行形態
過去には釧路からの急行列車の乗り入れもあった。「年表」を参照。
廃止当時は、普通列車のみの運行であった。標茶 - 根室標津間は本線的扱いを受けており、本数も多かった[4]。
- 標茶 - 中標津間 下り7本、上り6本
- 中標津 - 根室標津間 下り6本、上り7本
- 中標津 - 厚床間 上下4往復
歴史
根釧原野の林産資源並びに鉱産資源の開発を目的として建設された鉄道で、改正鉄道敷設法別表第149号に規定する「根室国厚床付近ヨリ標津ヲ経テ北見国斜里ニ至ル鉄道」の一部並びに第150号「根室国中標津ヨリ釧路国標茶ニ至ル鉄道」である。
当時は北海道庁などによる殖民軌道が敷設されていたが、輸送力の限度と動力に用いていた馬の維持にかかる経費が問題になり、輸送力の増強が求められていた。交通の不便さから開拓地を放棄せざるを得ないものも現れ、深刻の度を増していた。開拓民の度重なる請願により、先述の鉄道敷設法の改正を見た。開拓民の間でも海沿いを走る「海岸線」と内陸部を走る「原野線」の両派に分かれた激論があった[5]。結果的に原野線が建設ルートとして選択された。
建設は厚床側から進められ、1933年に西別(後の別海)までの第1工区が完成、1934年に第2工区にあたる中標津に到達した後、1936年に標茶から標茶線(しべちゃせん、同名の別路線があるため後述する)が計根別まで開業し、1937年に中標津まで延伸された。同時に中標津から根室標津までの第4工区が完成し、全通。標津線と標茶線を接続し、標津線を標茶線に編入のうえ全体を標津線とした。これは釧路港を擁する釧路までの需要があり、標津から釧路に行くには厚床を経由するより標茶を経由した方が近いという理由があったためとされる。
別表第149号の根室標津以遠については、戦時中に突貫工事で建設が進められていたが、1957年に斜里(現在の知床斜里) - 越川間が根北線として開業したものの、すでに沿線は過疎化が進んでおり、わずか13年後の1970年に廃止された。越川 - 根室標津間には、建設途中のまま放棄された路盤の遺構である越川橋梁が残っている。
分岐駅の中標津周辺の発展と日本海軍標津第一航空基地(中標津飛行場)・標津第二航空基地(川北飛行場)、日本陸軍計根別飛行場の建設と観光ブームによって注目を浴びた時期もある。 しかし、終点である標津町や起点である根室市の求心力の低下と、釧路市への所要時間などの諸問題により、利用客と貨物取扱高が1965年頃をピークに減少をはじめた。
道路の整備に伴い、沿線にもモータリゼーションが進み旅客営業も低迷した。既に1950年代には、閑散区対策として開発されたレールバスであるキハ03系が投入されている。1968年には赤字83線に選定され、廃止論議が持ち上がった(当時の営業係数は219)。一時は廃止を免れたものの、1970年には営業係数が405に悪化するなど年々赤字が増えていった。いくつかの駅を直営駅から業務委託駅に転じさせ、経費の圧縮を試みたが焼け石に水であった。
1980年に国鉄再建法が成立すると、第2次特定地方交通線に指定されたが、冬季の代替輸送に問題があるとして他の3線(天北線、池北線、名寄本線)とともに一時、廃止承認が留保された。しかし、結局1985年に問題がなくなったとして追加廃止承認された。
国鉄分割民営化後も2年ほど旅客営業を継続したものの、1989年4月30日に全線廃止となりバス路線に転換された(沿線自治体は第三セクターによる鉄路維持を検討していたが、この場合は運営基金が7年で枯渇するという試算がありバス転換に同意したもの)。
年表
(先史)
- 1925年(大正14年) - 1927年(昭和2年): 厚床より中標津を経て標津に至る殖民軌道根室線が順次開通。
- 1927年(昭和2年): 中標津から計根別まで殖民軌道計根別線が開通。
- 1927年(昭和2年)12月5日 : 標津殖民鉄道(発起人総代小松篤之助[6])に対し鉄道免許状下付(川上郡熊牛村(標茶駅)-標津郡標津村間)[7]
- 1929年(昭和4年): 殖民軌道根室線動力化
- 1930年(昭和5年): 標茶から計根別まで殖民軌道標茶線が開通。
- 1933年(昭和8年)12月12日 : 標津殖民鉄道に対し鉄道免許失効(指定ノ期限マテニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)[8]。
(本史)
- 1933年(昭和8年)12月1日 : 厚床 - 西別間 (23.8km) が標津線として開業[9][10]。奥行臼・西別の各駅を新設[1]。
- 1934年(昭和9年)10月1日 : 西別 - 中標津間 (23.7km) が延伸開業[11]。春別・中標津の各駅を新設[1]。
- 1936年(昭和11年)10月29日 : 標茶 - 計根別間 (31.9km) が標茶線として開業[12]。西春別・計根別の各駅を新設[1]。殖民軌道標茶線廃止。
- 1937年(昭和12年)10月30日 : 計根別 - 根室標津間 (37.5km) が延伸開業し全通[9][13]。標茶線に標津線(旧)を編入して標津線とする[14]。当幌・上武佐・川北・根室標津の各駅を新設[1]。殖民軌道計根別線廃止。
- 1933年(昭和8年) - 1938年(昭和13年): 殖民軌道根室線の標津線並行各区間順次廃止。
- 1944年(昭和19年)5月1日 : 東標津信号場・泉川仮信号場を新設[1]。
- 1945年(昭和20年)11月2日 : 東標津信号場を廃止[1]。
- 1952年(昭和27年)3月25日 : 泉川仮信号場を泉川駅に変更[1]。
- 1957年(昭和32年)12月25日 : 協和駅を新設[1]。
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)5月1日 : 光進仮乗降場を新設[1]。根室標津 - 釧路間に準急「らうす」新設(単行2往復、うち1往復は中標津 - 根室標津間は普通列車)[15]。
- 1963年(昭和38年)7月1日 : 上春別駅を新設[1]。
- 1965年(昭和40年)10月1日:準急「らうす」を2両編成化[15]。
- 1966年(昭和41年)3月5日 : 準急「らうす」1往復を急行「くなしり」に変更[15]。
- 1967年(昭和42年)4月1日 : 光進・平糸の各仮乗降場を駅に格上げ[1]。
- 1968年(昭和43年)10月1日 : 準急「らうす」・「くなしり」を急行「しれとこ」に統合[15]。根室標津発着列車は下り3本・上り2本。下り1号は根室標津 - 標茶、その他は根室標津 - 中標津間普通列車[15]。以下「しれとこ」は、標津線内を通る列車に限って記述、上り・下りは釧網本線での向きによる。
- 1972年(昭和47年)2月1日 : 急行「しれとこ」を下り2本・上り1本に減便。下り1号を中標津発に短縮(中標津 - 標茶間は普通列車)[15]。
- 1975年(昭和50年)4月24日 : 蒸気機関車の運転を廃止[16]。
- 1976年(昭和51年)12月1日 : 西別駅を別海駅に改称[1]。
- 1980年(昭和55年)4月30日 : 中標津 - 根室標津間の貨物営業を廃止[17][18]。
- 1980年(昭和55年)10月1日 : 急行「しれとこ」2往復になりすべて根室標津 - 釧路間の運転とし、標津線内の急行区間を普通列車化[15]。
- 1981年(昭和56年)10月1日 : 急行「しれとこ」2往復[15]。
- 1984年(昭和59年)2月1日 : 標茶 - 中標津 - 厚床間の貨物営業を廃止し、標津線の貨物営業を全廃[19][18]。急行「しれとこ」下り1本・上り2本となる[15]。
- 1985年(昭和60年)8月2日 : 第2次特定地方交通線として廃止承認。
- 1986年(昭和61年)11月1日 : 急行「しれとこ」が全区間廃止[15]。
- 1987年(昭和62年)4月1日 : 国鉄分割民営化に伴い、北海道旅客鉄道が承継。
- 1989年(平成元年)4月30日 : 全線 (116.9km) を廃止し[1]、バス路線に転換(標茶 - 標津:阿寒バス、厚床 - 中標津:根室交通)[2][3]。
事件・事故
- 1945年(昭和20年)7月14日、上り40列車(厚床行き)がアメリカ軍の機銃掃射を受けて破壊される。乗員1名死亡、1名負傷。乗客に死傷者はなし[20]。
- 1956年(昭和31年)3月5日、上り32列車(標茶行き)が脱線・転覆。客車2両・貨車2両が横転し、24名の負傷者が発生した。
駅一覧及び接続路線
駅名 | 駅間キロ | 営業キロ | 接続路線 | 所在地 |
---|---|---|---|---|
標茶駅 | - | 0.0 | 北海道旅客鉄道:釧網本線 殖民軌道知安別線(1942年まで) 標茶町営軌道標茶線(1967年まで) |
川上郡標茶町 |
多和駅 | 2.7 | (2.7) | ||
泉川駅 | 10.0 | 12.7 | 野付郡別海町 | |
光進駅 | 4.6 | 17.3 | ||
西春別駅 | 5.2 | 22.5 | 殖民軌道虹別線(1949年まで) 殖民軌道西別線(1952年まで) | |
上春別駅 | 5.2 | 27.7 | ||
計根別駅 | 4.2 | 31.9 | 殖民軌道養老牛線(1961年まで) | 標津郡中標津町 |
開栄駅 | 4.2 | (36.1) | ||
当幌駅 | 4.6 | 40.7 | ||
中標津駅 | 6.4 | 47.1 | 北海道旅客鉄道:標津線(厚床方面) 殖民軌道根室線(1943年まで) | |
- | (52.6) | |||
上武佐駅 | 8.1 | 55.2 | 殖民軌道根室線(1954年まで) | |
川北駅 | 4.9 | 60.1 | 殖民軌道忠類線(1955年まで) | 標津郡標津町 |
根室標津駅 | 9.3 | 69.4 |
支線
駅名 | 駅間キロ | 営業キロ | 接続路線 | 所在地 |
---|---|---|---|---|
中標津駅 | - | 0.0 | 北海道旅客鉄道:標津線(標茶・根室標津方面) | 標津郡中標津町 |
協和駅 | 5.4 | 5.4 | ||
春別駅 | 6.7 | 12.1 | 殖民軌道春別線(1949年まで) | 野付郡別海町 |
平糸駅 | 6.1 | 18.2 | ||
別海駅 | 5.5 | 23.7 | 殖民軌道西別線(1956年まで) | |
奥行臼駅 | 12.3 | 36.0 | 別海村営軌道風蓮線(1971年まで) | |
厚床駅 | 11.5 | 47.5 | 北海道旅客鉄道:根室本線 殖民軌道風蓮線(1963年まで) |
根室市 |
代替バス
- 標茶駅前 - 中標津バスターミナル - 標津バスターミナル間 阿寒バス。2018年4月現在、上下4往復(土曜日曜祝日3往復)[21]
- 中標津バスターミナル - 厚床駅前間 根室交通。2013年5月現在、上下6往復(休日3往復)[22]
並行道路
- 北海道道13号中標津標茶線
- 北海道標津郡中標津町大通北1丁目(=北海道道69号中標津空港線・北海道道774号川北中標津線交点) - 北海道川上郡標茶町富士2丁目(=北海道道14号厚岸標茶線交点)間
その他
別表150号に該当する路線の名称
標茶線(標茶 - 中標津間)は地元では計根別線(けねべつせん)とも呼ばれ、現存する資料にも計根別線の呼称を使用するものもある。しかし鉄道省北海道建設事務所では標茶線の呼称を用いていた[23]ため、本項では標茶線を使用した。
映画に登場した標津線
- 『遙かなる山の呼び声』
- 主演の高倉健が演ずる田島耕作が殺害した罪で警察から逃れている(倍賞千恵子演じる風見家に酪農の作業員として居候している合間に)時に、田島の兄(鈴木瑞穂)に会う場面があるが、それが当時の上武佐駅である。先に到着した兄が駅前で、家の前を箒ではいていた地元の人に「あのぅ。この駅前に食事ができるところがありませんか」と尋ねるシーンがある(結局店は無く、駅舎内で弟と話をする)。
- 『家族』
- 長崎県の伊王島から北海道の中標津まで旅をする一家の姿を、ドキュメンタリー風に撮った異色作。大阪万博の華やかさと貧しい家族の対比、旅の疲れから東京で子どもが亡くなり、中標津に到着する時には祖父も亡くなるという、壮絶な旅の果てに中標津駅に辿り付く。
いずれも、山田洋次監督作品である。
脚注
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』1号 北海道、新潮社、2008年、p.44
- ↑ 2.0 2.1 “JR3線今月末廃止”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1989年4月26日)
- ↑ 3.0 3.1 “道内長大3線廃止 バス転換から1年 天北線 名寄本線 標津線”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1990年5月2日)
- ↑ 太田幸夫「北海道の駅878ものがたり―駅名のルーツ探求」富士コンテム、2004
- ↑ “標津線、路線決定までの道のり (PDF)”. 中標津町郷土館だより 第26号 中標津駅開駅80周年 標津線廃止25周年. 中標津町郷土館. p. 2 (2014年12月30日). 2018年7月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2018閲覧.
- ↑ 釧路臨港鉄道専務取締役『日本全国諸会社役員録. 第36回(昭和3年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道免許状下付」『官報』1927年12月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道免許失効」『官報』1933年12月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 9.0 9.1 釧路市地域史研究会 『釧路市統合年表:釧路市・阿寒町・音別町合併1周年記念』 釧路市 、2006年10月。
- ↑ 「鉄道省告示第538・539号」『官報』1933年11月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道省告示第447・448号」『官報』1934年9月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道省告示第379・380号」『官報』1936年10月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)によると計根別線
- ↑ 「鉄道省告示第399・400号」『官報』1937年10月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「鉄道省告示第399号」『官報』1937年10月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)によると国有鉄道線路名称中の「標津線」(旧)を削除し、「計根別線(標茶計根別間)」を「標津線(標茶根室標津間 及 中標津厚床間)」に改める。
- ↑ 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 15.5 15.6 15.7 15.8 15.9 今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』1号 北海道、新潮社、2010年、p.48
- ↑ 「国鉄蒸気線区別最終運転日一覧」『Rail Magazine 日本の蒸気機関車』1994年1月号増刊
- ↑ 池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.67
- ↑ 18.0 18.1 宮脇俊三(編著)『鉄道廃線跡を歩く』IV、JTB、1997年、p.200
- ↑ 池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.96
- ↑ 境智洋、山内斉、山内崇「標津線を走る列車はいつ・どこで・どのように襲撃されたのか-別海・標津線空襲を検証する-」、『釧路論集:北海道教育大学釧路校研究紀要』、北海道教育大学釧路校、2016年、 2頁、 ISSN 0287-8216。
- ↑ 阿寒バス 標津標茶線 [標津⇔川北⇔中標津⇔計根別⇔西春別⇔標茶]
- ↑ 根室交通 中標津線
- ↑ 福田光夫 (2015年1月6日). “泉川駅史稿”. 豊文堂書店. 2016年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2018閲覧.
参考図書
- 『注解 鉄道六法』平成20年版 国土交通省鉄道局監修 第一法規出版 2008年10月発行
- 旧法 鉄道敷設法
- 『旅』1999年11月号 特集:鉄道新時代 21世紀への序曲(JTB1999-11 No.874)
- 別冊付録:改正「鉄道敷設法」別表を読む 三宅俊彦
- 『JR時刻表』2009年3月号 交通新聞社 2009年3月1日発行
- 標茶⇔中標津⇔標津 阿寒バス株式会社
- 『中標津町史』 中標津町史編さん委員会、中標津町、1981-06。
- 『中標津町五十年史』 中標津町五十年史編さん委員会、中標津町、1995-07。
- 『彩雲鉄道 標津線の五十六年』 東洋印刷・総合企画 編、根室市・中標津町・標津町・別海町・標茶町、1989-11。