足利将軍一覧
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足利将軍一覧(あしかがしょうぐん いちらん)では、室町幕府(足利幕府)征夷大将軍の15人を一覧にして概説する。
3代将軍の足利義満が大臣となって以降、歴代の将軍は大臣を兼ねる(または没後に贈官される)場合が多くなり、この慣例は後の徳川将軍家にも受け継がれている。
一方で南北朝・戦国と動乱の時代の将軍家であったため、波乱に満ちた生涯を送った将軍が多く、幕府所在地(京都)を追われた将軍が7人(尊氏・義詮・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭)、幕府所在地以外の地で没した将軍が6人(義尚・義稙・義澄・義晴・義栄・義昭)、暗殺された将軍が2人(義教・義輝)、更迭された将軍が3人4回(尊氏[1]・義稙が2回・義澄)、そもそも幕府所在地に入れなかった将軍が1人(義栄)いる。
代数は一般的に「15代(15人)」とされる場合がほとんどであるが、第10代(10人目)の足利義材(足利義稙)が一度将軍職を追われた後に再び将軍職に就いており、就任(任命)と解任(辞任)の正式な手続きが踏まれている。
一覧
代 | 氏名 | 肖像 | 院号 | 官位 | 在職 | 期間 | 出身家 | 享年 | 墓所 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | あしかが たかうじ 足利尊氏 (初め高氏) |
等持院 | 正二位 権大納言 |
建武5年8月11日 - 延文3年4月30日 (1338年 - 1358年) |
19年 8か月 | 足利氏 | 54 | 等持院 | |
2 | あしかが よしあきら 足利義詮 |
100px | 寶筐院 | 正二位 権大納言 |
延文3年12月8日 - 貞治6年12月7日 (1358年 - 1367年) |
9年 | 足利氏 | 38 | 宝筐院 |
3 | あしかが よしみつ 足利義満 |
100px | 鹿苑院 | 従一位 太政大臣 |
応安元年12月30日 - 応永元年12月17日 (1368年 - 1394年) |
26年 | 足利将軍家 | 51 | 相国寺 |
4 | あしかが よしもち 足利義持 |
100px | 勝定院 | 従一位 内大臣 |
応永元年12月17日 - 応永30年3月18日 (1394年 - 1423年) |
28年 4か月 | 足利将軍家 | 43 | - |
5 | あしかが よしかず 足利義量 |
長得院 | 正四位下 参議右近衛権中将 |
応永30年3月18日 - 応永32年2月27日 (1423年 - 1425年) |
11か月 | 1年足利将軍家 | 19 | - | |
(代) |
*あしかが よしもち 足利義持 |
100px | 勝定院 | - | 応永32年2月27日 - 応永35年1月18日 (1425年 - 1428年) (※義量早世に伴う将軍代理[2]) |
2年 11か月 | - | - | - |
6 | あしかが よしのり 足利義教 (初め義宣) |
100px | 普広院 | 従一位 左大臣 |
正長2年3月15日 - 嘉吉元年6月24日 (1429年 - 1441年) |
12年 3か月 | 足利将軍家 | 48 | 十念寺 |
7 | あしかが よしかつ 足利義勝 |
100px | 慶雲院 | 従四位下 左近衛中将 |
嘉吉2年11月7日 - 嘉吉3年7月21日 (1442年 - 1443年) |
8か月 | 足利将軍家 | 10 | 安国寺 |
8 | あしかが よしまさ 足利義政 (初め義成) |
100px | 慈照院 | 従一位 左大臣 |
文安6年4月29日 - 文明5年12月19日 (1449年 - 1473年) |
24年 8か月 | 足利将軍家 | 55 | 相国寺 |
9 | あしかが よしひさ 足利義尚 (晩年は義熙) |
100px | 常徳院 | 従一位 内大臣 |
文明5年12月19日 - 長享3年3月26日 (1473年 - 1489年) |
15年 4か月 | 足利将軍家 | 25 | 相国寺 |
(代) |
*あしかが よしまさ 足利義政 |
100px | 慈照院 | - | 長享3年3月26日 - 延徳2年1月7日 (1489年 - 1490年) (※義尚早世に伴う将軍代理) |
9か月 | - | - | - |
10 | あしかが よしき 足利義材 (のちの義稙) |
100px | 恵林院 | 従一位 権大納言 |
延徳2年7月5日 - 明応2年6月29日 (1490年 - 1493年) |
3年 | 足利氏 | 58 | 西光寺 |
11 | あしかが よしずみ 足利義澄 (初め義高) |
100px | 法住院 | 従三位 参議 |
明応3年12月27日 - 永正5年4月16日 (1494年 - 1508年) |
13年 4か月 | 堀越公方家 | 32 | - |
10 (再) |
あしかが よしたね 足利義稙 (初め義尹) |
100px | 恵林院 | - | 永正5年7月1日 - 大永元年12月25日 (1508年 - 1521年) |
13年 6か月 | - | - | - |
12 | あしかが よしはる 足利義晴 |
100px | 萬松院 | 従三位 権大納言 |
大永元年12月25日 - 天文15年12月20日 (1521年 - 1546年) |
25年 | 足利将軍家 | 40 | 義晴地蔵寺 |
13 | あしかが よしてる 足利義輝 (初め義藤) |
100px | 光源院 | 従三位 参議左近衛中将 |
天文15年12月20日 - 永禄8年5月19日 (1546年 - 1565年) |
18年 5か月 | 足利将軍家 | 30 | - |
14 | あしかが よしひで 足利義栄 (初め義親) |
光徳院 | 従五位下 左馬頭 |
永禄11年2月8日 - 9月末[3] (1568年 - 1568年) |
8か月 | 平島公方家 | 29 | 西光寺 | |
15 | あしかが よしあき 足利義昭 (初め義秋) |
100px | 霊陽院 | 従三位 権大納言 |
永禄11年10月18日 - 天正16年1月13日 (1568年 - 1588年)[4] |
19年 3か月 | 足利将軍家 | 61 | - |
脚注
- ↑ 南朝方から将軍職を更迭。
- ↑ 義持には義量のほかに男子がなく、将軍が不在となってしまうため、前将軍である義持が僧体の身でありながらも将軍職を代行する形で再び幕政を統括する事になった。但し、10代義稙とは異なって「将軍職再任」ではないため、代数に数えていない。また、「代理」と表現しているのは、実質的に将軍と見られており、実際に公方様・室町殿・御所様と呼称されていたためである。尚、義持死後に空白期間があるのは次の義教(初め義宣)が急遽還俗して足利将軍家を継いだために、直ちに将軍宣下を受けることが出来なかったためである。
- ↑ 義栄の死去日について諸説あり、次の義昭の将軍宣下時における生死は不明である。
- ↑ 一般には元亀4年(1573年)の織田信長による京都追放の時点をもって幕府機構の解体(滅亡)と見なされているが、名目上は天正16年(1588年)に豊臣秀吉への忠誠を誓うまで征夷大将軍に在職していた(『公卿補任』)。