足利義勝
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足利義勝 | |
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時代 | 室町時代中期 |
生誕 | 永享6年2月9日(1434年3月19日) |
死没 | 嘉吉3年7月21日(1443年8月16日) |
幕府 |
室町幕府第7代征夷大将軍 (在任:1442年 - 1443年) |
氏族 | 足利氏(足利将軍家) |
足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442年 - 1443年)。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)。6代将軍足利義教の嫡男で庶子。
生涯
生まれてすぐに政所執事伊勢貞国の屋敷で養育されたが、嘉吉元年(1441年)に嘉吉の乱が起こり、父・義教が赤松満祐に暗殺されたため室町殿へ移された。
翌嘉吉2年(1442年)11月、管領細川持之らに擁されて9歳で元服、将軍職を継ぎ、第7代将軍となった。義勝は幼年で政治能力が無いため持之が実権を掌握、彼の死後は畠山持国・山名持豊や生母の日野重子らが実権を握り、嘉吉の乱を起こした満祐の討伐、嘉吉の徳政一揆などを平定した。
嘉吉3年(1443年)6月19日には、義教への弔意を伝えるために来日した朝鮮通信使と会見している(『康富記』)。しかし、同年7月21日に死去。享年10(満9歳没)。在任わずか8ヶ月であった。死因は落馬、暗殺など諸説があるが、赤痢による病死が有力であるとされている[1] 。後任の将軍には同母弟で8歳の三寅(のち義成、義政)が選出された。
義勝、義政と幼少の将軍が2代続いたことから、朝廷や有力守護大名の幕政への関与が続き、将軍の権威が大きく揺らぎ始めることになった。
墓所は安国寺慶雲院にあったとされるが、焼失したため現存せず、遺骨等も所在不明となった。木像は等持院に現存している。建仁寺の塔頭・霊源院には義勝が描いたという「達磨図」が現存している。図上にある江西龍派の賛によると、義勝10歳の時、家臣の千秋持季に描き与えたものだが、程なく義勝は夭折、持季はこの絵を見るたびに追慕の情に堪えきれず、江西に着賛を求めたという[2][3]。
官歴
偏諱を受けた人物
義勝時代(1442年11月17日~1443年7月21日)
- 日野勝光(義勝の従兄弟にあたる日野重政の子、のちに義勝の弟・義政の妻となる富子の兄)
- 宇佐美勝祐
- 細川勝元(京兆家、持之の嫡男)
- 細川勝之(野州家出身、勝元の猶子)
- 細川勝氏(『海東諸国紀』に勝元の従兄弟と記載されている人物)
- 細川勝信(和泉下守護家、別名:基経)
- 細川勝久(備中守護家)
- 細川勝益(遠州家、土佐守護代(勝元の代官))
- 京極勝秀(細川勝元の従兄弟)
- 山名勝豊(細川勝元の岳父・山名熙貴の養子、実父は山名持豊(宗全))
- 千秋勝季(幕府奉公衆・熱田大宮司家一族(藤原季範の末裔))
登場作品
- TVドラマ