蒲生忠郷
蒲生 忠郷(がもう たださと、慶長7年(1602年)- 寛永4年1月4日(1627年2月19日))は、陸奥会津藩第2代藩主。初代藩主蒲生秀行の長男。母は徳川家康の三女・振姫。正室は藤堂高虎の娘。官位は従三位参議、下野守。幼名亀千代。[1]
生涯
慶長17年(1612年)5月、父の秀行が死去したために10歳で会津60万石を継ぐ。9月、弟鶴千代(のちの忠知)と共に家康によって元服、松平姓と将軍徳川秀忠の偏諱を与えられ、また祖父・蒲生氏郷より1字を取って松平忠郷(蒲生忠郷)と称した。[2] しかし、未だ若年であったため母振姫の後見を受けた。
母振姫の勘気による仕置、家老岡重政の死罪、祖父・氏郷の時代から弟・忠知の時代まで続いた重臣間の抗争など家中は安定しなかった。そのためか慶長20年(1615年)の大坂の陣においては江戸留守居を命じられる。
治世においては会津若松城の天守を五層に改築する、恵隆寺の再建を援助する、領内の飢饉に際して餅・酒・豆腐の製造禁止令を出すなどの事跡が伝わる。
元和5年(1619年)、正室に藤堂高虎の娘を迎える。元和9年(1623年)侍従に任官する。寛永元年(1624年)には江戸藩邸に大御所秀忠と将軍家光の御成を迎えた。この間も重臣層の抗争、訴訟は続いていたが閨閥のゆえにか大事に至らず、寛永3年(1626年)、後水尾天皇の二条城行幸に際し上洛、行幸の後、正四位下参議に昇進した。このとき疱瘡に罹患し、翌寛永4年(1627年)1月4日没した。享年26。墓所は福島県会津若松市の高巌寺。
正室藤堂氏との間には嫡子が無かったため、本来なら蒲生氏は断絶するところであったが、母が家康の娘であるということで、出羽上山藩4万石を領していた弟の忠知を後嗣として伊予松山24万石が与えられ、36万石の減封となったものの存続を許された。会津には蒲生氏に代わって加藤嘉明が40万石で入った。
脚注
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