後水尾天皇

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後水尾天皇(ごみずのおてんのう、1596年6月29日文禄5年6月4日) - 1680年9月11日延宝8年8月19日))は第108代天皇(在位:1611年5月9日(慶長16年3月27日) - 1629年12月22日寛永6年11月8日))。幼名は三宮、政仁(ことひと)。

系譜

後陽成天皇の第三皇子。母は、関白太政大臣豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の中和門院・近衛前子

系図

テンプレート:皇室江戸前期

略歴

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後水尾天皇 雅歌 色紙

後陽成天皇はかねてから第1皇子・良仁親王(覚深入道親王)を廃して、弟宮の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいた。だが、関ヶ原の戦いによって新たに権力の座を手に入れた徳川家康もまた皇位継承に介入し、良仁親王の出家(皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。

慶長16年(1611年3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、天海板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。

江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として慶長18年6月16日1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定し、次いで、豊臣宗家滅亡後の慶長20年7月17日1615年9月9日)には「禁中並公家諸法度」を公布した。以後、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれた上に、その運営も摂政関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされた。これによって摂家以外の公卿上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる事を目指していた。

天皇が即位すると大御所・徳川家康は孫娘・和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。しかし、入内は大坂の陣元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、天皇と寵愛の女官・四辻与津子との間に皇子・皇女が居た事が徳川秀忠に発覚すると入内は問題視される、翌元和5年(1619年)9月15日に秀忠自身が上洛して、与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏広橋兼勝と共にこれを追及した。そして万里小路充房を宮中の風紀の乱れの責任を問い丹波国篠山に配流、与津子の実兄である四辻季継高倉嗣良豊後国に配流、更に天皇側近の中御門宣衡堀河康胤土御門久脩を出仕停止にした。これに憤慨した天皇は譲位しようとするが、幕府からの使者である藤堂高虎が天皇を恫喝、与津子の追放・出家を強要した(およつ御寮人事件)。元和6年(1620年)6月18日に和子が女御として入内すると、これに満足した秀忠は、今度は処罰した6名の赦免・復職を命じる大赦を天皇に強要した。

寛永2年(1625年)11月13日には皇子である高仁親王が誕生する。寛永3年(1626年)10月25日から30日まで二条城への行幸が行われ、徳川秀忠と家光が上洛、拝謁した。寛永4年(1627年)に紫衣事件、家光の乳母である福(春日局)が無位無冠の身でありながら朝廷に参内する(金杯事件)など天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は寛永6年(1629年)11月8日、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。この事を事前に知られていたのは腹心の中御門宣衡のみであったとされる(『時慶卿記』寛永6年11月8日条)[1]。一説には病気の天皇が治療のためにを据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために譲位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例(高倉後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている(かつての皇国史観のもと、辻善之助の研究に代表される「幕府の横暴に対する天皇・朝廷の抵抗」という通説への対論となる洞富雄の説[2])。その一方で、中世後期以降に玉体への禁忌が拡大したとする見方も存在し、後花園天皇の鍼治療に際して「御針をは玉躰憚る」として反対する意見が存在したとする記録(『康富記』嘉吉2年10月17日条)が存在し、その後鍼治療が行われなくなったとする指摘も存在する[3]。また、霊元天皇が次帝を選ぶ際に、後水尾法皇の意思に反して一宮(のちの済深法親王)を退け、寵愛する朝仁親王(のちの東山天皇)を強引に立てたが、このときに表向きの理由とされたのが「一宮が灸治を受けたことがある」であった[4]

以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行う。当初は院政を認めなかった幕府も寛永11年(1634年)の将軍・徳川家光の上洛をきっかけに認めることになる[5]。その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から後光明後西・霊元の3天皇の生母(園光子櫛笥隆子園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任櫛笥隆致園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政の否定」を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢[注釈 2]とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対して延宝7年(1679年)に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である。

延宝8年(1680年)に85歳で崩御し、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。なお京都市上京区相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。昭和60年(1985年7月12日までは歴代最長寿の天皇でもあった。記録を抜いた昭和天皇は、「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」とコメントしている。

日光東照宮には陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる額が掲げられており、後に板垣退助が強硬に日光東照宮の焼き討ちを要求する薩摩藩を説得する理由の1つとして挙げたとされる。

諡号・追号・異名

遺諡により後水尾と追号された。水尾とは清和天皇の異称である。後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして実質的に廃位に追い込まれた陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。このような父子逆転の加後号は他に例がない。徳川光圀は随筆『西山随筆』で、兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であり、この諡号を自ら選んだ理由であろうと推測している[6]。遺諡は、鎌倉時代後嵯峨天皇から南北朝室町時代後小松天皇にかけて多くあったが、その後7代にわたって絶えており、後水尾天皇の遺諡は後小松天皇以来約2世紀ぶりである。このことからも後水尾天皇の強い意志が伺われる。また、清和源氏を称する徳川氏の上に立つという意志も見て取れる。なお、「後水尾」の読み方については、現在の宮内庁は「ごみずのお」としているが、江戸時代中期の故実学者伊勢貞丈は「ごみのお」が正しいとしている[7]

逸話

  • 勅撰和歌集である「類題和歌集」の編纂を臣下に命じた。
  • 学問を好み、『伊勢物語御抄』の著作がある。
  • 女性関係は派手であった。禁中法度を無視し宮中に遊女を招きいれたり、遊郭にまでお忍びで出かけた。譲位後にも中宮以外の女性に30余人の子を産ませ、56歳で出家した後も精力や欲求は衰えず、58歳で後の霊元天皇を産ませている。

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

御集

  • 鈴木健一・久保田淳(監修) 『後水尾院御集』(明治書院、和歌文学大系、2003年) ISBN 4625413176

史料

  • 宮内省図書寮編 『後水尾天皇実録 (1~3巻)』(復刻:ゆまに書房、2005年) ISBN 4-8433-2027-7-戦前期に編纂した編年体の事蹟。

後水尾天皇を題材とした作品

小説

  • 隆慶一郎 『花と火の帝』(講談社文庫上下巻、1993年 ISBN 978-4061854956/ISBN 978-4061854963、日経文芸文庫上下巻、2013年 ISBN 978-4532280017/ISBN 978-4532280024) - 作者死去のため未完

戯曲

初演は1984年、後水尾天皇・春日野八千代主演のほか神代錦榛名由梨専科生徒を中心に宝塚バウホールで上演
再演は2004年、後水尾帝・轟悠(専科)主演のほか音月桂白羽ゆり雪組を中心に日生劇場で上演

後水尾天皇を演じた俳優

脚注

注釈

  1. 本朝皇胤紹運録』などには名を昭子内親王と記しているが、女二宮に内親王宣下がなされたという記録はなく、女三宮との混乱であると考えられている(久保、『徳川和子』p.102)
  2. 野村玄は徳川家の当主が秀忠(大御所)から家光(将軍)に代わったことで協調政策に転じるとともに、明正天皇(幼少の女帝)の登場による朝廷内の混乱の責任を後水尾上皇(問題を起こした当事者)に負わせようとしたことを指摘している(野村、2006年、p.296-298ほか)。

出典

  1. 山口和夫「生前譲位と近世院参衆の形成」『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7 P154
  2. 熊倉功夫 『後水尾天皇』 中公文庫 ISBN 978-4122054042、104p
  3. 井原今朝男 『中世の国家と天皇・儀礼』 校倉書房、2012年 ISBN 978-4751744307、p.169
  4. 熊倉、107p
  5. 九条道房の日記 『道房公記』 寛永14年12月3日条
  6. 熊倉、32p
  7. 熊倉(2010)p. 6。 

参考文献

  • 熊倉功夫 『後水尾天皇』(岩波書店・同時代ライブラリー、1994年 ISBN 978-4002601700/中公文庫、2010年 ISBN 978-4122054042)
  • 久保貴子 『後水尾天皇 千年の坂も踏みわけて』(ミネルヴァ書房・日本評伝選、2008年 ISBN 978-4623051236)
  • 野村玄 『日本近世国家の確立と天皇』(清文堂出版、2006年 ISBN 4792406102)
  • 辻達也朝尾直弘編 『日本の近世.2 天皇と将軍』(中央公論社、1991年 ISBN 4124030223)
  • 山本博文 『徳川将軍と天皇』(中央公論新社、1999年 ISBN 978-4120029431/中公文庫、2004年 ISBN 978-4122044524)
  • 田中暁龍 『近世前期朝幕関係の研究』(吉川弘文館、2011年 ISBN 978-4642034487)

関連項目

外部リンク