上山藩
上山藩(かみのやまはん)は、江戸時代,出羽国(羽前国)村山郡の上山(現在の山形県上山市)周辺を領有した藩。藩庁は上山城に置かれた。[1]
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概要
上山は、北は山形藩、南は米沢藩に隣接する羽州街道の要衝であり、長禄2年(1458年)には上山温泉が発見され、温泉宿場町として早くから繁栄を遂げた。上山は最上氏が支配していた頃から重要拠点のひとつと見なされており、戦国時代には伊達氏と最上氏がこの地をめぐって争うことも少なくなかった。慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦で、上杉景勝の家臣直江兼続は2万5000を数える大軍を擁しながら、上山城を守る最上氏の家臣・里見民部率いるわずか1000の兵の前に大敗を喫した。しかし里見民部は後に最上義光と対立して出奔し、その後には坂光秀、次いで最上光広(義光の五男)が入った。しかし義光死後、最上氏内部では家督争いが絶えず、遂に元和8年(1622年)、最上氏は最上騒動と呼ばれるお家騒動を理由に改易された。[2][3]
その後、上山には能見松平家の松平重忠が4万石で入り、上山藩を立藩した。重忠は城下町や交通路の整備を行なって藩政の基礎を固めようとしたが、4年後の寛永3年(1626年)に摂津三田藩へ転封となる。その後を受けて蒲生忠知(陸奥会津藩主蒲生忠郷の弟)が4万石で入ったが、忠郷が翌年に嗣子なくして病死したため、忠知は伊予松山藩へ転封された上で忠郷の遺跡を継ぐこととなった。その後、上山には土岐頼行が2万5000石で入部する。延宝6年(1678年)に頼行は隠居して、次男の頼殷が跡を継いだ。頼殷は元禄4年(1691年)に1万石加増の上で大坂城代を務め、翌年2月に越前野岡藩へ転封となった。土岐家は2代にわたって上山を支配したが、その間に城下町と交通路(特に難所であった「がらめき峠」の改修工事)の整備、鉱業や新田の開発、神社仏閣の建立、産業の奨励、用水路の建設など、上山の発展に大きな治績を残している。その後、上山には飛騨高山藩から金森頼時が3万8700石で入ったが、元禄10年(1697年)6月に美濃郡上藩へ転封となった。[2][3]
同年9月15日、備中庭瀬藩から松平信通が3万石で入り、ようやく藩主家が安定する。しかし小藩にありがちの財政難が延享年間から発生し、百姓一揆も頻発した。延享4年(1747年)には五巴徒党一揆、明和8年(1771年)には逃散一揆、天保5年(1834年)には徳政一揆が起こって、合計8名が処刑されている。文化6年(1809年)には藩校・天輔館(後に明新館)が設立された。[2][3]
幕末になると幕府に重用され、大坂警備や江戸市中警備に出兵した。慶応2年には洋式兵学を取り入れた。慶応3年12月、江戸市中で浪人による放火が相次ぎ、その主犯が薩摩藩であることを突き止め、時の藩主松平信庸は自ら兵を率いて薩摩藩邸を攻撃した。これに出羽庄内藩、武蔵岩槻藩、越前鯖江藩が同行した(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。[2]
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まる奥羽越列藩同盟に参加、同盟方針に従って総督・山村求馬率いる洋式軍隊を出羽久保田藩に派兵する。山村求馬は出羽新庄藩の裏切りにより戦死、その後は庄内藩と行動をともにして久保田城を包囲した。また、飛び地であった七日市が長岡の近所であったため北越戦争に巻き込まれ、別働隊を長岡に派遣した。米沢藩が新政府に恭順すると、背後からの攻撃を恐れて軍を引き上げ降伏恭順し、版籍奉還を迎えた。[2][3]
当時の軍楽隊であった上山藩鼓笛楽隊が上山藩鼓笛楽保存会として現存しており、当時の洋式軍隊と軍楽隊の保存会が存在する数少ない地域である。[4]
歴代藩主
松平(能見)家[3]
4万石 譜代
蒲生家[3]
4万石 外様
土岐家[3]
2万5000石→3万5000石 譜代
金森家[3]
3万8700石 外様
松平(藤井)家[3]
3万石 譜代
上山藩の家臣団[3]
- 松平(藤井)家
幕末の領地[3]
脚注
先代: (出羽国) |
行政区の変遷 1622年 - 1871年 (上山藩→上山県) |
次代: 山形県 |