神代辰巳

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神代 辰巳(くましろ たつみ、1927年4月24日 - 1995年2月24日)は日本の映画監督佐賀県佐賀市出身[1]

来歴

徴兵逃れのために九州帝国大学付属医学専門部に入学するも中退し、早稲田大学文学部を卒業。松竹の助監督を経て日活へ移籍。助監督時代に東宝のスター女優だった島崎雪子と結婚するも、10年ほどで離婚。デビュー作となった『かぶりつき人生』は、日活の衰退期とその内容もあってか、一般作としては日活史上最低の興行失敗となった。そのため、この後の日活の一般作の監督オファーはなかったが、ロマンポルノ路線をとともに監督復帰。大車輪の活躍となる。特に、絵沢萌子は、彼の作品の常連女優であった。1972年『一条さゆり 濡れた欲情』、1973年『四畳半襖の裏張り』でキネマ旬報ベストテン入選。前後して3本を入選させた田中登とともに、ロマンポルノのエースと目される。1970年代のロマンポルノでベストテン入りしたのは、この2人の5本だけであり、他社一般映画に招聘されたのも2人だけである(他にロマンポルノから日活一般映画を経て他社招聘された曽根中生がいる)。ただし、東映進出で芳しい評価を得られなかった田中に対し、神代は東宝に乗り込んでの1974年『青春の蹉跌』でキネマ旬報ベストテン4位という高評価を獲得。以降は、一般映画でもぐんぐん盛名を高め、ロマンポルノを超えて日本映画の重要監督の一人となっていった、「ポルノ、ピンク出身の巨匠」の、先駆的存在である。

中でも萩原健一は、自分の主演作『もどり川』へ監督のオファーを願い出るほどのファンであり、桃井かおりも「くまさん」と呼び、親しんでいた。

身だしなみには気を遣う方でなく、桃井かおりによれば、「歯を磨かないことなど当たり前」だったほどである。しかし、「ロマンポルノの帝王」という称号が一人歩きしてしまったことには、大っぴらにしなかったが心を痛めていたという。

1983年昭和58年)に肺気胸で入院、肺結核に感染しており、片肺の機能はほとんど失われ[2]、酸素ボンベを携えての生活を余儀なくされたが、それ以後も入退院を繰り返しながら監督業を続けた。

車椅子に乗っての撮影となった『棒の哀しみ』は、数々の映画賞を受賞したが、1995年平成7年)2月8日第37回ブルーリボン賞授賞式の5日前に急性肺炎で有隣病院に入院。同年2月24日に息を引き取った[3]

監督作品

映画

  • かぶりつき人生(1968年)
  • 濡れた唇(1972年)
  • 一条さゆり・濡れた欲情(1972年)
  • 恋人たちは濡れた(1973年)
  • 女地獄・森は濡れた(1973年)
  • やくざ観音・情女仁義(1973年)
  • 四畳半襖の裏張り(1973年)
  • 濡れた欲情・特出し21人(1974年)
  • 四畳半襖の裏張り・しのび肌(1974年)
  • (1974年)
  • 青春の蹉跌(1974年)
  • 赤線玉の井・ぬけられます(1974年)
  • 宵待草(1974年)
  • 櫛の火(1975年)
  • アフリカの光(1975年)
  • 黒薔薇昇天(1975年)
  • 濡れた欲情・ひらけ!チューリップ(1975年)
  • 悶絶!!どんでん返し(1977年)
  • 壇の浦夜枕合戦記(1977年)
  • 赫い髪の女(1979年)
  • 地獄(1979年)
  • 遠い明日(1979年)
  • 少女娼婦・けものみち(1980年)
  • 快楽学園・禁じられた遊び(1980年)
  • ミスター・ミセス・ミス・ロンリー(1980年)
  • 嗚呼!おんなたち・猥歌(1981年)
  • 赤い帽子の女(1982年)
  • もどり川(1983年)
  • 美加マドカ・指を濡らす女(1984年)
  • 恋文(1985年)
  • 離婚しない女(1986年)
  • ベッドタイムアイズ(1987年)
  • 噛む女(1988年)
  • 棒の哀しみ(1994年)
  • インモラル・淫らな関係(1995年)

テレビドラマ

CM

関連項目

脚注

  1. 人形映画の第一人者にアカデミー賞女優 個性派揃い 佐賀県の映画人たち 佐藤忠男 佐藤忠男の映画人国記 ウェッジ 2018年7月9日閲覧。
  2. 山根貞男 『日本映画の現場へ』 筑摩書房、1983。ISBN 9784480871626。
  3. 神代辰巳監督 「棒の哀しみ」を残して天国へ旅立つ”. シネマ報知. 報知新聞社 (1995年). 2008年10月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2015閲覧.

外部リンク