沖縄戦
沖縄戦(沖縄の戦い) | |
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戦争: 太平洋戦争 | |
年月日: 1945年3月26日 - 6月23日 | |
場所: 沖縄本島および周辺島嶼、海域 | |
結果: 連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 イギリス |
戦力 | |
116,400人 うち戦闘部隊 陸軍50,000人 海軍3,000人 後方部隊20,000人 沖縄現地召集約30,000人[1] |
548,000人 うち上陸部隊当初183,000人[2] 延べ陸軍190,300人 海兵隊88,500人 合計278,800人[3] |
損害 | |
日本 人的損害 |
アメリカ 人的損害 |
沖縄戦(おきなわせん、沖縄の戦い)
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦い。
連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦(英: Operation Iceberg、氷山作戦)。琉球語では、Ucinaaikusa (ウチナー(沖縄)いくさ(戦、軍)、の意)ともいう[31]。
戦闘前夜
戦局も押し詰まった1944年(昭和19)3月、本土決戦の防備ラインとして南西諸島を守備すべく第三二軍(牛島満(みつる)司令官)が編成された。沖縄移駐後、軍は航空基地の設定と全島要塞(ようさい)化を目ざして県民男女を徴用し突貫工事を敢行する。しかし、1944年10月10日、レイテ決戦を目前にした米軍の南西諸島全域に対する大空襲(10.10空襲)により守備軍の施設、戦力は甚大な被害を受け、また、那覇市がほぼ全焼するなど県民生活も大きな打撃を被った。しかも第三二軍の主力部隊がやがてフィリピン作戦に抽出されたため、軍首脳は現地徴兵、防衛召集などを通じて県民のなかから即席の兵力を補充するとともに、作戦も戦略持久作戦に変更せざるをえなくなった。沖縄戦開戦時の守備軍は約10万といわれるが、その約3分の1は先の補充兵力にすぎず、兵器、弾薬とも劣弱であった。これに対して米軍は、陸上攻略部隊17万3000、後方支援部隊をあわせると実に44万にも及び、兵器、弾薬の面でも圧倒的に優勢であった。戦場化必至の情勢下で県外(九州、台湾)へ約10万人が疎開したが、海上の危険と船腹の不足で所期の目標を達成できず、大半の県民はやがて戦場となる県内にとどまった。疎開者のなかには、約800名の児童を乗せた船が米潜水艦によって撃沈された対馬(つしま)丸遭難事件(1944年8月22日)のような悲劇に遭遇した人も多い。
戦闘経過
硫黄(いおう)島陥落後、米軍はただちに沖縄攻略作戦(アイスバーグ作戦)に着手し、1945年3月23日から沖縄諸島に激しい空襲、艦砲射撃を加えた。26日慶良間(けらま)列島に上陸して同島を確保した米軍は、4月1日、いよいよ沖縄本島中部西海岸に上陸作戦を開始した。日本軍は主力を首里(しゅり)を中心とする浦添(うらそえ)高地一帯に配置していたため、米軍は抵抗らしい抵抗も受けずに上陸を完了して沖縄本島を南北に分断、北部および各離島制圧のための作戦を展開する一方、主力は南進して7日ごろから日本軍主力に総攻撃を開始した。首里の北方浦添高地で展開された両軍の死闘は40日余に及び、両軍とも大きな損害を被った。とくに日本軍は主力部隊をこの戦闘で失ったため、5月22日、拠点であった首里を放棄し残存兵力約4万(一説では3万)をもって南部(島尻(しまじり))に撤退し、ゲリラ戦的抵抗を含む抗戦を続行することとした。狭い南部には戦火に追われた一般県民(推定10万人以上)も避難したため、軍民混在のパニック状態に陥り、そこに米軍の激しい攻撃が加えられたため過酷な状況が展開した。日本軍による壕(ごう)追い出し、住民虐殺、食糧強奪が発生し、住民は、米軍はおろか日本軍の暴虐行為にまで恐れおののく事態となった。南部にかろうじて設定された八重瀬岳(やえせだけ)一帯の日本軍防衛線も6月18日ごろには米軍に突破されたため、牛島司令官は「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」と最後の命令を発し、23日未明、摩文仁(まぶに)の軍司令部壕において自決した。ここに日本軍による組織的抵抗は最終的に終了したが、米軍は引き続き掃討戦を展開、6月末までに約9000人の日本兵が犠牲となり、8万人ほどの一般婦女子が収容されたという。「ひめゆり部隊」をはじめとする学徒隊や、現地応召の防衛隊の多くも南端の洞窟(どうくつ)や海岸で悲惨な最期を遂げた。米軍が沖縄攻略作戦の終了を宣言したのは7月2日のことである。
被災と特徴
3か月余の戦闘で日本軍将兵(県出身者を除く)6万5908人、米軍将兵1万2281人、県出身軍人・軍属2万8228人の戦死者が出た。また、一般県民9万4000人(推定)が犠牲となった(以上県援護課資料による)。県民のなかには集団自決や日本軍による虐殺の例、軍命により強制移住させられマラリアにかかり死亡した例、あるいは一家全滅した例などさまざまな戦死例があり、実数は今日に至るまで判明していない。戦闘員よりも一般住民の戦死者が多いという事実に沖縄戦の特徴がよく表れている。それは、本土進攻をスムーズに運ぶため物量を投入して一気に沖縄を制圧しようとする米軍と、本土進攻を1日でも長引かせるため出血作戦を前提に総力戦を展開する日本軍とが、県民をも巻き込む形で戦闘を行ったからである。沖縄の各地にはいまなお未収集の戦死者の遺骨が数多く存在するといわれている。また、人命ばかりでなく、21件も存在した国宝文化財をはじめとする多くの文化遺産がことごとく灰燼(かいじん)に帰した。戦争で肉親を失った者、傷ついた者など現在の沖縄県民のすべてがなんらかの形で被害者、遺族だといわれている。研究者の間では、沖縄戦は近代沖縄の「結論」であると同時に、戦後沖縄の「原点」「起点」と規定されている。 毎年6月23日は「慰霊の日」として沖縄県では公休日であり、県主催の合同追悼式をはじめ各種の集会が開催されている。50回目にあたる1995年(平成7)の「慰霊の日」には、糸満(いとまん)市の平和祈念公園内に建設された「平和の礎(いしじ)」の除幕式が行われた。「平和の礎」は沖縄戦で戦死した全犠牲者の氏名が刻まれた記念碑。激戦地となった南部の摩文仁一帯は沖縄戦跡国定公園に指定され、各種の慰霊塔が建立されており、また、沖縄戦当時そのままのようすを伝える洞窟などがいまなお各所に存在している。
脚注
- ↑ 八原(2015年)、123頁
- ↑ 米国陸軍省(1997年)、35頁。
- ↑ ウォーナー(1982年)、253頁。
- ↑ “2 沖縄戦―軍民無差別の戦場”. 沖縄県公文書館. . 2017-10-4閲覧.
- ↑ 沖縄県生活福祉部援護課発行「沖縄の援護のあゆみ―沖縄戦終結50周年記念」1996年
- ↑ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 179
- ↑ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 171
- ↑ “A Memorial Day’s Solace”. Lima Charlie News. . 2017閲覧.
- ↑ “THE 15 MOST FATAL BATTLES IN US HISTORY MACABRE”. . 2017閲覧.
- ↑ Vic Flintham(2009年)、22頁
- ↑ “BATTLE OF OKINAWA”. . 2017-10-5閲覧.
- ↑ AAP-06, NATO Glossary of terms and definitions, NATO, (2013), p. 123, オリジナルの2017-10-05時点によるアーカイブ。
- ↑ 米国陸軍省(1997年)、516頁。
- ↑ “(6)平和の礎 刻銘者数”. 平和祈念公園 - 沖縄県平和祈念財団. . 2017閲覧.
- ↑ Vic Flintham(2009年)、22頁
- ↑ 米国陸軍省(1997年)、519頁。
- ↑ Rielly 2010, pp. 318-324
- ↑ 18.0 18.1 “U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945” (英語). . 2016閲覧.
- ↑ Rielly 2010, pp. 318-324
- ↑ ウォーナー 1982b, pp. 294-359
- ↑ 図説特攻 2003, pp. 122-123
- ↑ "The Battle of Okinawa", Retrieved October 5, 2017.
- ↑ 米国陸軍省(1997年)、420頁。
- ↑ Alexander (1996) , p. 34.
- ↑ “The Royal Navy's Pacific Strike Force”. U.S. Naval Institute. . 2017-10-5閲覧.
- ↑ Judith Pearson(2004年)、84頁。
- ↑ ウォーナー 1982b, pp. 294-359
- ↑ Judith Pearson(2004年)、84頁。
- ↑ “Chronology of Aviation History”. . 2017-10-5閲覧.
- ↑ “Task Force 57: The British Pacific Fleet LAYOVER Leyte Logistics, Okinawa Campaign - April 23 - May 1, 1945”. . 2017-10-5閲覧.
- ↑ 半田一郎 『琉球語辞典』第1版 大学書林、1999年、563頁。ISBN 4-475-00144-7。