母体保護法
母体保護法 | |
---|---|
日本の法令 | |
法令番号 | 昭和23年7月13日法律第156号 |
効力 | 現行法 |
種類 | 医事法 |
主な内容 | 不妊手術や人工妊娠中絶に関する事項を定める |
条文リンク | 総務省法令データ提供システム |
母体保護法(ぼたいほごほう、昭和23年7月13日法律第156号)は、不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により、母性の生命健康を保護することを目的とする法律である(同法1条)。
本法によって母体保護法指定医師が指定される。また、本法では薬機法の規定に関わらず「ペッサリー等避妊具を販売できる」という特権を有する受胎調節実地指導員についても規定が置かれている。
Contents
経緯
優生保護法の成立
1907年にアメリカ合衆国のインディアナ州で世界初の優生思想に基づく中絶・堕胎法が制定された。それ以降、1923年までに全米32州で制定された。カリフォルニア州などでは梅毒患者、性犯罪者なども対象となったこともあった[1]。優生学は20世紀には世界的に国民の保護や子孫のためとして大きな支持を集めていた。日本では戦後の当初は1948年(昭和23年)に優生保護法という名称で施行された。この法律は、戦前の1940年(昭和15年)の国民優生法と同様優生学的な色彩がある法律である。
明治刑法が「墮胎の罪」を定めて中絶した者には刑事罰を与えていた一方、国民優生法は、「国民素質ノ向上ヲ期スルコト」を目的とすることを謳って親の望まぬ不良な子孫の出生と流産の危険性のある母胎の道連れの抑制、多産による母体死亡阻止を目的とし、日本では中絶という行為が宗教的タブーであるとは見なされていなかったため、出産という女性への選択肢の位置づけがなされていた[2]。状況によっては家族や後見人が中央優生審査会、地方優生審査会に手術申請を行うことや、中絶や放射線照射の処置を可能としていた法律である[3]。なお当時存在した日本優生学会(1925年創立、阿部文夫、岡本利吉、他)では同法に併せて不妊手術の状況を報告し、また人口増加問題も論じている[4][5][6]。
しかし、戦後の優生保護法においては、戦後の治安組織の喪失・混乱や復員による過剰人口問題、強姦による望まぬ妊娠の問題を背景にし、革新系の女性議員にとっては、妊娠中絶の完全な合法化させるための手段である側面があった。1946年(昭和21年)4月10日に行われた戦後初の選挙である第22回衆議院議員総選挙で当選した革新系の女性議員らは、第1回国会において国民優生法案を提出した。日本社会党の福田昌子、加藤シヅエといった革新系の政治家は母胎保護の観点から多産による女性への負担や母胎の死の危険もある流産の恐れがあると判断された時点での堕胎の選択肢の合法化を求めた。
彼女らは死ぬ危険のある出産は女性の負担だとして人工中絶の必要性と合法化を主張していた。加藤などは外国の貧民街を見て帰国直後の1922年には社会運動に理解のあった夫と日本で産児調節運動を開始していた。石本静枝として産児制限運動を推進するなど母胎保護には望まぬ出産への中絶の権利や母胎への危険のある出産を阻止する方法が女性に必要だと訴えていた[7]。
障害者への強制不妊手術
更に親族や預け先が面倒を見ていることで、生活を送っている障害者同士が親族の把握を越えて妊娠する場合や障害者が性的暴行で妊娠させた場合、精神や知的障害者が性的暴行を行った場合は心神喪失て責任能力が無いことで無罪になるため、面倒を見ている親族が謝罪や和解金を負担すること、妊娠した子供の世話、心神喪失で罪にならないも問題になった。
障害者同士で理解せずに性行為を行って妊娠した場合、特に男性障害者による性的暴行の場合、これを繰り返すことも問題になった。障害者を持つ親族から出産後の自分での子育て能力や相手を妊娠させた場合に法的責任持てないと判断された場合の中絶や不妊手術を許可することを合法化してほしいとの要求が起きた。
特に面倒を見ている親族やその家族の更に子供までの面倒を見きれないとの感情、性的被害者やその親族の心神喪失は無罪との怒りを背景に出産後の子育てや中絶や不妊手術を合法化要求があり、当時は与野党異論なく法案に盛り込まれた。これは面倒を見ている者らの苦労への同情や苦労を経験している親族らの要請が通ったからとの声がある。
実際に障害者への中絶や不妊手術に対して、度重なる性的暴行・妊娠、被害者からの法的責任能力の欠如批判、それらの報道に触れるなど更なる負担増加を理由に親族らが手術希望したり、容認した。齋藤有紀子はこの親族らの考えは世界的に珍しくなく、中絶の合法化された国家で障害を持つ子供を妊娠した時点で中絶を選択する率がどこの国家も高いことから、障害者の要望とその親族の要望では、親族の要望が優先されていると指摘している[8]。
改正案を巡る議論
1949年(昭和24年)の法改正により、経済的な理由による中絶の道が開かれ、1952年(昭和27年)には中絶について地区優生保護審査会の認定を不要とした。刑法上の堕胎罪の規定は存置されたが、空文化が指摘されるようになった。
その後、高度成長により、経済団体の日本経営者団体連盟(日経連)などからは将来の優れた労働力の確保という観点から中絶の抑制が主張されるようになった。また、宗教団体からは、生長の家とカトリック教会が優生保護法改廃期成同盟を組織して中絶反対を訴えた。一方、羊水診断の発展により、障害を持つ胎児が早期に発見されるようになり、日本医師会は生長の家などの主張には反対しつつ、障害を持つ胎児の中絶を合法化するように提言した。こうした、思惑は違えど様々な改正案の動きがあった。これに対して、全国青い芝の会などの障害者団体は優生学的理由を前面に出した中絶の正当化に対して、中ピ連やリブ新宿センターなどの女性団体からはそれに加え、経済的な理由に基づく中絶の禁止に対する反発が広がるようになった。
1962年に社会民主党の前身である日本社会党当時の宮城県議が宮城県に不妊手術の強化を要求した。そのため、後身の社会民主党は関係者に謝罪する声明を発表している[9]。 1970年代から1980年代にかけて、両者の間で激しい議論がなされた。1972年5月26日、政府(第3次佐藤改造内閣)提案で優生保護法の一部改正案が提出された。改正案は経済団体や宗教団体などの意向を反映したもので、以下の3つの内容であった。
- 母体の経済的理由による中絶を禁止し、「母体の精神又は身体の健康を著しく害するおそれ」がある場合に限る。
- 「重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる」胎児の中絶を合法化する。
- 高齢出産を避けるため、優生保護相談所の業務に初回分娩時期の指導を追加する。
障害者団体からは主に2が、女性団体からは主に1と3が反対の理由となった。法案は一度廃案になったが、1973年に再提出され、継続審議となった。1974年、政府は障害者の反発に譲歩し、2の条項を削除した修正案を提出し、衆議院を通過させたが、参議院では審議未了で廃案となった。
宗教団体などによる、経済的理由による中絶禁止運動はその後も続いた。マザー・テレサは1981年、1982年と二度の来日で、中絶反対を訴えている。一方で日本母性保護医協会、日本家族計画連盟などが中絶を禁止するべきでは無いと主張し、地方議会でも優生保護法改正反対の請願が相次いで採択された。その結果、1981年(鈴木善幸内閣)から再度の改正案提出が検討されたが、1983年5月(第1次中曽根内閣)には、自民党政務調査会優生保護法等小委員会で時期尚早との結論を出し、国会提出は断念された。
母体保護法への改組
1996年(平成8年)の法改正により、法律名が現在のものに変更されるとともに、人権上の問題のある規定で、優生学的思想に基づいて規定されていた強制断種等に係る条文が削除され、「優生手術」の文言も「不妊手術」に改められた。
なお、優生保護法、母体保護法ともに、議員立法によって制定・改正が行われてきている。ただし、行政実務上の主務官庁は厚生労働省(雇用均等・児童家庭局母子保健課)となっている。
構成
- 第1章 - 総則(第1条~第2条)
- 不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により、母性の生命健康を保護することを目的としていると記述されている。
- 旧優生保護法では、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とすると記述されていた。
- 第2章 - 不妊手術(旧法では、優生手術。第3条~第13条)
- 旧法では、本人又は配偶者の遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患もしくは癩(らい)疾患、血族の遺伝性精神病などを理由により優生手術(断種)を行うことができた。また、特定の遺伝性精神・身体疾患に対し、医師がその疾患の遺伝を防止するため公益上必要であると判断した場合、都道府県優生保護審査会の審査を経て、(本人又は配偶者の意向に関係なく)優生手術を行うものとされた。
- 現法では、不妊手術は審査を受けず、本人と配偶者の同意で行えると明記され、第4条から第13条まで法文が削除されている。
- 第3章 - 母性保護(第14条~第15条)
- 第14条では、指定医師は次のいずれかに該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができると定めている。
- 第4章 - 削除(旧法では、都道府県優生保護審査会)
- 第5章 - 削除(旧法では、優生保護相談所)
- 第6章 - 届出、禁止その他(第25条~第28条)
- 第7章 - 罰則(第29条~第34条)
- 附則
免許・資格
表記の不一致
旧法(優生保護法)時代には表記の不一致があった。
- 遺伝性奇型(第3条第1項第1号、第14条第1項第1号及び同第2号)⇔遺伝性畸形(第3条第1項第2号)
- 癩疾患(第3条第1項第3号)⇔らい疾患(第14条第1項第3号)
脚注
出典
- ↑ 「優生学の錯綜」、『関西医科大学法医学講座』 (関西医科大学)、2013年4月1日。 オリジナルの2015年7月15日時点によるアーカイブ 。
- ↑ 母体保護法とわたしたち、齋藤有紀子、2002年、p23]
- ↑ 『国民優生法』。『官報』、1940年、
- ↑ 『優生手術十ケ月狀況』、日本優生学会『優生学』、1942年。
- ↑ 日本優生学会『優生学』、1941年12月。
- ↑ 阿部文夫『社会問題と教育:優生運動』、『岩波講座教育科学』、1933年。
- ↑ 永畑道子 『花を投げた女たち : その五人の愛と生涯』 文藝春秋、124頁。
- ↑ 母体保護法とわたしたち、齋藤有紀子、2002年、p56]
- ↑ “社民、強制不妊問題で謝罪=旧社会県議が強化要求”. ニフティニュース. 時事通信 (NIFTY). (2018年2月22日). オリジナルの2018年2月23日時点によるアーカイブ。
関連項目
外部リンク
- 母体保護法 総務省法令データ提供システム
- 神経筋疾患ネットワーク
- 年表:優生保護法・母子保健法・他 - 立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点