横網町公園
横網町公園(よこあみちょうこうえん)は、東京都墨田区横網にある東京都立の公園である。東京都慰霊堂や復興記念館があるところとして知られている。
歴史
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきた。直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園に避難した人だけで38,000人が犠牲になったという。震災後、その38,000人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。やがて東京の復興が進む中、建築家・伊東忠太の設計の元、当公園に関東大震災による遭難死者約58,000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられ、1930年に完成。数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。また横網町公園自体も1930年9月1日に開園した。翌1931年には当公園内に関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した。しかし、1945年、東京は第二次世界大戦により再び焦土と化し、多くの犠牲者が出た。特に3月10日の東京大空襲では多くの犠牲者が出た。当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬されていた。その後第二次世界大戦で身元不明の遺骨などを当公園にある納骨堂を拡張し「震災記念堂」に合祀されることになった。そして1951年に「東京都慰霊堂」と改称され現在にいたっている。他には関東大震災の際に、朝鮮系の住民が震災に乗じて略奪や襲撃を起こしているという情報が流れたため、一部の朝鮮人(朝鮮人と間違えられた日本人も)が混乱下の避難民により殺害され、それを追悼する石碑や、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑などがあり、横網町公園は関東大震災と第二次世界大戦のメモリアルパークとしての要素が強い公園となっている。
主な施設
- 東京都慰霊堂 - 関東大震災の発生した9月1日と東京大空襲の3月10日に法要が営まれている。
- 東京都復興記念館…現在の建物は設立当時のもの。内部は第二次世界大戦に関する資料もある。また屋外には関東大震災で被災した物を展示している。
- 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
- 東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑…2001年に完成した。
- 震災遭難児童弔魂群像…関東大震災で被災し犠牲となった児童らを弔うために作られた像。1944年に完成したが、戦争により接収され、現在のは1961年に作製されたものである。
- 日本庭園
- 面積:19,579.53m2