徳川慶喜家
提供: miniwiki
徳川慶喜家(とくがわよしのぶけ)は、最後の征夷大将軍である徳川慶喜が、明治維新ののち蟄居していたのを許され、徳川宗家から別家として改めて公爵を授けられたことによって始まる家である。邸宅は東京府東京市小石川区小日向第六天町(現在の東京都文京区春日二丁目)に所在した。
概要
1867年(慶応3年)に徳川慶喜は、大政奉還を行ったが鳥羽・伏見の戦いで敗れて蟄居した。1868年(慶応4年)、田安徳川家の亀之助(徳川家達)に家督を譲り、宗家が新政府によって封ぜられた駿府(現:静岡県静岡市)で隠棲生活を送る。
1880年(明治13年)には罪を許され、大政奉還の功によって将軍時代の正二位に復位、続いて従一位に叙された。1897年(明治30年)に東京府北豊島郡巣鴨町(現:東京都豊島区巣鴨一丁目)、1901年(明治34年)に東京市小石川区小日向第六天町(現:文京区春日二丁目)に転居し、1902年(明治35年)、徳川宗家別家を興して公爵を授けられた。
慶喜は子沢山で、2人の側室との間に10男11女を儲けた。このうち四男の厚が徳川宗家分家として、九男の誠が慶喜家分家として、それぞれ男爵家を興したほか、池田侯爵家(旧鳥取藩主家)と勝伯爵家(勝海舟の家)に養嗣子を出している。2代当主・慶久の長女は昭和天皇の次弟高松宮へ嫁いだ喜久子妃である。
徳川慶朝(4代当主、3代慶光の長男、慶喜の曾孫)・榊原喜佐子(2代慶久の三女、慶喜の孫)・井出久美子(2代慶久の四女、慶喜の孫)が、それぞれ慶喜家に関する書籍を出版している。
徳川慶朝が2017年(平成29年)9月25日に病没したことにより徳川慶喜家の嫡流は絶えた[1]。
その他
- 1933年(昭和8年)7月7日、名古屋地方裁判所にて文書偽造行使詐欺で11万円を搾取した罪により徳川喜好(春日喜好)に懲役2年の判決が出された。徳川喜好は慶喜の孫で徳川厚の三男であり、侯爵徳川義親の甥であった[2]。この詐欺事件には喜好の母里子や、兄喜翰(のぶもと)も関与していたとされる[2]。「それにしても、慶喜の子孫には事件や問題を起こす者が少なくない。父厚はひき逃げ事件、叔父精(くわし)は自殺事件(後述)、厚の次男喜福の妻は不貞事件(後述)」と千田稔は述べている[2]。さらに前述の喜好の子徳川泰章も会社の金を使い込んだ詐欺での逮捕歴がある。
- 慶喜末裔を名乗る徳川光康が2002年(平成14年)にNPO法人「徳川葵栄会」を立ち上げ、講演活動を行うと共に、葵の御紋入り江戸開府400年記念限定懐中時計[3]と称する商品の販売に協力しているが、徳川家の血を引く者ではないと『週刊新潮』2003年12月11日号に報じられた。同誌の報道によると、光康は茨城県行方郡潮来町出身の女医とロシア人の間に旧姓名・諸星ニコラスとして生まれたが、徳川豊治(慶喜の曾孫、徳川厚の次女喜和子と戸田豊太郎の次男)と米国で親しくなったことから、1995年(平成7年)10月、豊治の養子となり現在の氏名に改めたという。光康を養子縁組した当時、豊治はアルコール中毒で意識不明の状態だったとも同誌は報じている。光康は徳川氏の菩提寺である大樹寺の貫主から450万円を借金したが、返済したのはそのうち50万円のみだったとも同誌に報じられている。同誌で報道されて以後も、借金は返済されておらず、貫主は解任され、ハワイに更迭された。大樹寺側は訴訟も検討したが、断念した。近年、文化財の修理等で多額の費用を必要としており、予算不足に苦しむ同寺では今も対応に苦慮している。
- 『週刊新潮』2004年6月24日号で、「慶喜直系の末裔・徳川慶圀」を名乗って結婚詐欺や寸借詐欺を働いている男の存在が報じられた。
- 2009年(平成21年)1月19日には、「六本木のIT会社社長で宮内庁掌典職の徳川慶敬」を名乗って現金約420万円を騙し取った男が警視庁赤坂署に逮捕されている。
系譜
徳川慶喜家(徳川宗家別家)
脚注
- ↑ “徳川慶朝さん死去 67歳 写真家、将軍慶喜のひ孫”. 茨城新聞クロスアイ. 茨城新聞社. (2017年9月26日) . 2017-9-26閲覧.
- ↑ 2.0 2.1 2.2 『明治・大正・昭和華族事件録』67-68頁(千田稔著、新人物往来社)
- ↑ 江戸開府400年記念懐中時計販売サイト(アーカイブ) (日本語)
参考文献
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編 『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年、155 - 157頁。