山部赤人
山部 赤人(やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736年)?)は、奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。姓は宿禰[1]。大山上・山部足島の子とし、子に磐麻呂がいたとする系図がある[2]。官位は外従六位下・上総少目[2]。後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。
概要
その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの史書に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。『万葉集』には長歌13首・短歌37首が、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している[3]。自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌で知られ、その表現が周到な計算にもとづいているとの指摘もある。
柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。紀貫之も『古今和歌集』の仮名序において、「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」[4]と高く評価している。この人麻呂との対は、『万葉集』の大伴家持の漢文に、「山柿の門」(山部の「山」と柿本の「柿」)とあるのを初見とする[5]。
平安時代中期(『拾遺和歌集』頃とされる)には名声の高まりに合わせて、私家集の『赤人集』(三十六人集のひとつ)も編まれているが、これは万葉集の巻11の歌などを集めたもので、『人麻呂集』や『家持集』とおなじく万葉の赤人の作はほとんど含んでいない。『後撰和歌集』まではあまり採られることのなかった人麻呂ら万葉歌人の作品が、『拾遺和歌集』になって急増するので、関連が考えられている。
滋賀県東近江市下麻生町には赤人を祀る山部神社と赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺がある。なお、赤人の墓と伝わる五輪塔が奈良県宇陀市の額井岳の麓に存在する。
作品
百人一首
- 田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
万葉集
- 田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける[6]
- 若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る
- み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだもさわく 鳥の声かも
- 吾兄子(わがせこ)に 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪のふれれば
ストラヴィンスキーが曲をつけていることで知られる。
今昔秀歌百撰
- いにしへの古きつつみは年深み池の渚に水草生ひにけり, 11,選者:児玉稔(会社員)
参考文献
脚注
- ↑ 山部宿禰(もと山部連)は、天神系氏族である久米氏の一族で、職業部(cf. 部民制、品部)の一つである山部 (部民)の伴造家とされる。また、『日本書紀』天武13年条に山部連から山部宿禰への改姓記事があるが、この時に赤人が宿禰姓を賜与されたかどうかははっきりしない。
- ↑ 2.0 2.1 鈴木真年『諸系譜』第二冊、山宿禰
- ↑ 『勅撰作者部類』
- ↑ この一文では人麻呂より赤人の方を評価しているように読めるが、全文を通じて最も評価されている歌人は人麻呂である。
- ↑ ただし、この「山柿」については、「山」を山上憶良とする説もある。
- ↑ 大井川マラソンコース(静岡県島田市)の、蓬莱橋付近に歌碑がある。ただし「真白にそ」の部分が「まし楼にそ」となっている。
関連項目