女子学院中学校・高等学校
女子学院中学校・高等学校 | |
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国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人女子学院 |
設立年月日 | 1870年(明治3年) |
創立者 | ジュリア・カロゾルス |
共学・別学 | 男女別学(女子校) |
中高一貫教育 | 完全一貫制 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 2学期制 |
高校コード | 13508K |
所在地 | 〒102-0082 |
公式サイト | 女子学院 中学校・高等学校 |
女子学院中学校・高等学校(じょしがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都千代田区一番町に所在し、中高一貫教育を提供するキリスト教(プロテスタント)系の女子中学校・高等学校。ちなみに教派は長老派 (Presbyterian) である。なお、高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校である[1]。設置者は学校法人女子学院。通称は「JG」。
Contents
概要
明治初期に女性宣教師や日本人キリスト者によって建てられた3つの女学校(A六番女学校、B六番女学校、桜井女学校)を源流とする、日本で初めて設立されたミッション系女学校である。
沿革
1870年(明治3年)、ジュリア・カロゾルス(Julia D. Carrothers 1845年−1914年、C・カロゾルスの妻)により、築地居留地六番にA六番女学校が設立された。その後、原胤昭に引き継がれて原女学校となった。
1874年(明治7年)、ミス・ヤングマンとミス・パークが同じ築地居留地六番地にB六番女学校を設立。その後、居留地四十二番に移転して新栄女学校となった。
1876年(明治9年)、櫻井ちかが麹町に櫻井女学校を設立。櫻井が夫の函館赴任に伴い北海道に去ると、マリア・ツルーが経営を引き受け、矢嶋楫子が校主(現在の校長と理事長を兼ねた職)代理となり同校を支えた。
1878年(明治11年)に原女学校と新栄女学校が合併。さらに1890年(明治23年)に櫻井女学校と合併して校名を「女子学院」に改め、現在地に校舎を新築移転、矢嶋楫子が初代院長となった。
創立記念日の10月24日は、櫻井ちかが女学校設立の許可を東京府から得た日である。
略歴
- 1870年(明治3年) - A六番女学校設立。
- 1874年(明治7年) - B六番女学校設立。
- 1876年(明治9年) - A六番女学校、B六番女学校がそれぞれ原女学校、新栄女学校に改称。櫻井女学校設立。
- 1878年(明治11年) - 原女学校と新栄女学校が合併(校名は新栄女学校)。
- 1890年(明治23年) - 櫻井女学校と合併し「女子学院」に改称。現在地に移転。
- 1920年(大正9年) - 高等科(現在の大学教育に相当)を東京女子大学に統合。以後、中高一貫校として今日に至る。
制服
毎日着用義務のあるものとしての「制服」は、1972年(昭和47年)に廃止された。これは、冬は紺色の上下共布のセーラー服で、胸のスカーフのリングに「JG」の飾り文字が入り、袖に、アメリカ合衆国の国章からとった「鷲」のロゴが入る。夏服は上は身頃が白で、ロゴが紺色となり、冬服とネガポジが逆転する形となっている。胸には、緑色の横長三角形で中にJGの文字を入れたペナントのような型の校章バッジをつける。スカーフの色は赤が中学、紺が高校で、中学と高校を見分けられるようになっていた(このほかの学年章のようなものは無かった)。ただし儀式のときは白のスカーフを着用する規定であった。
生徒に愛着を持って着用された制服であったが、当時学校の経営陣の間にあった内紛で「自由化派」が勝利し、それを象徴する指導方針の変更として、上から「制服廃止」が通告され、着用義務がなくなった。また、この変化の背景には1969年(昭和44年)11月に一部生徒によってなされたバリケード封鎖と全学集会(大島孝一院長と教師参加)がある。そこで出された五項目、中でも (1) 「習う」から「学ぶ」への転換(主体性の重視) (4) 「相対評価」から「絶対評価」へ(教育における個性の尊重)、がある。この提起によって当時の女子学院に被せられた名門受験校という現実を見直し、元々の女子学院における歴史と精神の想起がなされる(「装飾のために学ぶのではなく、人として起つべき道を知るために勉強するのだ」三谷民子)。結果、1971年(昭和46年)6月大島院長から父兄宛文書で、「制度」としての服装規定の廃止が表明される。そこで大島院長は、「いったい服装は個性をもって選びとるものであり、機能に応じて用い方を工夫すべきものであって」「そのことがひとつの教育であると考えます」と、自己によって選びとることの重視であることを説明した。
だが、この上意下達の方針変更にも拘らず、多くの生徒の心情の中でこのセーラー服への愛着がやむことはなく、これを自主的に着用する気風が生徒の間に連綿と続いている。今でも指定洋服店が制服とされていた時と同じ伝統の型のセーラー服を製造・販売している。これは、正規合格者ないし現役の生徒であることの証明がないと購入できず、スカートの長さに規制があるなど、事実上の「準制服」という地位にある。
進学実績
2018年度の大学合格者数(現役のみ)は、東京大学が29名、慶應義塾大学が77名、早稲田大学が111名、上智大学が52名などである[2]。
関東圏以外の大学では、京都大学が8名など。
著名な出身者
政治・経済
- 金子みつ - 元衆議院議員、元東京大学医学部助教授
- 水鳥真美 - 日本人女性初の国際連合事務総長特別代表
- 大塚玲奈 - 国連開発計画環境専門官
- 植村環 - キリスト教婦人運動家
- 久布白落実 - キリスト教婦人運動家
学者・知識人
- 池田弘子 - 名古屋芸術大学名誉教授
- 野口貴公美 - 行政法、一橋大学教授 / 野口悠紀雄一橋大学名誉教授の子
- 青山千春 - 海洋環境工学、海洋音響学、東京海洋大学准教授兼株式会社独立総合研究所取締役
- 吉澤夏子 - 社会学、立教大学教授 / 大澤真幸京都大学教授の元妻
- 櫻井敬子 - 行政法、学習院大学教授
- 板坂則子 - 日本文学、専修大学教授
- 渡辺道子 - 戦後初の女性弁護士
- 白石和子 - 外交官、女性・人権人道担当兼北極担当大使、駐リトアニア大使
- 白田佳子 - 元日本学術会議会員経営学委員長、元アジア学術会議事務局長、法政大学、法制審議会委員[3]
文芸・芸能
- 福田英子 - 作家
- 吉行理恵 - 作家 / 芥川賞
- 幸田文 - 作家
- 和田夏十 - 脚本家 / 市川崑の妻
- 岸本佐知子 - 翻訳家
- 稲垣美晴 - 翻訳家
- 池田蕉園 - 画家
- 辛酸なめ子 - 漫画家、タレント
- 須田さぎり - 漫画家
- 今日マチ子 - イラストレーター、ライター
- 一ノ瀬トニカ - 作曲家
- 志賀暁子 - 女優
- 吉行和子 - 女優
- 斉藤美和 - 女優
- 荒木道子 - 女優
- 宮崎恭子 - 女優、脚本家、仲代達矢の妻、無名塾創設者
- 宮園純子 - 女優[4]
- 古川美有 - モデル
- 黒木香 - 元AV女優
- 木村美紀 - タレント、薬学博士
- 大原ますみ - 女優、宝塚歌劇団卒業生
- 芦沢央 - 作家
マスメディア
- 須磨佳津江 - 元NHKアナウンサー、フリーアナウンサー
- 原麻里子 - 元テレビ朝日アナウンサー、フリーアナウンサー、社会人類学者
- 島津有理子 - NHKアナウンサー
- 膳場貴子 - 元NHKアナウンサー、フリーアナウンサー
- 馬場典子 - 元日本テレビアナウンサー、フリーアナウンサー
- 徳島えりか - 日本テレビアナウンサー
- 合原明子 - NHKアナウンサー
- 和久田麻由子 - NHKアナウンサー
- 庭野めぐみ - 日本テレビ解説委員
- 高妻由美 - 元テレビ岩手アナウンサー
- 國本未華 - 気象予報士
- 今泉みね子 - 環境ジャーナリスト
その他
参考文献
- 猪熊建夫「名門高校の校風と人脈(26) 女子学院高校(私立・東京都千代田区)」、『エコノミスト』第91巻第1号、毎日新聞社、2013年1月8日、 74-75頁。
- 『女子学院の歴史』 編集 女子学院史編集委員会 発行 学校法人女子学院 1985年10月24日
関連人物
- メアリー・トゥルー(Maria T. True 1840年-1896年) - 女性宣教師。1874年(明治7年)来日。初め横浜で伝道に従事し共立女学校に勤務、のち東京に移り原女学校、新栄女学校、桜井女学校に勤めた。
- 矢嶋楫子 - ツルーとの出会いをきっかけに新栄女学校の教師となる。その後、櫻井女学校の校主代理となり、「女子学院」の発足に伴い初代院長となった。
- 櫻井ちか - 櫻井女学校の創設者
- オーガスト・カール・ライシャワー - 1920年-1927年院長、東京女子大学、日本聾話学校を創設、駐日アメリカ合衆国大使エドウィン・O・ライシャワーの父
関連項目
脚注および参照
- ↑ 女子学院中学校の学校情報(中学受験パスナビ)(旺文社)の冒頭に「※系列高校での募集はない。」と記されている。
- ↑ 進路状況 | 女子学院 中学校・高等学校 公式サイト
- ↑ http://researchmap.jp/read0047543/
- ↑ 中途退学。