モンキー・パンチ
モンキー・パンチ | |
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本名 |
加藤 一彦 (かとう かずひこ) |
生誕 |
1937年5月26日(87歳) 日本・北海道厚岸郡浜中町 |
国籍 | 日本 |
職業 |
漫画家 デジタルクリエイター 教授 |
称号 | 修士(東京工科大学大学院) |
活動期間 | 1965年 - |
ジャンル | 青年漫画 |
代表作 |
『ルパン三世』 『一宿一飯』 など |
受賞 |
1980年代以降:INKPOT賞 ローマ・コミックフェスティバルROMICS金賞 AMD Award功労賞 |
公式サイト | 公式サイト |
モンキー・パンチ(本名:加藤 一彦(かとう かずひこ)[1]、1937年5月26日 - )は、日本の漫画家、デジタルクリエイター、元同人作家。大手前大学教授。東京工科大学メディア学部客員教授。代表作に『ルパン三世』・『一宿一飯』など。
来歴
北海道厚岸郡浜中町出身。実家は漁師。学生時代は地元唯一の医師である道下俊一の元でレントゲンの助手などを行っており、漫画で患者を和ませていた。北海道霧多布高等学校を経て、東海大学専門学校電気科中退。
手塚治虫の漫画の影響を受けて[2]、漫画を描き始め、高校卒業後すぐに上京、「加東一彦」のペンネームで貸本専門の出版社で漫画家のアルバイトをしながら、弟の加藤輝彦と、もう一人の友人と同人活動を行っていた。
上京後、アメリカのパロディ雑誌「MAD」の影響を受け、アメコミ風に作風が変化する。それが「漫画ストーリー」(双葉社)の清水文人編集長の目に留まり、1965年に、「ムタ永二」のペンネームにて『プレイボーイ入門』(「漫画ストーリー」)で本格的なデビューを果たす。「マニア・ぐるうぷ」名義で、「摩周仙二」「霧多永二」などが参加しているようにみせていたが、実際はすべて加藤一人で執筆していた[3]。「加東一彦」、「かとう・一彦」のペンネームも併せて使用していた。
1966年、清水編集長の命令でペンネームを「モンキー・パンチ」に改名する[4]。清水が新人に適当に付けた名前なので本人は気に入っておらず、1年ほどで変えるつもりだったが、この名義で翌年に発表した作品が大ヒットしてしまったので変えられなくなった(なお、清水がこの時期に新人に適当に付けた外国人風の名前にはバロン吉元やケン月影などがある)。
1967年5月、バロン吉元やケン月影など「漫画ストーリー」の新人漫画家を中心として刊行された「増刊漫画ストーリーアクション特集号」の表紙絵に抜擢され、8月に清水を編集長として新たに創刊された青年向け週刊漫画雑誌『WEEKLY漫画アクション』の表紙絵も引き続いて担当。また、『漫画アクション』8月10日創刊号より「ルブラン原作」表記で『ルパン三世』の連載(2年間)を始める。これが現在も継続してアニメ化されるほどの大ヒットとなり、出世作にして代表作となった。この時期に「モンキー・パンチ」名義で発表された『ルパン三世』などの作品は、主に一彦が物語やキャラクターを考え、絵は輝彦との共同作業という形をとっていたが、その後は一彦の一人だけによる名義となっている。
1980年代以降、サンディエゴ・コミックコンベンションにてINKPOT賞、ローマ・コミックフェスティバルROMICS金賞、AMD Award功労賞を受賞し、国内外から注目されている。
2003年4月、66歳にして、「きちんとした勉強をしないと、これ以上先に進めない」と考え、東京工科大学大学院メディア学研究科メディア学専攻(現・バイオ・情報メディア研究科メディアサイエンス専攻)修士課程(現・博士前期課程)に入学し、2005年3月に修了した。
2005年4月より、大手前大学人文科学部メディア・芸術学科マンガ・アニメーションコース教授(2007年4月より、メディア・芸術学部マンガ・アニメーション系)。
2010年5月より、東京工科大学メディア学部客員教授に就任[5]。
2015年、東京アニメアワード2015・アニメ功労賞を受賞[6]。
2017年、専門学校札幌マンガ・アニメ学院顧問に就任[8]。
人物・エピソード
ペンネームの「モンキー・パンチ」とはもともと弟の加藤輝彦との共作ネームだと語られていたが、これは誤りであり、弟の輝彦はアシスタントとして手伝っていただけである。本人たちが「漫画アクション」でのインタビューでこのことを否定している。
かつては同人作家としての活動も行っていたことがあり、同人誌「マニア」の発行を手掛けていた1人でもあった[9]。
作風が西欧風なのは、国外特にアメリカの雑誌の漫画も読んでいて影響を受けたからと言われる。神田の古書店で「MAD」に出会い、特にモート・ドラッカーの画風が好きだったという。「モンキー・パンチ」というペンネームは、その西欧風の作風と併せて「どこの国籍の人が描いているか分からなくする」ために、双葉社(の「漫画ストーリー」清水文人編集長)からつけられた[10][11]。当初、加藤本人はこのペンネームを不満に思い一年ほどの暫定的なペンネームのつもりでいた。ルパン三世等の作品の話のラストのコマに書かれているサインはカタカナではなく、ひらがなで「もんきーぱんち.」(「も」はハート型)と書かれている。
浜中町の僻地医療を描いた「プロジェクトX」(NHK)に、道下俊一医師の助手として出演歴あり。ここで紹介された診療所と同名の施設を『ルパン三世』の『健在ルパン帝国』にて登場させたこともある。フジテレビで放送された「潮風の診療所〜岬のドクター奮戦記〜」の中ではモンキー・パンチを世に送り出すきっかけをつくった道下医師の事及び本人の若き日々が描かれていた。
モンキー・パンチはあくまでルパン三世を「悪漢の大泥棒」として描きあげたが、原作よりも人気の高いアニメや映画などでは「心優しい大泥棒」ルパンという設定で、原作とは大きく性格が異なる部分がある。モンキー・パンチもルパンの中に優しい面があることは公言していたが、あくまでも悪事を働く泥棒であると主張を続けていた。アニメではモンキー・パンチ本人が初めて監督を務めたとき、「敵を後ろから刺す」というシーンでディレクターに「ルパンはそんなキャラではない」と言われ、作者であるにも関わらず却下されてしまった。ルパンや次元大介・石川五ェ門・銭形警部・峰不二子のキャラクターは、アニメ及び映画の性格設定がよく浸透している。
アメリカ合衆国の映画会社MGM製作のアニメ映画『トムとジェリー』の掛け合いが好きで、そのままルパン三世の世界として採用しており、銭形警部はトム、ルパン三世はジェリーをモデルにしている。トムとジェリーが心の底から好きだったため、原作者であるウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラに会いに渡米し、作者であるバーベラからルパン三世をモチーフにしたイラストを色紙に書いてもらっている。
アップルのパソコンの初期からのユーザーとしても有名である。Apple IIで作画を試みたことがあるが、当時のコンピュータは描画能力があまりにも低く、漫画が描けるレベルでの作画は不可能だった。現在ではアップルのMacintosh(Mac)とワコムの液晶ペンタブレットを利用して作画している。漫画のデジタル表現に関する研究を目的としたデジタルマンガ協会(2003年発足)の発起人となり、2012年まで会長を務めた。
また、無類のオーディオ・ビジュアルマニアとしても知られ、世界初の家庭用4KプロジェクターSony VPL-VW1000ESや現代ハイエンドの一角を担うスピーカーJBL DD67000などのウルトラハイエンドな機器をいち早く取り入れた、マニア垂涎のホームシアターシステムを自宅に構築している。
現在は千葉県佐倉市在住で、佐倉市広報カレンダーの作画も担当している。将来、自らキャラクターデザインを行いCGを駆使したハイクオリティーのアニメ映画を製作するのが夢という。「日本マンガ塾」講師も勤めている。
おもな漫画作品
- 1962年 -
- ナンバー5+α
- GANハスラー
- 反逆児
- 犯人を挙げろ
- 公開殺人
- 秘密工作
- 影のない男
- いかす奴
- 復讐 ※かとう一彦名義
- 怪談野郎 ※ 加東一彦名義
- 1965年 -
- プレイボーイ入門 ※ マニア・ぐるうぷ(ムタ永二)名義
- 荒野の無用心棒
- ピンクガードマン…必殺のブルース
- アウト・サイダー ※かとう・一彦名義(衛星でアニメ化)
- C調刑事さん(アウト・サイダー3) ※かとう・一彦名義
- 1967年
- 1968年
- 1969年
- パンドラ(衛星でアニメ化)
- 1970年
- 1971年
- マルチ
- 怪人ジャガーマン
- ルパン三世 新冒険
- 1972年
- 1973年
- 1974年
- 1976年
- 1977年
- 新ルパン三世
- 逆イソップ物語(衛星でアニメ化)
- 透明紳士(衛星でアニメ化)
- アリス・ザ・ワイルド(衛星でアニメ化)
- あっかん兵衛 (コミックギャング)
- 1978年
- 1980年
- シンデレラボーイ(アニメ化)
- 1981年
- ホーラ・ホームズ
- 1982年
- 宇宙冒険隊メカベンジャー
- シンデレラボーイ ※ 上記とは別作品
- 1983年
- ローラーボーイ
- ラッキー・モンキー
- マイコンボーイ (旺文社 パソコン誌)
- 1984年
- SEXY・ルパン・3
- ルパン三世の英会話作戦
- ラッキーどんきー(北海道新聞 日曜版)
- 1985年
- 1986年
- ピンキィ・パンキィ(衛星でアニメ化)
- ダアティ・ジョオク
- ろぼっと球団ガラクターズ(アニメ「おまかせスクラッパーズ」原作)
- 1990年
- ぎゃくてんデジタル組(毎日中学生新聞)
- 1991年
- 緊急発進セイバーキッズ(アニメ化)
- 1997年以降
- MUSASHI -GUN道-
- 超こち亀(秋本治との合作ルパン三世を掲載)
- 漫画活動大写真
- 千夜一夜物語(嶋中書店)
その他
- キャラクター原案
- キャラクターデザイン
- 挿絵
- 翻案
- 『アニメ三銃士』(TVアニメ、1987年)
- 『アニメ三銃士 アラミスの冒険』(アニメ映画、1989年)
- 千夜一夜物語
- アニメ監督
- パッケージデザイン
- 広告
出演
CM
- シャープ MZシリーズ(1983年)
関連項目
- 北海道浜中町
- 出身地の浜中町(JAはまなかエリア区域の厚岸町トライベツ地区も含む)では、観光客の誘致による観光客の増加を目的とした地域振興の一環として「ルパン三世はまなか宝島プラン」と称した再生プロジェクトを実施している[12]。このプロジェクトの実施により、浜中町内では主要な箇所にルパンファミリーのイラストを見ることができ、JAはまなかの地区案内マップの大きな看板にはルパンや次元などが吹き出し入りで描かれている(ルパン「よく来たな。おいらが○○を案内するぜ!」次元「よく来たな。○○はこの次元が案内するぜ!」不二子「よく来たわね。○○はあたしが案内するわ!」など)。また、各牧場・農家の入口看板にもモンキー・パンチの絵が使用され、霧多布温泉ゆうゆではルパングッズも販売されている[13]。
- 浜中町を通っている根室本線では2012年4月1日より、JR北海道キハ54形気動車の1両(キハ54 522)にルパンファミリーのラッピングが施された列車を運転している(まれに釧網本線などの路線で運行されることもある)[14]。
- 同町で運行されているくしろバスや霧多布中央ハイヤーの車両にもルパンファミリーのラッピング車両がある。
- 生まれ故郷を舞台にした作品には『ルパン三世 霧のエリューシヴ』がある。「ルパン三世生誕40周年記念作品」として、2007年7月27日に『金曜ロードショー』で放映された。
- 道内のラジオ局で放送されている浜中町のCMでは「モンキー・パンチのふるさと浜中町」という歌詞のコマーシャルソングが流れている。
- かつて『週刊少年ジャンプ』に短期掲載されていた読みきり漫画『ヌスット』の作者。絵柄が似ていることから「同一人物か弟ではないか」との説があったが、別人である。
脚注
- ↑ 読売新聞 2017年11月6日 15面。
- ↑ 吉本浩二『漫画ルーザーズ〜日本初の週刊青年漫画誌の誕生〜(1)』(双葉社)巻末対談
- ↑ 吉本浩二『漫画ルーザーズ〜日本初の週刊青年漫画誌の誕生〜(1)』(双葉社)巻末対談
- ↑ 従来、弟の加藤輝彦との合作ペンネームとされていたが、輝彦は「モンキー・パンチ」作品にはアシスタントとしてしか関わっておらず、誤り。吉本浩二『漫画ルーザーズ〜日本初の週刊青年漫画誌の誕生〜(1)』(双葉社)巻末対談
- ↑ 東京工科大学. “インタラクティブメディアコース 大学・大学院案内 メディア学部 東京工科大学 -”. . 2012閲覧.
- ↑ “東京アニメアワード「アニメ・オブ・ザ・イヤー」グランプリは『アナ雪』と「ピンポン」!(1/2)”. シネマトゥデイ (2015年3月23日). . 2015閲覧.
- ↑ 北海道新聞文化賞
- ↑ “世界的に有名な『ルパン三世』の作者、モンキーパンチさんが札幌マンガ・アニメ学院顧問に就任!”. 専門学校札幌マンガ・アニメ学院ニュースサイト (2017年11月14日). . 2017閲覧.
- ↑ 吉本浩二が描くアクション誕生秘話、1巻記念フェアで双葉社探訪ツアー&サイン会 - コミックナタリー。2018年4月25日20時53分発信、同年5月22日閲覧。
- ↑ 読売新聞2016年7月25日 夕刊7面「名作を訪ねて」
- ↑ 憧れの異文化が凝縮「ルパン三世」 モンキー・パンチさんに聞く誕生秘話 (2/5ページ) SankeiBiz 2015年10月3日
- ↑ 浜中町公式ホームページ「浜中町〜再生プロジェクト」
- ↑ 浜中町公式ホームページ「ルパン三世-宝島プラン-」
- ↑ JR北海道釧路支社公式サイト「ルパン三世ラッピングトレイン」
外部リンク
- 公式ウェブサイト - 「リニューアルに向け制作中」と表示されるだけの状態が10年以上続いている(2016年現在)