ダットサン・110/210

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ダットサン・110型系、210型系日本自動車メーカー日産自動車1955年昭和30年)から1959年昭和34年)まで生産した小型乗用車である。110・210は車体番号の共通部分などに使われる、いわゆる型式(かたしき)[注釈 1]のそれであって商品としてのものではない。また「愛称」(ペットネーム)もまだ存在せず、商品名としてはブランド名「ダットサン」に車種をつなげただけのダットサン乗用車となる。

それまで生産されていた戦後型のダットサン乗用車各車(DB6(デラックス)/DS6(コンバー))は、基本的に第二次世界大戦前の設計の延長上にあるシャシ[注釈 2]に、新三菱重工業(中日本重工業、後の三菱自動車工業)や住江製作所(現:住江工業)に外注した木骨手たたき板金の車体を載せた製品で、設計も生産方法も前時代的であった。これに対して110型は日産自身の設計による全面プレス化された車体を持ち、ダットサントラックと共通のはしご型フレームと前後固定軸という保守的なシャシ構成は引き継がれたものの、一気に近代化された設計となった。車体のスタイリングは同社造形課長の佐藤章蔵である。

110型系(1955年 - 1957年)

ファイル:1956 Datsun Model 112 02.jpg
ダットサン乗用車112型

最初のモデルとなった110型は1955年昭和30年)1月に登場し、偶然にも同じ月に登場したトヨペット・クラウンRS型と共に、日本の自動車産業の将来性を確信させる画期的な製品として高い評価を受け、小型タクシーの多くが急速に110型に代替されて行った。この段階ではエンジンは戦前の原設計に基づく従来からの「D10型」(水冷 直列4気筒2ベアリング、 サイドバルブ 排気量860 cc・25馬力)のままであった。車体も日産自動車が自製したのは関東以北への出荷分だけで、他には依然中日本重工製車体が載せられ、型式もA110型と区別された。これは雨どいルーフを一周しており、俗に「鉢巻」と呼ばれた。

ステーションワゴンなどのバリエーションは無く、2ドアライトバンはV120型としてダットサン商用車(120型系)にラインナップされている[注釈 3]

110型はその後フロントグリルの変更や、変速レバーのフロアからコラムシフト化、ダッシュボードタクシーメーター用の開口部を設けるなどの改良を受け、量産体制も整ったことから、112型以降は車体も含め日産の一貫生産となり、113型、114型、115型へと順調に発展する。

112型は1956年度に毎日工業デザイン賞を受賞しているが、その受賞理由は「日本の貧乏を肯定した健康的なデザイン」というものであった。

210型系(1957年 - 1959年)

1957年昭和32年)10月、110型系に改良を加え、新開発となるOHV 988cc 34馬力のC型エンジンを搭載した210型、「ダットサン1000乗用車」が登場する。これは同年7月に登場したトヨペット・コロナ(ST10系)がサイドバルブ方式ながら987ccのエンジン[注釈 4]を持っており、小型タクシー料金の排気量上限も1000ccまでに拡大されたことを受けての改良であった。

当初、日産ではダットサン用新型1000ccエンジンとして、ボアxストロークとも68.0mmのスクエアレイアウトのOHVエンジン開発を進めたが、当時、日産に招聘されて技術指導を行っていたウィリス・オーバーランド社出身のアメリカ人エンジニア、ドナルド・ストーンはこれを却下し、代わりに日産でライセンス生産されていたオースチンA50ケンブリッジBMC・Bシリーズエンジン[注釈 5](日産社内型式は1H型)のストロークを縮めて小排気量エンジンを速成するよう指導した。C型エンジンはこの結果産まれたもので、日産社内では発案者にちなんで当時「ストーン・エンジン」と呼ばれた。ボアxストロークは73.0mmx59.0mmと、当時の日本製エンジンとしては異例とも言える極端なショートストローク・オーバースクエアの高回転型エンジンとなったが、ストーンは「近年のアメリカ車でもこのくらいのオーバースクエア型エンジンが増えている」「既に実績のあるオースチンエンジンをベースに短期間、低コストで開発でき、リスクも少ない。製造ラインやパーツも共用でき、大いに有利」として、不安(と新開発エンジンを却下された不満)を抱く日産技術陣を説き伏せた。

ストーンの説いたとおりに短期間、低コストで完成したC型エンジンは、こうして210型ダットサンに搭載された。低速域でやや薄くなったトルクは、フライホイール質量や、トランスミッションファイナルギアギア比の適正化で補われた。当時としては高い30馬力超の出力と俊敏な回転上昇のおかげで、弱点である燃費の悪さも市場からはさほど問題にされず、結果的には成功であった。ただしこの強靭な脚まわりとパンチの効いたエンジン特性は、神風タクシーを大量に生む要因ともなった。

1958年昭和33年)は特筆すべき年となる。まず1月には210型がトラックの220型と共にロサンゼルスオートショーに出品され、6月には日産の乗用車としては初となる対米輸出が始まり、以後の本格的な北米進出の端緒となる。

もう一つのトピックは、9月に開催されたオーストラリア・モービルガス・トライアルへの挑戦である。オーストラリア大陸一周16,000kmを19日間で走破するこの過酷なラリーへのエントリーは、当時宣伝課長であった片山豊の発案で決められ、チーム監督となった難波靖治のもと、Aクラスに出走した富士号、桜号の2台はそれぞれ完走し、クラス優勝(総合24位)、クラス4位を獲得し、大きな注目を浴びた[注釈 6]。出走65台中完走37台というこのラリーでの好成績は輸出にも追い風となった。

当時の日本車アメリカ車欧州車性能品質には非常に大きな隔たりがあり、同時期に北米進出を果たしたトヨペット・クラウンRS型は、フリーウェイを走ればオーバーヒートを起こし、操縦安定性も危険なレベルとの烙印を押され、輸出を一時見合わせる事態に追い込まれていた。一方ダットサンは、フリーウェイを走行中にエンジンフードのロックが外れ、風圧で開いてドライバーの視界を遮る事故を起こすなど、トヨペットの「Toy」とならび「Tin toy」(ブリキオモチャ)と揶揄されながらも、オースチン譲りの快活で信頼性の高いエンジンと、本来日本での悪路や過積載を考慮した頑強なフレームや脚まわりが功を奏し、次第にアメリカに受け入れられて行く。

同年のマイナーチェンジでフロントグリルが後の初代ブルーバードを思わせるものに変更され、リアウインドウが拡大された211型となり、翌1959年昭和34年)7月のブルーバード発表と共に生産を終了した。

フロントサスペンションは最後まで固定軸のままであったが[注釈 7]、110、210型系は小型タクシー用の営業車として、設計的にはより進んでいたトヨペット・コロナや日野ルノーを販売成績で圧倒し、日産自動車の乗用車トップメーカーとしての地位(1960年代前半まで)を磐石なものとした[注釈 8]

1959年に登場したフェアレディの前身となるFRP製ボディのオープンカーダットサン・スポーツ1000(S211型)もこの211型シャシがベースである。

脚注

注釈

  1. フェアレディZの初代の「S30」のようなもの。
  2. 戦前型からの進歩はホイールベースの延長程度で、ラジエータ本体は前車軸真上、エンジンをその後方に置いた旧世代の重量配分設計が踏襲されていた。駆動系もウォームドライブのファイナルギアなどやはり古い設計であった。
  3. 日産の命名規則で、商用車は十の位が偶数となる。
  4. 1947年に原型が完成したトヨタ・S型エンジン戦後復興に必要な小型車用エンジンを短期間に、しかも低コストでまとめ上げるために冒険を避け、1930年代に設計された欧州フォードドイツアドラーのエンジンを参考にしたものであり、ダットサンのD10型と違って3ベアリングで、トヨタ流の改良も加えられてはいた。しかし1953年に1.5L級のOHVエンジンであるR型が開発されると主力エンジンの座を追われて二線級のエンジンとなり、同クラスとなる日産・C型エンジンの出現に至って、乗用車用エンジンとしての市場競争力を喪失した。
  5. 第二次世界大戦後の1950年代初頭、オースチン社が生産性の高い新世代エンジンとして開発したOHVエンジンシリーズの一つで1.5L級をカバー。堅実な設計で1952年のBMC成立後も旧ナッフィールド・オーガニゼーション系エンジンを排して4気筒標準エンジンとされ、長年にわたりBMC系の主力エンジンとなった。
  6. トヨタはクラウンRS型で1957年、1958年と出場しているがいずれもリタイアに終わっている。また、富士号と桜号は市販車と全く同じであった訳ではなく、これらに使われた部品は量産品の中でより精度が出ている物が集められ、さらに必要な場合は修正や焼き入れ処理が加えられるなど、いわゆる「選別品」で丁寧に組み上げられたチューニングカーである。
  7. 同じシャシのダットサントラックは、ダットサンセダンが310型(初代ブルーバード)にモデルチェンジした後、1961年の223型から前輪がダブルウィッシュボーン独立懸架となる。
  8. トヨペット・クラウンの販売が軌道に乗るまでのトヨタ自動車で、最も販売台数を稼いでいたモデルはトヨエースSKB型であり、乗用車でトップの座を狙っていた思惑とは裏腹に『乗用車のニッサン、トラックのトヨタ』と揶揄されていた。

出典

関連項目