水冷エンジン
水冷エンジン(すいれいエンジン)は、水またはそれに類する冷却液を媒体として冷却を行う、水冷による液冷のエンジン(発動機)である。「液冷エンジン」も(ほぼ)同義。
解説
燃焼室周囲、すなわちレシプロエンジンの場合はシリンダーブロック、ロータリーエンジンの場合はローターハウジングに、ウォータージャケットと呼ばれる空間を設けて冷却水を通し、燃焼による過熱を抑制している。冷却水はラジエーターなどで冷却されて循環する場合のほか、船外機や消防ポンプのエンジンのように、エンジンが利用される場所の周囲にある水を吸い上げて、エンジンを通過した後は再び周囲の環境へ放出される場合もある。循環する方式の場合、船舶では熱交換器によって海水等と熱交換して冷却され、その他ではラジエーターで空気冷却される。
機関の運転に最適な温度に保つため、一般的に冷却水の循環経路にサーモスタット弁を設け、水温に応じてラジエーターに向かう(またはラジエーターから戻る)水量を調節している。より効率的にエンジンの冷却を行うため、冷却水は100℃では沸騰しないように加圧されている。冷却水は凍結すると膨張し、ラジエーター、シリンダーブロック、温水ヒーターコアなどを破裂させるため、凍結しないように不凍液が添加されることが多い。不凍液のうち1年以上の長期間(通年)に渡って利用できるものはロングライフクーラント(LLC)と呼ばれる。
空気よりも比熱(熱容量)が大きい水を利用することで空冷エンジンよりも安定した冷却能力を持ち、冷却水が隔壁となる為にエンジン騒音が外部に響きにくい利点も持つが、冷却水を循環する配管が必要になるため部品点数が増えたり、複雑な構造の部品が必要となったりする。また、冷却水の漏出や減少による故障のリスクを伴う。
通常、ウォータージャケットはエンジン製造時に鋳造で形成されるが、元は空冷であったエンジンを水冷エンジンに転換する場合は、ウォータージャケットを予め設けて製造されたシリンダーヘッドやシリンダーバレルを製作し、いずれか片方を交換して空水冷方式とするか[注釈 1][1][2]、双方とも交換する[注釈 2][3][4]。あるいはクランクケースを含めたシリンダーブロックを新規に設計し直す事が一般的であるが、DIYレベルで製作される空冷転換水冷エンジンでは、空冷エンジンの放熱フィン付きシリンダーの外部から金属板を巻き付けて溶接することでウォータージャケットを形成する例もみられる[5][6]。
歴史
熱機関の全体まで視野を広げれば水冷の歴史は古く、「ニューコメンの蒸気機関」の名がある18世紀の大気圧機関において、冷却して水蒸気を凝縮液化し低圧状態を作って大気圧にピストンを押させるために、冷水をその大きなシリンダー内に注水していた。もっとも、後の内燃機関の冷却は熱機関として仕事をするための冷却ではないため、理論的には位置付けが異なったものと言えなくもない。
空冷エンジンは簡易だが、条件によっては冷却効率が悪く温度管理も難しいため、内燃機関の発達につれ、比熱の大きい水を冷却媒体とする手法が考案され実施された。当初の水冷エンジンでは、冷却水はエンジンの上に設置された大きな水槽に満たされて、ウォータージャケットへ供給されて熱せられた冷却水の循環は対流に任せるのみで、大気に解放されていた水槽は蒸発によって冷却水量が減少し、その都度新しい水を補水するサーモサイフォンと呼ばれる構造だった。こうした方式は定置動力用や農業用の小型エンジンなどでは1960年代まで用いられていた。
一方、1890年代ごろから生産されるようになったガソリンエンジンを搭載した自動車では、冷却水が蒸発する分を予備水として車体に搭載しなければならず、常に補水の必要がある開放水槽式のサーモサイフォンは実用的ではなかったことから、水タンクよりも熱交換性に優れたラジエーターを利用して冷却水を循環再使用させる方式が考案された。1890年代後半には、冷却フィン(ひれ)を設けたパイプをくねらせた原始的なラジエーターが、水冷エンジン自動車に装備されるようになった。
ただし、オートバイの水冷エンジンではラジエーター登場後もサーモサイフォンが比較的長い時期使われ続けた。サーモサイフォンを用いた水冷エンジンの中には、開放式の水槽の代わりに密閉式の水タンクを用いたものもあり、オートバイ用エンジンでは1887年にイギリス人発明家のエドワード・バトラーによる三輪オートバイ、1892年のドイツのヒルデブラント&ヴォルフミュラーによる史上初の発動機付自転車(世界初のオートバイ)のH&W・モトラッド[7]、1926年から1940年に掛けて製造されたスコット・モーターサイクルのスコット・フライング・スクァーレルなどが採用していた。日本では、第二次世界大戦後に静岡県浜松市に多数勃興した零細オートバイメーカーの一つ、長本発動機研究所が1948年から1956年に掛けて製造した長本発動機・ライフ号が空水冷方式[8]と称する独自の水タンク式サーモサイフォンを採用した。ライフ号はシリンダーヘッドを空冷、シリンダーバレルを水冷とした折衷構造[9]で、万一水冷システムが漏水などで機能喪失しても、空冷エンジンとしても機能するためオーバーヒートが阻止されるというもので、1953年の名古屋TTレースに経営者兼技術者の長本庄包自らが参戦し、団体6位という成績を収めるが、空冷エンジンの進歩によりライフ号は優位性を失い1954年に製造中止、1956年には会社も倒産に追い込まれた[10]。しかし長本は空水冷方式の研究を継続し、1961年には井関農機が川崎明発工業(メイハツ)に製造委託する形で発売されたヰセキ・ペット50に、シリンダーヘッドのみを水冷とした長本の空水冷方式が採用された。1962年からはヰセキ・タフ50と改称したものの、農機メーカーとしての販路の貧弱さからホンダ・スーパーカブに販売面で圧倒されこの年限りで販売中止となり[11]、これ以降日本車では水冷システムにサーモサイフォンを採用するメーカーはなくなった。サーモサイフォン方式のオートバイ用エンジンは空冷エンジンに比較して製造コストが高価であり、スコット・フライング・スクァーレルを例に取れば同時期の空冷エンジンのロードスポーツと比較して2倍以上の価格差があった[12]。
1897年、カール・ベンツとヴィルヘルム・マイバッハはハニカム構造のラジエーターを発明、1901年にはドイツのダイムラー・モトーレン(現:ダイムラー)社が開発した乗用車、メルセデス・35hp[13]、1902年にはメルセデス・シンプレックスに採用された。ハニカム構造は、細い空気流路で形成された冷却コアを密集させて広い表面積を確保し、高い冷却効率を得るものであった。エンジン動力の一部を利用して冷却ファンを駆動し、ラジエーターの放熱を促進する構造も同時期に普及した。大型エンジンでも効率よく冷却できることから、20世紀初頭には水冷エンジンは自動車や船舶、定置動力用機関に用いられるようになった。一方、航空機のレシプロエンジンでは、空冷エンジンに比べると構造が複雑で重いことから、水冷エンジンが一般化するのはほかの用途よりも遅かった。航空機の分野においては、ハニカム・ラジエーター(集中冷却型ラジエーター)を用いる従来型の水冷システムは空気抵抗が非常に大きく、最高速度を大きく低下させる要因となったことも課題となったため、第一次世界大戦期には胴体や主翼の表面に冷却水を通して機体表面の空気の流れで冷却を図る表面冷却型ラジエーター(サーフェス・ラジエーター)も開発された。
ラジエーターの採用により冷却効率が向上した水冷エンジンが次に直面した問題は、冷却水の沸騰により生じる水冷システム内の水の減少であった。この問題の解決のため、1913年にラジエーターに蒸気の噴出口を設け、噴出口の配管を予備水のタンクに接続する事で、沸騰の都度新たな冷却水を水冷システム内に吸い込ませる、今日のリザーバータンクの概念とほぼ同じ構造が発明される[14]。その後、パワーボート用エンジンやモータースポーツ用直列8気筒の開発で名高かったデューセンバーグ兄弟により、1930年に沸騰の際に生じた圧力をそのまま水冷システム内に一定圧で保持し続けることにより、通常の水冷システムより沸点を高めて熱交換効率を向上させる加圧式水冷システムが考案された[15]。デューセンバーグの加圧式水冷システムはリザーバータンクに圧力弁を設ける仕組みであったが、1937年にはゼネラルモーターズによりラジエーターキャップ自体を圧力弁とした、今日とほぼ同じ加圧ラジエーター構造が考案され、加圧式水冷システムがほぼ完成されたものとなった[16]。
黎明期の水冷エンジンには冷媒に真水が使われていたが、厳寒地では凍結に伴う膨張作用で冷却システムの配管、最悪の場合にはシリンダーヘッドやシリンダーブロックなどエンジン本体すらも破壊しかねない問題を抱えており、これを避ける為に砂型鋳造の際に出来る部材の穴を利用して、コアプラグと呼ばれる緊急時のみ作動する圧力弁を備えていたが、1910年代よりメチルアルコールを添加する事で冷却水の氷点を下げて冬期でも凍結しにくくする不凍液の概念が生まれた。1926年にはエチレングリコールを利用する不凍液が初めて商品化され、高々度を飛行する航空機でも冷却水の凍結という問題が起こりづらくなった[17]。1930年代後半に加圧式水冷システムの環境が整備された事は、不凍液の普及にも大きな貢献を果たした。それまでの非加圧式水冷システムでは不凍液入り冷却水の沸騰が一度でも起こると冷却水内に大量の泡が発生してキャビテーションを起こす可能性が高く、消泡剤での対策にも限界があった為、自動車のオーナーは毎年春先から夏期に掛けて不凍液入り冷却水を真水へと入れ替える面倒な作業を強いられていたが、加圧式水冷システムの採用で冷却水の沸点が向上した事により、不凍液を通年使用しても発泡の問題が発生しにくくなった[18]。
それでも航空用エンジンやオートバイ用エンジンで水冷エンジンの普及が遅れた背景の一つとしては、ウォーターポンプの信頼性の未成熟が挙げられる。内燃機関の動力を用いて遠心式ポンプを動かし、水を機関内に送り込む構造は蒸気機関の段階で既に実用化されていたが、蒸気機関のウォーターポンプはポンプ羽の回転軸から一定以上漏水を起こすことが避けられないものであった。蒸気機関は機関そのものが巨大なものが多く、蒸気機関車であれば炭水車などを用いる事で、大量の水を機関周辺に備蓄できるだけの余地が有ることから、ウォーターポンプからの多少の漏水はさほど問題にはならなかったが、蒸気機関より遥かに小型の自動車やオートバイ、航空機のエンジンではウォーターポンプからの漏水は冷却能力の低下や喪失によるオーバーヒートと直結する問題であり、1910年代の自動車用水冷エンジンの中にはフォード・モデルTの水冷直列4気筒などのように、信頼性の獲得の為に敢えてウォーターポンプの採用を見合わせ、ラジエーターを用いるサーモサイフォン方式に強制冷却ファンを組み合わせた水冷システムを用いるものも見られる状況であったが、ウォーターポンプを用いないサーモサイフォン方式にしても、外気温やエンジン負荷、走行風の有無など諸条件によりやはり容易にオーバーヒートに至ってしまう欠点があった。このため、水冷エンジンは内燃機関を用いる車両の登場当初から冷却効率の高さは認められていたものの、その後数十年に渡り空冷エンジンや油冷エンジンに比較して、製造コストの高さ以上に信頼性に課題が残る構造であると見做されていた[19]。
ウォーターポンプの問題が最終的に解決に向かうのは、第二次世界大戦下のアメリカ軍において、第一次世界大戦から戦間期に掛けて軍用自動車を始めとする自軍の水冷エンジン搭載車両の漏水に悩まされた経験から、ビッグスリーを筆頭とする米国自動車産業に「漏水が起こらないウォーターポンプ」の開発を命じたことに端を発する。ウォーターポンプに限らず、流体のポンプ動力軸からの漏れ止めにはメカニカルシールが用いられており、20世紀初めごろより遠心式ポンプや冷凍機など様々な産業機械分野で試行錯誤が重ねられていた。ビッグスリーでは1920年代より船舶のスクリュー軸で用いられ、蒸気機関のウォーターポンプでも採用実績のあったスタッフィング・ボックスの構造を応用した、黒鉛製の紐型パッキンを用いるパッキンナット構造のウォーターポンプを採用していたが[18]、1939年にはゼネラルモーターズにより自己潤滑性の高いカーボン製パッキンを用いるウォーターポンプが開発され[20]、1943年には産業機械分野のメカニカルシールで高い実績のあったクレーン・パッキング社にて、ゴム製ベローズ(蛇腹)構造のパッキンを用いたメカニカルシールが発明され[21]、これらがアメリカ軍のジープに採用されたことで、ついに水冷エンジンはウォーターポンプからの漏水の問題を完全に克服することとなる[22]。
1930年代から1940年代に掛けての自動車におけるウォーターポンプの改良と並行して、同時期の航空機用水冷エンジンでは1930年代に蒸気を用いる沸騰冷却システムの導入が模索された。少量の水をエンジン内に導入してエンジンの発熱で蒸発させ、ラジエーターで蒸気を水に復水する事で冷却サイクルが完成するという、蒸気機関の概念を一部取り入れた構造で、冷却液が液体から気体へ変化する際には気化熱を奪いより高い冷却作用が期待できる。沸騰冷却システムはそれまでも航空機で利用されていた表面冷却ラジエーターと組み合わせられ、空気抵抗を低減して飛行速度を向上する方策として研究されたものの、1933年に英国で開発されたロールス・ロイス ゴスホーク、1937年にドイツのギュンター兄弟により開発されたHe 119やHe 100などのいずれのシステムも、複数のウォーターポンプを用いる複雑な構造、機体表面に僅かに被弾しただけでも冷却性が損なわれる表面冷却ラジエーターの構造上の脆弱さが問題となり、何よりも大量生産が困難だった事から結局実用化はされなかった。その後、航空機用レシプロエンジンではアメリカ、イギリスなどを中心とする連合国、ドイツ第三帝国や大日本帝國を中心とする枢軸国の液冷エンジンは、共に自動車から発展した加圧式水冷システムを採用した。水の沸点は高度が高くなればなるほど低くなっていく為、ターボチャージャーを採用し10000mを超える高々度を飛行する際には水冷システム全体を高圧に加圧する事は必要不可欠な事であった。第二次世界大戦で最も成功した液冷レシプロエンジンであるロールス・ロイス マーリンV型12気筒を採用したP-51 マスタングは、メレディス効果を利用する事で空気抵抗を推力に変換するラジエーター・ダクトを採用し、連合国の戦勝に貢献した[23]。一方の枢軸国側では、ドイツ第三帝国やイタリア王国などはモータリゼーションがある程度以上発達していた為、自動車産業が中心となり、軍用車両・戦車・航空エンジンもある程度の比率で水冷エンジンの導入を図る事が出来たが、大日本帝國では只でさえモータリゼーションが未成熟であった上に、帝國海軍が軍事予算の2/3から3/4以上を浪費する事から、帝國陸軍の陸上兵力の機械化に対する予算配分が極端に乏しくならざるを得ず[24]、加えて日本政府の物流政策も鉄道や水運に過度に依存し、国内自動車産業や交通インフラへの投資も振るわないままという国家総力戦を戦うには致命的な構造欠陥を抱えていた事から、軍用エンジンの多くが量産大衆車とは縁遠い重工業産業が手掛ける、構造簡便で整備性にも優れるが出力面では劣る空冷エンジンのまま大東亜戦争を戦わざるを得ず、構造が複雑で漏水や凍上破壊の弱点を抱える水冷エンジンは、軍の要求仕様上も[注釈 3]整備要員側からも[注釈 4]忌避されがちな状況のまま敗戦を迎える事となる。
第二次世界大戦後、多くの国の内燃機関では空冷エンジンから水冷エンジンへの移行が進んだ。水冷エンジンではカーヒーターの実装が、空冷エンジンに燃焼式ヒーターを装備するのに比べて遙かに合理的で、安全性が高かった事もその普及を後押しした。しかし、旧枢軸国を中心とする自動車技術者の多くは、軽量簡素な空冷エンジンの可能性を信じて多くの技術開発を継続した。西ドイツではポルシェ・911が1993年のポルシェ・993に至るまで空冷エンジンを継続し、日本では本田技研工業の本田宗一郎が空冷エンジンへの固執から、ホンダ・1300の開発を巡り深刻な社内対立を引き起こした事例が知られているが、こうした取り組みが最終的に非主流となっていく決定打は、1970年代の石油危機に端を発する自動車排出ガス規制やCAFEといった燃費規制への対応であった。三元触媒をはじめとする排出ガス対策機器は、エンジン内を最適な動作温度に保つ事が不可欠であるが[27]、水冷エンジンは1936年にワックス式サーモスタットが発明された事[28]により、この問題を空冷エンジンより遙かに早い段階で克服しており、この時期を境にオートバイを除く殆どの乗り物用内燃機関で水冷エンジンへの移行が進んでいった。オートバイの種類の中では、クルーザー型にみられるような「米国における伝統的観念」という心理的障壁による商品化の困難さ[3]を除いては、その走行条件の激しさや要求性能の厳しさから最も水冷化が困難とされていたモトクロッサーで水冷エンジンが普及したのは、ヤマハ発動機が1981年に発表したヤマハ・YZ125以降であった[29]。
内燃機関の冷却システムとしては不動の地位を確立した水冷エンジンを取り巻くその後の動きで注目されるのは、不凍液の環境対策が挙げられる。20世紀後半の1960年代以降は、ロングライフクーラント(LLC)と呼ばれる気温の高い時期を含む長期間の利用が可能な不凍液が普及した。LLCはエチレングリコールのほかに、防錆剤や消泡剤などを混合することで冷却水路内部の劣化を防止し、最低でも2年から4年程度の無交換を許容するメンテナンスフリー(冷却水の長期無交換と冷却系の保護)を狙ったものであり、真水の硬度などの諸成分が異なる各国の事情に合わせて、様々な添加剤が用いられてきたが[30]、1977年にLLC中に防錆剤として添加されていたアミンと亜硝酸塩の化学反応により発癌性物質を形成する事が明らかとなり、それ以降は有機酸やノンアミンのLLCの開発が進められ、1990年代後半にはPRTR制度の施行に伴い、2008年にエチレングリコールが同制度の指定から解除されるまでは同制度に非該当であったプロピレングリコールの採用が環境対策として一時的に広がり[31]、2000年代以降は両成分を主体に交換周期を8年から10年まで大幅に向上させた長寿命LLCの普及も進められている[32]。
脚注・注釈
脚注
- ↑ 2013 BMW R1200GS - First Ride - Cycle World
- ↑ https://www.thoughtco.com/liquid-cooled-2014-harley-davidsons-2399538 - ThoughtCo
- ↑ 3.0 3.1 Motorhead Memo: Beating the heat - Thunder Press
- ↑ Cool Jugs US 6408803 - Liquid Cooled Air Power, Inc.
- ↑ Convert air cooled to liquid cooled?(コーラー (企業)製汎用エンジンでの水冷化事例) - The Home Machinist!
- ↑ Liquid Cooling A FL350 Cylinder(ホンダ・オデッセイ・FL350での事例) - PilotOdyssey.com
- ↑ プレスインフォメーション(FACT BOOK) VT250 1982.05 モーターサイクル・エンジンの歴史 - 本田技研工業
- ↑ 1950年代二輪車・バイク広告集(4) - モーターサイクルフォーラム中部
- ↑ 浜松市史 四 第二章 復興への努力と民主主義 第五節 産業・経済 第三項 工業等の復興 オートバイ工業の勃興とメーカーの乱立 - 浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ
- ↑ 浜松のオートバイメーカー - バイクのふるさと浜松
- ↑ MUSEUM_2007 浅間記念館 ヰセキ タフ 50K 1962 - JET-Photo
- ↑ Kemp, Andrew (2004). Classic British Bikes, Mirco, Bookmart Ltd. ISBN 1-86147-136-X.
- ↑ “Mercedes 35hp”. . 2017閲覧.
- ↑ US 1110606 - Water-circulating means for internal-combustion engines、1913年7月29日。
- ↑ US 1852770 - Cooling system for internal combustion engines、1930年5月14日。
- ↑ US 2164450 - Radiator pressure cap、1937年12月30日。
- ↑ The History of Antifreeze - crankshift.com
- ↑ 18.0 18.1 1918-1936 Cooling System Problems & Cures - fillingstation.com
- ↑ What is a Water Pump? - crankshift.com
- ↑ US 2249930 - Water pump seal、1939年4月18日。
- ↑ US 2360372 - Fluid seal、1943年7月26日。
- ↑ History of Mechanical Seals - sealfaqs.com
- ↑ Inside The Merlin Engine - 456th FS and FIS
- ↑ 戦闘車両 - 須川薫雄『日本の武器兵器』
- ↑ 水冷式冷却装置 - 農業機械の簡単メンテナンス
- ↑ Use The Correct Thermostat - Aluminium Radiators & Engineering Pty Ltd
- ↑ A Short Course on Cooling Systems - CarParts.com
- ↑ US 2115501 - Thermostat、1934年10月1日。
- ↑ Motorcycle History: Yamaha YZ125 – The First Water-Cooled - RideApart
- ↑ About Coolant/Antifreeze - Auto Creative Indonesia
- ↑ ノンアミンクーラントの開発 - 小松製作所
- ↑ 製品安全データーシート トヨタ純正 スーパーロングライフクーラント50 - トヨタ自動車
注釈
- ↑ 近年の例では、2013年式以降のBMWモトラッドのBMW・R1200GSや、2014年以降ハーレーダビッドソンがハーレーダビッドソン・ツインカム・エンジンの一部に導入したツイン・クールドシステムなどが挙げられる。
- ↑ オッフェンハウザーの技師であるデイル・ドレイクが、ハーレーダビッドソン・ナックルヘッド・エンジンをベースに軽飛行機・ミジェットカー・レース用水冷エンジンとして製作したドレイク・Vツインエンジンや、ライカミング・エンジンズの航空用空冷水平対向エンジンのライカミング O-360やライカミング O-540を水冷に変換するリキッドクールド・エアパワー社のクール・ジャグズ・キットの例などが知られる。
- ↑ 帝國陸軍では統制型一〇〇式発動機の戦車向け仕様や、九五式小型乗用車等において、極寒の満州(ひいては極東ロシア)での運用を考慮し、冷却水凍結の問題が発生しない空冷が敢えて選択された実例がある。
- ↑ ただし、帝國陸海軍の整備兵に限らず、当時の日本人が単純に水冷・多気筒エンジンに触れる機会が極端に少なく、複雑な構造のエンジンの操典法や整備要領の習熟機会に乏しかった事が、水冷エンジンや高出力エンジンの稼働率低迷の一因でもあった事が、帝國陸軍における飛行第47戦隊付整備指揮小隊や、帝國海軍航空隊の芙蓉部隊といった数少ない成功の実例からも示されている。