1912年ストックホルムオリンピック
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1912年ストックホルムオリンピックは、1912年5月5日から7月27日まで、スウェーデンのストックホルムで行われた夏季オリンピックである。
ハイライト
この大会で初めて日本がオリンピックに参加した。共に陸上競技で短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三の2名が出場したが、三島は400メートルの準決勝で棄権、金栗は10000mを棄権してマラソンに出場、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3で世界一遅いマラソン記録を残している(経緯は後述)。
実施競技
各国の獲得メダル
"「1912年ストックホルムオリンピックのメダル受賞数一覧」"
1 | テンプレート:FlagIOC | 25 | 19 | 19 | 63 |
2 | テンプレート:FlagIOC(開催国) | 24 | 24 | 17 | 65 |
3 | テンプレート:FlagIOC | 10 | 15 | 16 | 41 |
4 | テンプレート:FlagIOC | 9 | 8 | 9 | 26 |
5 | テンプレート:FlagIOC | 7 | 4 | 3 | 14 |
6 | テンプレート:FlagIOC | 5 | 13 | 7 | 25 |
7 | テンプレート:FlagIOC | 4 | 2 | 0 | 6 |
8 | テンプレート:FlagIOC | 4 | 1 | 4 | 9 |
9 | テンプレート:FlagIOC | 3 | 2 | 3 | 8 |
テンプレート:FlagIOC | 3 | 2 | 3 | 8 |
主なメダリスト
- 金メダル
- ラルフ・クレイグ(アメリカ、陸上競技男子100m)
- ハンネス・コーレマイネン(フィンランド、陸上競技男子5000m)
- ハンネス・コーレマイネン(フィンランド、陸上競技男子10000m)
- ケネス・マッカーサー(南アフリカ)(陸上競技男子マラソン)
- ハンネス・コーレマイネン(フィンランド、陸上競技男子クロスカントリー個人)
- エリック・レミング(スウェーデン、陸上競技男子やり投)
- パトリック・マクドナルド(アメリカ、陸上競技男子砲丸投)
- マット・マクグラス(アメリカ、陸上競技男子ハンマー投)
- アルマス・タイパレ(フィンランド、陸上競技男子円盤投)
- ジム・ソープ(アメリカ、陸上競技男子五種競技)
- ジム・ソープ(アメリカ、陸上競技男子十種競技)
- デューク・パオア・カハナモク(アメリカ、競泳男子100m自由形)
- アルベルト・ブラリア(イタリア、体操男子個人総合)
- イタリア(体操男子団体)
- ネド・ナジ(イタリア、フェンシング男子フルーレ個人)
- スウェーデン(射撃男子ランニングディア・シングルショット団体) - オスカー・スワンはこの種目で64歳258日で金メダルを獲得した。史上最年長金メダリストである。
- 銀メダル
- フィンランド(陸上競技男子クロスカントリー団体)
- パトリック・マクドナルド(アメリカ、陸上競技男子砲丸投(両手))
- アメリカ(競泳男子4×200mリレー)
- 銅メダル
- オスカー・スワン(スウェーデン、射撃男子ランニングディア・ダブルショット)
エピソード
- 男子の近代五種競技が初めて競技に採用された。女子が正式種目になるのは2000年のシドニーオリンピックから。
- 1912年8月11日、吉沢商会(後の日活)が浅草電気館で『オリンピック大競技会第一報』を封切り。日本初の「オリンピック」公開映像。
- 1912年7月14日に実施された男子マラソン競技に参加したポルトガル代表のフランシスコ・ラザロが競技中に脱水症状により意識を失い、その翌日に死去した[1]。男子マラソン競技は参加68人中33人が途中棄権するほど過酷な環境での実施だった[2]。近代オリンピック以後、オリンピック競技で初めて死者が出た事例であった[3]。
- 1967年3月21日、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典が開催されたが、開催に当たって当時の記録を調べていたスウェーデンのオリンピック委員会が、陸上競技の男子マラソンにおいて金栗四三が「(棄権の意思が運営者側に届いていなかったため)競技中に失踪し行方不明」となっていることに気付いた。このため、オリンピック委員会は金栗を記念式典でゴールさせることにし、金栗を式典に招待した。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った。ゴールの瞬間、場内には「只今のタイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3、これで第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました」とのアナウンスが響いた。これは近代オリンピック史上最も長時間のマラソン競技記録であり、五輪全日程終了までの期間としても史上最長。今後も破られる事がないであろう不滅の金字塔となっており、金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。
- この大会が初のオリンピック参加となった日本だが、日本の入場行進時のプラカード表記が、オリンピック史上、唯一「NIPPON」であった(以降のオリンピックは全て「JAPAN」という表記である)。なお「NIPPON」での入場は大会直前に急遽決まったことであった為、本来の「JAPAN」としての位置である「ITALY」と「LUXEMBOURG」の間という入場順であった。この「NIPPON」の表記を決めたのは、ストックホルムオリンピック日本選手団の団長を務めた嘉納治五郎だった。
- オリンピックで授与される金メダルは純銀を金で覆った金メッキ製であることはよく知られているが、この大会までは純金製の金メダルだった。
脚注
- ↑ The big day during the Olympic Games 2010年7月14日閲覧(英語)
- ↑ All results from the 1912 Olympic marathon 2010年7月14日閲覧(英語)
- ↑ Death Games of Olympics 2010年7月17日閲覧(英語)