金栗四三
金栗 四三(かなくり しそう[1]、1891年(明治24年)8月20日 - 1983年(昭和58年)11月13日)は、日本のマラソン選手、師範学校教師、熊本県初代教育委員長。箱根駅伝の開催に尽力し、日本に高地トレーニングを導入したり日本マラソン界の発展に大きく寄与するなど、日本における「マラソンの父」と称される[2]。熊本県玉名郡春富村(現・和水町)出身。玉名市名誉市民。
生涯
旧制玉名中学を卒業後、1910年(明治43年)、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学する。
1911年(明治44年)、金栗は翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋[3]で当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となった。
翌1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。このため金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国した。
なお、金栗が倒れた直接の理由は日射病であるが、それ以外にも様々な要因があった。
- 日本は初参加でありスケジュール調整や選手の体調管理など、選手サポートのノウハウが無かった。
- 当時、日本からスウェーデンへは船とシベリア鉄道で20日もかかり、多くの選手は初の海外渡航であるなど負担が大きかった。
- スウェーデンは緯度が高くオリンピック開催期間はほぼ白夜であったため、不慣れな日本人には睡眠に支障があった。
- 当時のスウェーデンには米がなく、予算の都合で人数分を持参するのも難しかったなど、食事の面で苦労した。
- マラソンの当日は金栗を迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走らなければいけなかった。また最高気温40℃という記録的な暑さで、参加者68名中およそ半分が途中棄権しレース中に倒れて翌日死亡した選手(ポルトガルのフランシスコ・ラザロなど)まで発生するなど過酷な状況であった。
マラソン中に消えた日本人の話は地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となっていた。また、マラソンを途中で止めた理由として、単にソレントゥナ(Sollentuna)のとある家庭で庭でのお茶会に誘われ、ご馳走になってそのままマラソンを中断したという解釈も示された。
当時の金栗はランナーとして最も脂ののった時期であり、1916年(大正5年)のベルリンオリンピックではメダルが期待されたが、第一次世界大戦の勃発で開催中止となり出場することができなかった。その後、1920年(大正9年)のアントワープオリンピック、1924年(大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場した。成績はアントワープで16位、続くパリでは途中棄権に終わっている。 1917年(大正6年)、駅伝の始まりとされる東海道駅伝徒歩競走(京都の三条大橋と東京の江戸城・和田倉門の間、約508キロ、23区間)の関東組のアンカーとして出走。1920年(大正9年)、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催され、金栗もこの大会開催のために尽力している[2]。
1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた[4]。54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている[5]。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした[4]。
なお、ストックホルムオリンピックから100年を経た2012年に、金栗のひ孫にあたる男性が金栗を介抱した農家の子孫を訪ねている。
金栗が残したその他の有名な言葉として「体力、気力、努力」がよく知られている。
晩年は故郷の玉名市で過ごし、1983年(昭和58年)11月13日に92歳で死去した。
金栗の功績を記念して富士登山駅伝及び東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)に「金栗四三杯」が創設されている。富士登山駅伝では一般の部の優勝チームに対して金栗四三杯が贈呈されている。また、箱根駅伝では2004年(平成16年)より最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されている。このほか「金栗記念選抜中・長距離熊本大会」や「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」のように「金栗」の名を冠した大会もある。なお、熊本県民総合運動公園陸上競技場の愛称「KK ウィング」は金栗にその名を由来している。
オリンピックにおける記録
- 第5回 ストックホルム大会(1912年(明治45年)~1967年(昭和42年)) - 一時行方不明 (最下位(54年8ヶ月6日5時間32分20秒3))[6]
- 第7回 アントワープ大会(1920年(大正9年)) - 16位(2時間48分45秒4)
- 第8回 パリ大会(1924年(大正13年)) - 途中棄権
登場する作品
その他
- 1923年の極東選手権競技大会で活躍したフィリピンのフォルチュナト・カタロン[7]や1924年のパリオリンピック代表選手・谷三三五らと共に、ゴールイン姿[8]が 道頓堀グリコサインのモデルとなった[9]。
- 『空飛ぶモンティ・パイソン』の有名なスケッチのひとつに「オリンピックかくれんぼ選手権」というものがある。なお、ここから派生して現実にも「かくれんぼ世界選手権」というイベントがイタリアで2010年より連年開催されている。。
- 2009年(平成21年)5月22日の『世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS』によれば、ストックホルムオリンピックの騒ぎにより金栗は「消えた日本人」として騒がれ、この話をもとにボー・グランディーン)が小説を書いた。
著書
関連書籍
- 『走れ25万キロ マラソンの父 金栗四三伝』(豊福一喜・長谷川孝道(共著)、講談社、1971年(昭和46年))[10]
- 『走ったぞ! 地球25万キロ マラソンの父・金栗四三(ノンフィクション・シリーズ かがやく心)』(浜野卓也(著)、清水耕蔵(イラスト)、佼成出版社、1987年(昭和62年)5月、ISBN 978-4333012749)
- 『箱根駅伝に賭けた夢「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡』(佐山和夫(著)、講談社、2011年(平成23年)12月、ISBN 978-4062173896)
脚注
- ↑ 名前の読みは文献により「かなぐり」「かなくり」、「しそう」「しぞう」と一致しない。これについて熊本県和水町社会教育課では「どれが正しく、どれが正しくないとは言えない。それぞれの呼び方で親しんでいただければ」としている。なお1914年(大正3年)に養子に入り本名も池部四三となったが、養子先の計らいでその後も金栗姓を用いつづけた(満薗文博『「日本マラソンの父」金栗四三の数奇なる100年』 週刊新潮 2012年(平成24年)5月3・10日ゴールデンウイーク特別号)。 また、名誉市民として顕彰している玉名市では、市のHPで『玉名市では「かなくり しぞう」と読むことで統一しています。これは、金栗さん本人が昭和37年(1962)に書いた英文の手紙に「Shizo Kanakuri」と署名していること、昭和39年オリンピック東京大会組織委員会発行の身分証明書での「KANAKURI SHIZO」、昭和42年(1967)外務省発行のパスポートでの「SHIZO IKEBE」というアルファベット表記によるものです。』としているマラソンの父 金栗四三。2018年1月29日に玉名市などの関係自治体が調査・協議した結果、「かなくり しそう」で統一すると発表した。
- ↑ 2.0 2.1 サンデープレゼント 「紳助 徳光の一枚の写真」 テレビ朝日系列 2011年(平成23年)2月27日
- ↑ 世界を制したマラソン足袋(JOC オリンピック・メモリアル・グッズ)
- ↑ 4.0 4.1 “近代オリンピックとその時代【5】日本が初参加”. 時事ドットコム. 時事通信社. . 2011閲覧.
- ↑ “Shizo Kanakuri”. Sports Reference LLC. . 2010閲覧. “In 1967 he returned to Stockholm at the age of 76 and finished his marathon run. Therefore he has the "slowest" finishing time ever in an Olympic marathon with 54 years, 8 months, 6 days, 32 minutes and 20.3 seconds, a record surely not to be broken.”
- ↑ JOCの公式サイトの日本代表選手団 記録検索上では途中棄権となっている
- ↑ 詳細は[1]を参照。
- ↑ “大阪府・道頓堀にもあるグリコの「走る人」マークの誕生秘話 -広報さんに聞いてみた”. マイナビニュース. . 2013閲覧.
- ↑ 江崎グリコの社史『創意工夫 江崎グリコ70年史』(1992年)のP14には「極東オリンピックで優勝したカタロン選手や、パリオリンピックに出場した谷三三五選手、マラソンの金栗四三選手らのにこやかなゴールイン姿を参考にして書き直した」とあり、グリコのメールマガジン「ぐー・ぐー・マガジン」にも同様の記載がある[2]。一方、グリコのウェブサイトにある「なぜ?なに?コーナー」では「特定のモデルはない」と記されている[3]が、これは「特定個人をモデルとはしていない」という意味と考えられる。
- ↑ [4]
関連項目
外部リンク
- “マラソンの父 金栗四三”. 玉名市 (2017年10月13日). . 2018-1-22閲覧.
- マラソンの父・金栗四三 - 和水町
- 金栗四三展図録
- らばQ:五輪マラソンの世界最長記録は54年8ヶ月
- 箱根駅伝90回記念シンポジウム 第2部 パネルディスカッション