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|画像の説明= プレジデント社『プレジデント』9月号(1965)より
 
 
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'''盛田 昭夫'''(もりた あきお、[[1921年]][[1月26日]] - [[1999年]][[10月3日]])は、[[日本]]の[[技術者]]、[[実業家]]。[[井深大]]と共に、電気機器メーカー[[ソニー]]創業者の一人。[[1992年]]([[平成]]4年)、名誉[[大英帝国勲章]]を受勲。
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'''盛田 昭夫'''(もりた あきお、[[1921年]][[1月26日]] - [[1999年]][[10月3日]]
  
== 生涯 ==
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実業家。老舗の造り酒屋の長男に生まれる。 1944年大阪大学理学部を卒業。 1946年に[[井深大]]と共同で東京通信工業 (現[[ソニー]] ) を設立,営業面を担当して「世界のソニー」に育て上げた。携帯カセットテープ・プレーヤ「[[ウォークマン]]」の発案者でもある。 1971年から社長,会長,ファウンダー・名誉会長を歴任,1986年から 1993年まで[[経済団体連合会]]副会長を務めた。著書『メイド・イン・ジャパン』 (1987) は 32ヵ国で刊行され,約 150万部のベストセラーとなる。その他『学歴無用論』 (1966) ,石原慎太郎との対談『NOと言える日本』 (1989) など,大胆な発言が社会に及ぼした影響は小さくない。
[[愛知県]][[名古屋市]]<ref name=morita>[http://www.akiomorita.net/profile/life.html 盛田昭夫ライブラリー 盛田家公認オフィシャルサイト]</ref>(盛田家の出自は[[常滑市|常滑]]だが、盛田自身は名古屋出身である<ref name=morita/>)に盛田久左衛門・収子の長男として生まれる。生家は、代々続いた[[造り酒屋]]で父・久左衛門は盛田家第14代当主。母・収子は、元[[大垣共立銀行]]頭取[[戸田鋭之助]]の娘であり、元[[仙台市|仙台]][[市長]]・[[早川智寛]]の姪、会社再建の神様といわれた[[早川種三]]の[[いとこ]]にあたる。また、[[敷島製パン]]創業家とは親戚、[[三省堂]]創業家・亀井家とも姻戚関係にある。
 
  
愛知県第一師範学校附属小学校<ref name=morita/>(現・[[愛知教育大学附属名古屋小学校]])、旧制愛知県第一中学校<ref name=morita/>(現・[[愛知県立旭丘高等学校]])、[[第八高等学校 (旧制)|第八高等学校]]<ref name=morita/>(現・[[名古屋大学]])、[[大阪帝国大学理学部]]物理学科卒<ref name=morita/>。
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1998年『TIME』誌で,20世紀に最も影響力のあった経済人 20人の一人に選ばれた。
 
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[[太平洋戦争]]中、[[大日本帝国海軍|海軍]]技術中尉時代に戦時科学技術研究会で[[井深大]]と知り合う。
 
 
 
終戦後、[[1946年]]([[昭和]]21年)に井深大らと[[ソニー]]の前身である東京通信工業株式会社を設立し、取締役に就任。
 
*[[1950年]](昭和25年)日本初の[[テープレコーダー]]「G型」を発売。
 
*[[1951年]](昭和26年)[[三省堂]]社長の四女・亀井良子と結婚。
 
*[[1955年]](昭和30年)日本初の[[トランジスタラジオ]]「TR-55」を発売。
 
*[[1959年]](昭和34年)にソニー副社長、[[1971年]](昭和46年)に社長、[[1976年]](昭和51年)に会長就任。
 
*[[1960年]](昭和35年)米国にソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立し、取締役社長に就任。
 
*[[1979年]](昭和54年)[[ウォークマン]]発売。
 
*[[1986年]](昭和61年)[[経済団体連合会|経団連]]副会長。
 
*[[1991年]]([[平成]]3年)勲一等瑞宝章受章。
 
*[[1992年]](平成4年)英国王室から名誉大英勲章およびナイト爵の称号を受ける。
 
*[[1993年]](平成5年)11月、[[テニス]]のプレー中、[[脳内出血]]に倒れ、その後、会長の座を退き、ハワイで静養した。
 
*[[1998年]](平成10年)2月23日、[[フランス]]から[[レジオンドヌール勲章]]コマンドゥールを贈られる<ref>[http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199802/98-0223/index.html お知らせ] ソニー 1998年2月23日</ref>。
 
*[[1999年]](平成11年)[[10月3日]]午前10時25分、[[肺炎]]のため[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[東京都済生会中央病院]]で死去した。{{没年齢|1921|1|26|1999|10|3}}。[[戒名]]は盛昭院天涯敬道上座。[[正三位]] [[勲一等旭日大綬章]]。
 
 
 
== 人物 ==
 
{{複数の問題
 
|section=1
 
|出典の明記 = 2014年3月
 
|独自研究 = 2014年3月}}
 
[[井深大]]と共にソニーを世界企業に育て上げ、井深の技術的発想を実現すると共にソニーの発展を第一として活動、技術者出身ながら営業の第一線にあり、トランジスタラジオ、ウォークマン等を世界に売り込んだ。
 
 
 
当時のソニーが技術開発の資金を調達することは、大変であったと思われる。しかし、盛田はそれをやりぬき、[[トリニトロン]]の商品化を実現した。
 
 
 
私人としては「社交性に富み、非常に親しみやすい」と言われる反面、十数代続く造り酒屋の跡取りとして、厳格な一家の家長であったと言われている。ただし、子息に自己の思考を押し付けたり、特定の学校への進学等を指図する事はなかったという。
 
 
 
ソニー創業期の社員の給与は、盛田の実家の酒屋([[盛田]])から出ていたという逸話がある。また常滑市南部の盛田一族及び縁故者もソニーの株を大量に購入して事業を支えた。それほど創業期は資金面において苦しかった模様である。また、銭形平次の原作者である[[野村胡堂]](レコード評論家「野村あらえびす」としても有名)より出資を受けている。
 
 
 
「日本は[[福祉国家]]ではない。」が持論で[[大きな政府]]に否定的な立場であったとされる。
 
 
 
[[1989年]]([[平成]]元年)に政治家の[[石原慎太郎]]と『[[「NO」と言える日本|「NO」と言える日本──新日米関係の方策]]』を発表しミリオンセラーとなった。同著では、対米関係の見直しを直言するなど、論客としても知られたが、派手な言動は人により評価が分かれ、共に日米経済人会議の議長に擬された、経団連副会長の佐波正一(東芝)と好対照と視る向きもある。[[建築家]]の[[岡田新一]]とは、次男が岡田の娘と結婚したため、[[姻戚]]関係にあった。
 
 
 
盛田の功績は経済界・産業界のみならず、ユニークな和製英語にも。[[ロマンスグレー]]は盛田が考案した造語。
 
以下はその内容。
 
 57歳の1977年10月14日、愛知県名古屋市鶴舞公会堂での母校、愛知一中・旭丘高校創立100周年記念講演会で後輩の高校生に、SONYアメリカ社長時代の30代半ばで白髪となり戸惑っていた所、アメリカの友人から「こちらではローマンティック・グレーと呼ばれていて憧れなんだ」と教えられ、気を良くして一時帰国した折に、友人達にこのエピソードを「ロマンスグレー」と言い換えて伝えた。
 
 後日それを聞いた小説家の飯沢匡が雑誌オール讀物に同名の小説を発表して社会現象になるほど広まった。盛田は友人達に「俺が本家だぞ」と笑っていたという。
 
 
 
== 系譜 ==
 
;盛田氏
 
<pre>
 
早川智寛
 
  ┃
 
  ┣━━━━━早川種三
 
  ┃
 
┏長子          岩間和夫
 
┃             ┃
 
┗戸田鋭之助━━収子  ┏菊子
 
        ┃   ┃
 
        ┃   ┣盛田正明
 
        ┣━━━┫
 
        ┃   ┣盛田和昭
 
        ┃   ┃
 
    盛田久左衛門  ┗盛田昭夫
 
              ┃   ┏盛田英夫
 
              ┣━━━┫
 
              ┃   ┗盛田昌夫
 
      亀井豊治━━━━良子
 
</pre>
 
* [[早川智寛]]
 
* [[早川種三]]
 
* 戸田鋭之助 - 大垣藩家老の家に生まれ、大垣共立銀行初代頭取。正五位勲五等、大垣商工会議所会頭を務め、朝鮮総督府の要職等に就いた。
 
* 盛田久左衛門 - 醸造業[[盛田]]元代表。
 
* [[盛田正明]] - 元ソニー副社長。公益財団法人盛田正明テニス・ファンド代表。公益財団法人[[日本テニス協会]]名誉会長。
 
* 盛田和昭 - [[盛田]]エンタプライズ株式会社代表取締役会長
 
* [[盛田英夫]]
 
* [[盛田昌夫]] - 1954年生。米[[ジョージタウン大学]]卒業後、モルガン銀行を経て1981年にソニーに入社。2015年ソニー・ミュージックエンタテインメイント代表取締役会長退任。
 
* [[岩間和夫]] - ソニー第4代社長
 
* 亀井豊治 - [[三省堂書店]]創業者一族
 
 
 
==主な著作書籍==
 
*『学歴無用論』 (朝日新聞社 ISBN 978-4022604156)
 
*『新実力主義』 (文藝春秋)
 
*『MADE IN JAPAN』 (朝日新聞社、[[下村満子]]、E・M・ラインゴールドと共著、ISBN 978-4022605825) - 発行部数45万部
 
*『「NO」と言える日本』 (光文社、[[石原慎太郎]]と共著、ISBN 978-4334051587) - 発行部数125万部
 
*『21世紀に向けて』 (読売新聞社、デイヴィッド・ロックフェラーとの共著、ISBN 978-4643921182)
 
*『21世紀へ』 (ワック、論文集、ISBN 978-4898310205)
 
*『盛田昭夫語録—世界が舞台の永遠青年』 (ソニーマガジンズ、ソニー・マガジンズビジネスブック編集部編集による語録、ISBN 978-4789711012)
 
*『盛田昭夫語録』 (小学館、盛田昭夫研究会編集による語録、ISBN 978-4094162929)
 
 
 
==脚注==
 
{{reflist}}
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2010年6月|section=1}}
 
*早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 [[角川書店]] 1983年 116-120頁
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[愛知県出身の人物一覧]]
 
* [[盛田|盛田株式会社]] - 実家。
 
* [[盛田味の館]]
 
* [[アナハイム大学 アキオ・モリタ スクールオブビジネス]] - 盛田の名を冠した経営大学院
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.akiomorita.net/index.html 盛田昭夫ライブラリー](盛田家公認オフィシャルサイト、イグフィコーポレーション)
 
*[http://www.sony.com/SCA/press/991004.shtml AKIO MORITA: 1921 – 1999] 1999年10月3日 ソニー株式会社プレスリリース{{en icon}}
 
*[http://www.sony.com/SCA/press/morita_bio.shtml AKIO MORITA: BIOGRAPHY] 1999年10月3日 ソニー株式会社プレスリリース{{en icon}}
 
*[http://www.sony.com/SCA/press/morita_career.shtml AKIO MORITA: CAREER NOTES] 1999年10月3日 ソニー株式会社プレスリリース{{en icon}}
 
*[http://www.kigyouka.sakura.ne.jp/contents/morita.htm 盛田昭夫-ソニー株式会社](起業家人名図鑑、起業家協会)
 
*[http://moritakk.com/know_enjoy/ajinoyakata/ 盛田味の館](盛田昭夫についての常設展がある)
 
 
 
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2018/8/30/ (木) 23:53時点における版

盛田昭夫
生誕 (1921-01-26) 1921年1月26日
日本の旗 日本 愛知県名古屋市
死没 (1999-10-03) 1999年10月3日(78歳没)
日本の旗 日本東京都港区東京都済生会中央病院
国籍 日本の旗 日本
教育 大阪帝国大学理学部物理学科
配偶者 盛田良子(旧姓:亀井)
子供 盛田英夫盛田取締役名誉会長・CEO)
盛田昌夫ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)
父:盛田久左衛門
母:盛田収子
'業績'
成果 ソニーの設立

盛田 昭夫(もりた あきお、1921年1月26日 - 1999年10月3日

実業家。老舗の造り酒屋の長男に生まれる。 1944年大阪大学理学部を卒業。 1946年に井深大と共同で東京通信工業 (現ソニー ) を設立,営業面を担当して「世界のソニー」に育て上げた。携帯カセットテープ・プレーヤ「ウォークマン」の発案者でもある。 1971年から社長,会長,ファウンダー・名誉会長を歴任,1986年から 1993年まで経済団体連合会副会長を務めた。著書『メイド・イン・ジャパン』 (1987) は 32ヵ国で刊行され,約 150万部のベストセラーとなる。その他『学歴無用論』 (1966) ,石原慎太郎との対談『NOと言える日本』 (1989) など,大胆な発言が社会に及ぼした影響は小さくない。

1998年『TIME』誌で,20世紀に最も影響力のあった経済人 20人の一人に選ばれた。