益田太郎冠者

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益田 太郎冠者(ますだ たろうかじゃ、1875年明治8年)9月25日 - 1953年昭和28年)5月18日)は、日本実業家劇作家音楽家貴族院議員。男爵東京府出身。本名は太郎

三井物産の創始者・男爵 益田孝の次男であり、自らも台湾製糖千代田火災森永製菓など[1]、有名企業の重役を歴任した実業家であった。一方、青年時代のヨーロッパ留学中に本場のオペレッタコントに親しみ、その経験から帰国後、自らの文芸趣味を生かしてユーモアに富んだ喜劇脚本を多く執筆した。帝国劇場の役員となり、森律子をはじめとする帝劇女優を起用した軽喜劇を明治末から大正時代にかけて上演した。コロッケ責めの新婚生活を嘆いたコミックソング「コロッケー」(通称「コロッケの唄」)、落語「宗論」「かんしゃく」は特に有名である。

板倉勝全子爵の娘、貞との間に五男二女があり[1]、息子に洋画家の益田義信。葭町の芸者だった岩崎登里という妾のほか、森律子とも噂があり、晩年は律子が毎日通ったという[1]

略歴

三井物産の創始者・益田孝の次男として、品川御殿山にあったジョサイア・コンドル設計の大豪邸「碧雲台」で生まれる[2]。長男夭折のため、跡取りとして育つ[3]。財閥の御曹司として慶應義塾幼稚舎から東京府尋常(のちの東京府立一中)へ進学。このころすでに品川芸者数十人をあげて遊ぶような放蕩ぶりだった[2]。中学卒業と同時に、父の命により英国ケンブリッジ留学。リース中学卒業後、ベルギーアントワープの商業大学に入学[3]ロシア・バレエに熱中する[3]

日清戦争勃発により、8年の欧州滞在を切り上げて帰国。横浜正金銀行へ就職、結婚。父親の命により日本製糖の常務を経て台湾製糖の取締役となる。このころから太郎冠者のペンネームで戯曲を書き始め、喜劇作家として活躍する。帝国劇場創設にともない、重役に就任。女優養成のために川上貞奴が始めた帝国女優養成所を引き継ぎ、森律子をはじめとする帝劇女優を多数育てる。本業は形だけで、もっぱら演劇人として幅広く活躍する。晩年は小田原で悠々自適の生活を送った[2]

年譜

家族

  • 父・益田孝
  • 母・えい(旧姓・富永)
  • 兄・象(夭折)
  • 弟・吉田信世(孝の妾タキの子。1885年生まれ。1898年に認知され、以降、分家として母子ともに益田姓を名乗る)[4]
  • 妻・板倉貞
  • 子・益田克信(益田農事)、益田孝信(益田農事、妻雪子は清野暢一郎妹)、益田義信(三井物産)、益田智信(三井物産)、益田貞信(三井物産。ジャズピアニストでもあり「益田セクステット」を結成し、米軍キャンプや横浜ホテルニューグランドで活躍した)、益田信子(藤瀬政次郎の次男で日本貿易振興会理事の藤瀬英二郎に嫁ぐ)、益田智恵子

作品

戯曲・脚本

落語

いずれも初代三遊亭圓左のために執筆。

作詞・作曲した曲

  • 「コロッケー」(コロッケの唄)(作曲者不明)
  • 「女の一生」
  • 「オヤオヤ節」
  • 「今宵の様な」
  • 「五本松くずし」
  • 「サーサ事だよ」
  • 「ためしゃんせ」
  • 「所変われば」
  • 「不老不死」
  • 「へび山の」
  • 「世をすてし」
  • 「よかなんよ」
  • 「モガモボソング」
  • 「そもそも人の一生は」
  • 「昔のお客と今のお客」
  • 「年中行事」(作曲者不明)
  • 「高速度油屋十人斬り」(作曲者不明)

参考文献

  • 高野正雄『喜劇の殿様―益田太郎冠者伝』角川書店 2002

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 日本最初の西欧式劇場--- その舞台を飾った「帝劇女優」の生涯 福田和也「旅と書物と取材ノート、現代ビジネス、2012年05月04日
  2. 2.0 2.1 2.2 高野正雄 喜劇の殿様松岡正剛の千夜千冊、2003年01月21日
  3. 3.0 3.1 3.2 益田太郎と帝国劇場・・・山口昌男日本財団成果物情報
  4. 日本近代における経営者と美術コレクションの成立山口昌男、札幌大学、1998年

外部リンク


爵位
先代:
益田孝
男爵
益田(孝)家第2代
1933年 - 1947年
次代:
華族制度廃止