パリ万国博覧会 (1900年)

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ファイル:Exposition universelle 1900.jpg
1900年パリ万博、エッフェル塔がそびえる
ファイル:La grande roue, Paris, France, ca. 1890-1900.jpg
観覧車「グランド・ルー・ド・パリ」(1920年解体)

1900年のパリ万国博覧会(せんきゅうひゃくねんのパリばんこくはくらんかい, Exposition Universelle de Paris 1900, Expo 1900)は1900年4月14日から11月12日まで、フランスパリで開催された国際博覧会である。

概要

19世紀最後の年(世紀末)を飾る国際博覧会であるが新世紀の幕開けを祝う意味も込められており、開催期間中には過去最大となるおよそ4800万人が訪れている。また、パリオリンピック(第2回近代オリンピック)に合わせての開催でもあった。1855年以後、パリで開催された国際博覧会では5回目となる。前回のパリ万博に引き続き、くじ付き前売入場券を販売して開催予算1億フランの6割をまかなった(4割はフランス政府とパリ市が折半)。

会場としてグラン・パレプティ・パレが建てられ、ロシア皇帝ニコライ2世の寄付によりセーヌ川両岸を結ぶアレクサンドル3世橋が架けられた。また、当時世界最大となる高さ100メートルの観覧車グランド・ルー・ド・パリ」が今回の博覧会に合わせて一般公開となり注目を集めている。さらに、動く歩道1889年第4回パリ万博に合わせて建設されたエッフェル塔エスカレーターが設置されて話題となった[1]。ちなみに、アメリカの発明家チャールズ・シーバーガーオーチス・エレベータ・カンパニーと組み、"escalator"の商標で今回の万博に出展して1等賞を獲得、それを機にエスカレーターの普及が始まったといわれている[2][3]

一方、装飾美術ではサミュエル・ビングが出店したパビリオン)が一躍注目を集めたことで、店名であった「アール・ヌーヴォー」は今回の万博を象徴する表現となり、さらにはこの時代を象徴するフランスの装飾美術様式そのものを指す名称ともなっている[1][4]。また、1895年にパリのグラン・カフェ地下で世界初の映画館をオープンしたリュミエール兄弟は、今回の万博でもシネマトグラフによる映画の上映を行い、訪れた人々を魅了している[1]

会場の一つであるグラン・パレでは、今回の万博の企画展として『フランス美術100年展』が開催され、新古典主義から印象派までの19世紀のフランス美術を代表する約3000点の作品(絵画彫刻など)が展示された。 今回の万博のテーマは「過去を振り返り20世紀を展望する」ことであり、それに合わせた展示物も数多く出品されている[1][5][6]

日本との関わり

  • トロカデロ地区は欧米の植民地のパビリオンが集まるエリアで、日本は当時アジアにおける数少ない独立国であったにもかかわらず、パビリオンが「フランス領以外の植民地エリア」に組み込まれた[7]
  • 日本政府は法隆寺金堂風の日本館を建設し、御物を含む古美術品を出展した。
  • 海外公演中の川上音二郎貞奴夫妻はこの万博にも来演し大人気となった。万博を訪れたアメリカの旅行作家バートン・ホームズは、フランスの演劇批評家らがこぞって川上一座を称賛していること、ある高名な演劇評論家は「サラ・ベルナールがフランスの女優で、エレオノーラ・ドゥーゼがイタリアの女優なら、貞奴は世界の女優だ」とまで評したと伝え、その他の催し物がつまらなく見えてしまうほど日本の役者たちは1900年の万博で成功した、と書き綴っている[8]
ファイル:Paris Exposition Tour du Monde and Siamese Pavilion, Paris, France, 1900 n2.jpg
エキゾチックな建物が集められたTour du Mondeパビリオン
  • 日本館のほかに、日本のビールを売るティーハウスなども出店したが、上述のバートン・ホームズ(1892年に日本旅行経験がある)は、「日本人は世界で最も趣味のいい国民なのに、その茶店の建物も売っているものも百貨店で売られているようなガラクタの類だ」と記している[9]
  • エッフェル塔近くには、正式な各国館とは別に企業などが出展する商業地区が設けられていたが、その中にタイやインドなどエキゾチックな建物で周囲を囲った「Tour du Monde(世界旅行)」という名の商業パビリオンがあり、日本風の五重塔や門も含まれていた(アレクサンドル・マルセル設計)[10]。これは19世紀末に欧州で大人気となったジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を圧縮したようなアトラクションで、内部は画家のルイ・デュムーランによるパノラマ画とジオラマで各国の風景が再現され、各国からの現地人も用意され、館内をぐるりと見て歩くだけでわずか一時間で世界一周ができるという趣向のものだった[11]。それらは多分に西洋人の植民地に対するロマンチックな幻想で歪められたものだったが[11]、旅行作家のホームズは、「この塔や門には日本で彫られた本物の彫刻がほどこされており、(万博内の)日本の建築物で唯一見る価値があるものだ」と評し[12]、再現された「茶店は繊細で着物姿の芸者もおり、室内や庭や人々もまさに日本という雰囲気で、日本好きも満足する出来だ」と評価した[13]。このパビリオンは万博で一番の人気となった[11]。五重塔の設計図はその後レオポルド2世 (ベルギー王)の手に渡り、ブリュッセルの極東博物館に使われている。
  • 夏目漱石はロンドン留学の途上、この万博会場を訪問している。
  • 日本画家大橋翠石は『猛虎の図』を出展して優等金牌を受賞している。
  • 深川製磁陶磁器を「フカガワポースレイン」として出展し、メダーユドールを獲得している。
  • 日本は芸者を出展したところ、一目惚れした青年がプロポーズを申し出たり、着物を譲って欲しいと願い出た女性の存在の記録もあるという。
  • 北村醤油酒造場(創業享保2年、当時の勢和村、現在は多気郡)が醤油を出品して北村新次が金賞を受賞。今日、ソイソースという名で醤油が欧米のスーパーマーケットで売られ、すっかり馴染んでいるが、北村醤油酒造場のパリ万博出品は海外に売り込んだ草分けであったのかも知れない。
  • 有松絞り、服部孫兵衛の作品がパリ万博銅賞を受賞した

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 パリ万国博覧会と19世紀の終わり(20世紀ポップカルチャー史)
  2. 商品ネーミング 事例:エスカレーター(商品ネーミングの普通名称化)
  3. ジェシー・リノ Jesse Reno の海底クローラ(蛇乃目伍長)
  4. 19世紀を総まとめ 1900年パリ万国博覧会 Exposition Universelle( クリストモミのミュゼのあるくらし)
  5. 1900年第5回パリ万博 19世紀最大の万博(国立国会図書館:博覧会 近代技術の展示場)
  6. 20世紀の幕開けを告げるパリ万博ポスター(公益財団法人福岡市文化芸術振興財団)
  7. SECTEUR 7: LE PARC DU TROCADEROL'EXPOSITION UNIVERSELLE DE PARIS 1900, Philippe Bournazel
  8. Round about Paris. Paris exposition Burton Holmes, 1901, p249
  9. Round about Paris. Paris exposition Burton Holmes, 1901, P257
  10. PANORAMA DU TOUR DU MONDEL'EXPOSITION UNIVERSELLE DE PARIS 1900, Philippe Bournazel
  11. 11.0 11.1 11.2 Orientalist Aesthetics: Art, Colonialism, and French North Africa, 1880-1930Roger Benjamin Univ of California Press, 2003/02/03, p114-
  12. Round about Paris. Paris exposition Burton Holmes, 1901, p299
  13. Round about Paris. Paris exposition Burton Holmes, 1901, p303

関連項目

外部リンク