「インド大反乱」の版間の差分

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{{Infobox military conflict
 
|conflict= インド大反乱
 
|casus= [[イギリス東インド会社|東インド会社]]による様々な行動がインド兵(セポイ)の反乱を招き、それに東インド会社による統治に不満を持っていた民衆が合流
 
|image= [[File:Indian Rebellion of 1857.jpg|250px]]
 
|caption=[[メーラト]]、[[デリー]]、[[カーンプル]]、[[ラクナウ]]、[[ジャーンシー]]、[[グワーリヤル]]の位置を示した「1857年 - 59年 北インドでの大反乱」地図(1912年)
 
|date= [[1857年]][[5月10日]] – [[1858年]][[11月1日]]
 
|place= インド(cf. 1857)<ref>[[:File:Indian revolt of 1857 states map.svg]]</ref>
 
|territory= 東インド会社が消滅し、[[イギリス領インド帝国]]が成立(一部の土地は[[藩王国]]に返還・譲渡され、それ以外は[[イギリス王室]]に接収された)
 
|result= イギリスの勝利、[[ムガル帝国]]の滅亡、東インド会社による統治の終焉、英王室の直接統治による[[イギリス領インド帝国]]成立
 
|combatant1= [[File:Alam of the Mughal Empire.svg|22px]] [[ムガル帝国]]<br>[[Image:Flag of the British East India Company (1801).svg|22px]] [[イギリス東インド会社|東インド会社]]の反乱[[スィパーヒー|シパーヒー]]に組したシパーヒー
 
*[[インド]]の民衆、特に[[画像: Flag of Awadh.svg|22px]][[アワド藩王国]]の住民、[[:en:Taluqdar|タールクダール]](地主層)とムスリムの[[:en:Ghazi (warrior)|ガーズィー]](宗教的戦士)層達
 
*[[File:Flag of the Maratha Empire.svg|22px]] [[マラーター王国]]の[[ペーシュワー]](宰相)[[バージー・ラーオ2世]]の養子[[ナーナー・サーヒブ]]とその武将[[ターンティヤー・トーペー]]率いる勢力
 
*[[File:Flag of the Maratha Empire.svg|22px]] 東インド会社により接収された[[ジャーンシー|ジャーンシー藩王国]]の元王妃[[ラクシュミー・バーイー]]の勢力
 
*[[File:Flag of Awadh.svg|22px]]イギリスにより退位させられた[[アワド藩王国]]の藩王(ナワーブ)の王妃[[:en:Begum Hazrat Mahal|ハズラト・マハル]]とその息子[[:en:Birjis Qadra|ビルジース・カドル]]の支持者達
 
*[[ビハール]]の大領主[[クンワル・シング]]の勢力
 
|combatant2= {{flagicon|United Kingdom}} [[イギリス陸軍]]<br>[[File:Flag of the British East India Company (1801).svg|22px]] [[イギリス東インド会社|東インド会社]]に忠実だったシパーヒー達<br>東インド会社のイギリス人正規兵<br>現地のインド人非正規兵
 
{{flagicon|United Kingdom}}ベンガル地方で招集されたイギリス系及びヨーロッパ出身の民間人義勇兵部隊<br>
 
[[File:Flag of Nepal (19th century-1962).svg|22px|]] [[ネパール王国]]
 
{{hidden begin|title =藩王国21カ国}}
 
*[[File:Asafia flag of Hyderabad State.png|22px]] [[ニザーム王国|ニザーム藩王国]]
 
*[[File:Flag Jammu Kashmir.png|22px]] [[ジャンムー・カシミール藩王国]]
 
*[[File:Flag of Jaipur.svg|22px]] [[ジャイプル藩王国]]
 
*[[File:Jodhpur.svg|22px]] [[ジョードプル藩王国]]
 
*[[File:Mewar.svg|25px]] [[ウダイプル藩王国]]
 
*[[File:Flag of Bikaner.svg|22px]] [[:en:History of Bikaner|ビーカーネール藩王国]]
 
*[[File:Bundi.svg|22px]] [[:en:Bundi#Princely Bundi|ブーンディー藩王国]]
 
*[[File:Flag of Bharatpur.svg|22px]][[:en:History of Bharatpur|バラトプル藩王国]]
 
*[[File:Drapeau Ajaigarh.png|25px]] [[:en:Ajaigarh<!-- [[:ja:アジャイガル]] とリンク -->|アジャイガル藩王国]]
 
*[[File:Alwar flag.svg|22px]] [[:en:Alwar<!-- [[:ja:アルワル]] とリンク -->|アルワル藩王国]]
 
*[[File:Drapeau Bhopal.svg|22px]] [[:en:Bhopal (state)|ボーパール藩王国]]
 
*[[File:Flag of the British East India Company (1801).svg|22px]] [[:en:Bijawar<!-- [[:ja:ビジャーワル]] とリンク -->|ビジャーワル藩王国]]
 
*[[File:Kapurthala flag.svg|22px]] [[:en:Kapurthala State|カプールタラー藩王国]]
 
*[[File:Patiala flag.svg|22px]] [[パティヤーラー|パティヤーラー藩王国]]
 
*[[File:Rampur flag.svg|22px]] [[ラームプル|ラームプル藩王国]]
 
*[[File:F1 yellow flag.svg|22px]] [[リーワー|リーワー藩王国]]
 
*[[File:Flag of the British East India Company (1801).svg|22px]] [[ケーンドゥジャル|ケーンドゥジャル藩王国]]
 
*[[File:Nabha flag.svg|22px]] [[:en:Nabha State|ナーバー藩王国]]
 
*[[File:Sirohi.svg|22px]] [[シローヒー|シローヒー藩王国]]
 
*[[File:Jaoraflag.png|22px]]  [[ジャーオラー|ジャーオラー藩王国]]
 
*[[File:Flag of Kingdom of Travancore.svg|22px]] [[トラヴァンコール藩王国]]
 
|commander1= [[File:Alam of the Mughal Empire.svg|22px]] [[バハードゥル・シャー2世]]<br>(反乱軍最高指導者)<br>[[Image:Flag of the British East India Company (1801).svg|22px]] [[バフト・ハーン]]<br>(反乱軍総大将)<br>[[File:Flag of the Maratha Empire.svg|22px]] [[ナーナー・サーヒブ]]<br>[[File:Flag of the Maratha Empire.svg|22px]] [[:en:Tantya Tope|ターンティヤー・トーペー]]<br>[[File:Flag of the Maratha Empire.svg|22px]] [[ラクシュミー・バーイー]]<br>[[File:अवध ध्वज.gif|22px]] [[:en:Begum Hazrat Mahal|ハズラト・マハル]]<br>[[クンワル・シング]]
 
|commander2= {{flagicon|United Kingdom}} [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]<br/>{{flagicon|United Kingdom}} [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]<br/>[[:en:Commander-in-Chief, India|インド駐在軍総司令官]]:<br>[[File:Flag of the British Army.svg|25px]] [[:en:George Anson (1797-1857)|ジョージ・アンソン]]<br>[[File:Flag of the British Army.svg|25px]] [[:en:Patrick Grant|サー・パトリック・グラント]] <br>[[File:Flag of the British Army.svg|25px]] [[:en:Colin Campbell, 1st Baron Clyde|サー・コリン・キャンプベル]]<br>[[File:Flag of Nepal (19th century-1962).svg|22px]] [[ジャンガ・バハドゥル・ラナ]]<ref>''The Gurkhas'' by W. Brook Northey, John Morris. ISBN 8120615778. Page 58</ref>
 
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|notes=
 
}}
 
  
'''インド大反乱'''(インドだいはんらん、Indian Rebellion)は、[[1857年]]から[[1858年]]の間に[[インド]]で起きた[[イギリス]]の植民地支配に対する民族的[[抵抗運動]]、[[反乱]]のことである。
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'''インド大反乱'''(インドだいはんらん、Indian Rebellion)
 
 
かつては「'''シパーヒーの乱'''」、「'''セポイの反乱'''」、「'''セポイの乱'''」と呼ばれたが、反乱参加者の出身・身分が多岐にわたり、インド社会全体に広がっていた事から、最近では「'''インド大反乱'''」と呼ばれる様になっている。これらはいずれもイギリス側の呼称であり、独立したインド側からは「'''第一次インド独立戦争'''」(India's First War of Independence)と呼ばれている(英語での呼称も「Indian Mutiny」、「the Great Rebellion」、「the Revolt of 1857」、「the Indian Insurrection」など複数ある)。<ref>[http://www.hawaiilibrary.net/articles/india%27s_first_war_of_independence_%28term%29 1]</ref>。
 
 
 
== 背景 ==
 
[[Image:Fort St. George, Chennai.jpg|250px|left|thumb|マドラスのセント・ジョージ要塞]]
 
イギリスは、[[1623年]]の[[アンボイナ事件]]以降インドネシアを断念し、インドへの進出を開始した。[[イギリス東インド会社]]は[[カルカッタ]]、[[ボンベイ]]、[[マドラス]]を拠点に本格的にインドの[[植民地]]化をすすめ、[[ムガル帝国]]を形骸化させていった。このときイギリスは、インドを本国で製品を生産するための原料供給地並びに、自国の綿製品を売り込む市場と位置づけたため、インドの資源はイギリスに吸い取られ、産業革命を成功させた大量の良質な綿製品がインドに流入したため、極端なインフレ状態になり国内は混乱し土着の綿工業は急激に衰退した。
 
 
 
この過程で権力や財産を失ったかつての支配階層から、[[綿|木綿]]工業の衰退による失業者まで、階層を問わず、また市民・農民の区別なく多くのインド人がイギリスへの反感を持つに至り、反乱への参加者の増加につながった。
 
 
 
インドは多民族が居住しているためもともと国内に多くの不和があり、ムガル帝国の衰退によって[[マラーター同盟]]をはじめとする国内勢力が半ば独立していた状態であったため、これまで組織だったイギリスへの反抗は起きて来なかった。そのため、この大反乱はインドで初めての民族的反乱とされている。
 
 
 
大反乱発生の背景には、いくつかの点が指摘されている。
 
 
 
# イギリス東インド会社が[[ザミーンダーリー制]]や[[ライーヤトワーリー制]]など近代的土地所有制度を導入したことによる、農村の変容と従来の地主層の没落<ref>長崎暢子 『インド大反乱一八五七年』 中央公論社、1981年、33-37頁。</ref>。
 
# インドの物価騰貴にもかかわらず、[[シパーヒー]]の給料が据え置かれたことや昇進の遅さ等によって、シパーヒーの不満が蓄積していた<ref>長崎、58-60頁。</ref>。また、シパーヒー側が宗教上の理由から海外出征を拒否するケースが続出し、シパーヒー側とイギリス東インド会社側の対立が生じていた<ref>長崎、60-63頁。</ref>。
 
# [[インド総督]]・[[ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)|ダルフージー]]の[[失権の原理]](養子を認めない原則)による[[藩王国]]の強引な併合。彼が総督であった期間は[[サーターラー藩王国]]、[[ナーグプル藩王国]]、[[ジャーンシー|ジャーンシー藩王国]]といった数多くの藩王国が併合された。また、旧[[マラーター王国]]の宰相[[バージー・ラーオ2世]]の養子[[ナーナー・サーヒブ]]もこの原理に基づき、父が受給していた[[年金]]の相続を拒否された。
 
#北インド最大の藩王国・[[アワド藩王国]]の内政紊乱を理由とした取りつぶし([[1856年]])。ベンガル管区においてアワド出身のシパーヒーは3分の1を占めていたため<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.174</ref>、併合はこの地の出身者であるシパーヒー達多数の反感を買った<ref>辛島昇編『南アジア史』山川出版社、2004年、330頁。</ref>。また、この藩王国に仕えていた貴族、役人、軍人といった人々は失業し、彼らを相手にしていた商人・手工業者も生活の術を失った<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.141</ref>。さらにアワドの直轄化によって地主(タールクダール)らは土地を没収され、その数は21,000人に及んだ<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.141</ref>。
 
 
 
などである。
 
 
 
== 反乱の経過 ==
 
=== 反乱の発生 ===
 
[[File:The Sepoy revolt at Meerut.jpg|thumb|left|230px|メーラトでセポイの反乱([[ロンドン・ニュース]]、1857年)]]
 
この大反乱は、1857年5月10日に[[インド北部]]の都市[[メーラト]]で[[スィパーヒー|シパーヒー]]が蜂起したことに始まる<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.148</ref>。シパーヒー(sipahi)とは[[イギリス東インド会社]]が編成したインド人[[傭兵]]のことで、セポイ(sepoy)ともいわれる。
 
 
 
この[[傭兵]]団は上層[[カースト]]に位置する[[ヒンドゥー教]]徒と上流階級の[[ムスリム]]([[イスラーム教]]徒)で構成されていた。彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス本国で新たに採用された[[ライフル銃]](それまでの滑腔銃と異なり正確な命中精度と強力な威力を持つ)である[[エンフィールド銃]]の[[紙製薬莢|薬包]](先込め銃に装填する一発分の火薬と弾丸をセットで紙包みに包んだもの)に、ヒンドゥー教徒が神聖視する[[ウシ|牛]]の[[ヘット|脂]]とムスリムが不浄とみなしている[[豚]]の[[ラード|脂]]が使われており、この銃がシパーヒーにも配備されるという噂が流れたことである<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.147</ref><ref>辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.330</ref>。
 
 
 
19世紀中葉から始まった、銃器の技術革新の最初の成果だったエンフィールド銃は紙製の薬包を使用しており、この薬包には防湿油として脂が塗られていた。この薬包を使ってエンフィールド銃を装填する際には、まず口で薬包の端を食いちぎって火薬を銃口から流し込み、[[弾丸]]と弾押さえ(薬包を口中で噛んで柔らかくしたもの)を押しこまなければならなかった。噂が本当であれば、彼らは戦闘時に宗教的禁忌([[アヒンサー]]、[[ハラール]])を犯すことになってしまう<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.148</ref>。彼らはこれを[[キリスト教]]への改宗を余儀なくさせるためのたくらみとみなして弾薬の受領を拒否するなどしたが、これらの行為は懲罰の対象とされた。
 
 
 
東インド会社は緊迫する状況を打開するため、牛豚脂使用の噂を否定したが、それでも信用されなかった。さらに、気になるのであれば口で噛み切らずに手で開封してもよいとも通達したが、不信は解消されなかった。ヒンドゥー教徒にしてみれば神聖な牛がそのような目的で殺されていること自体が納得できるものでなく、ムスリムにしてみれば豚脂を手で触る事も不浄な行為であった<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.148</ref>。
 
 
 
結果、シパーヒーはついに反乱を起こすに至ったのである。ただしこれはあくまできっかけであり、反乱勃発の原因としては[[#背景|上述]]の通りである。彼ら反乱軍は、牛豚脂が塗られているとされた紙薬包しか手元にないときは、ためらうことなくそれを噛み切ったとされる。ヒンドゥー教徒にとってみれば彼らが紙包を噛み切る事と関係無く既に牛は屠殺されているのであり、ムスリムにおいては緊急避難としてなら豚肉を食べる事も認められていたからである。
 
 
 
=== 反乱の拡大 ===
 
[[Image:SepoyMutiny.jpg|thumb|300px|インド大反乱]]
 
[[メーラト]]の反乱部隊は翌11日に[[デリー]]に到着し、デリー駐留の[[シパーヒー]]部隊を味方につけて駐留[[イギリス軍]]を駆逐、デリーを占拠した<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.148</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.268 </ref>。ムガル皇帝[[バハードゥル・シャー2世]]を反乱軍の最高指導者とし、皇帝復権を宣言して対イギリス戦争開始を表明した<ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.148</ref>。バハードゥル・シャー2世は彼らに身をゆだねるほかなく<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.268 </ref>、その夜に「[[ヒンドゥスターン]]の皇帝」としてイギリスに宣戦布告する言文を発した<ref>辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、pp.322-323 </ref>。
 
 
 
この反乱を機に、旧王侯、旧地主、農民、都市住民ら反英勢力が、宗教・階級の枠を越えて一斉に蜂起した<ref>辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.323</ref>。カーンプルではナーナー・サーヒブとその武将[[ターンティヤー・トーペー]]が、[[ジャーンシー]]では[[ラクシュミー・バーイー]]が、[[ビハール]]では大領主[[クンワル・シング]]といった指導者が立ち上がり、兵を率いてイギリス軍に抵抗した。また、アワドではカルカッタに追放された藩王の王妃[[ハズラト・マハル]]が息子[[ビルジース・カドル]]を擁し、アワド王(ナワーブ)である宣言し、シパーヒー、農民、領主(ザミーンダール、タールクダール)らの支持を得た<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.152</ref><ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.155</ref>。
 
 
 
反乱はイギリス直轄領、旧藩王国領をはじめ、北インドを中心におよそインドの3分の2近くの地域に拡大し、前年に併合されたアワドは特に反乱の勢いが激しかった。また、デリーでは7月に[[バフト・ハーン]]の率いる軍が到着したことから反乱軍が勢いづき、デリー防衛戦を優位に進めた<ref>長崎、122-129頁。</ref>。デリーではムガル帝国の国家体制が一時整えられたかに見えた。
 
 
 
しかし、内紛もあり反乱軍はまとまりを欠き、支配地域の拡大にも陰りが見え始めた。[[シパーヒー]]達は高位高官についた経験がない者が殆どで、有能な指揮官に事欠いていた<ref>長崎、103-104頁。</ref>。シパーヒーが離脱したことによって兵力不足となっていた[[イギリス]]は、周辺民族や旧支配階級を懐柔するなど政治的工作を実施し、結果大半の藩王国を味方につけたほか、[[ネパール王国]]の[[グルカ兵]]をはじめとする傭兵を投入したほか、反乱勢力鎮圧に向けて組織を立て直し反乱軍に対する攻勢を強めた。
 
 
 
同年8月からは[[デリー]]の反乱軍は劣勢となり、9月になると[[イギリス軍]]のデリー総攻撃が開始、[[バハードゥル・シャー2世]]は王城[[レッドフォート|デリー城]]から脱出し、イギリスに投降した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.268 </ref>。デリーにおける大反乱は4ヶ月で終結した<ref>長崎、137-153頁。</ref>。
 
 
 
その後、大反乱の舞台は地方に移ることになる。[[メーラト]]の反乱後、反乱は[[インド北部]](特に[[ガンジス川]]流域)を中心に拡大しており、[[カーンプル]]やアワド、[[ビハール]]などで反乱地方政権がイギリスの相手となった。
 
 
 
有名な激戦地は[[ジャーンシー]]、[[グワーリヤル]]であり、騎兵を率いて「インドの[[ジャンヌ・ダルク]]」と呼ばれた王妃ラクシュミー・バーイーの抵抗にイギリスは苦戦し、1858年6月まで戦いは続いた<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.153</ref>。
 
 
 
=== 反乱の収束 ===
 
[[File:Vereshchagin-Blowing from Guns in British India.jpg|thumb|300px|[[ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン|ヴェレシチャーギン]]が1884年に描いた絵画。反乱軍兵士を砲に括り付け、木の弾丸を発射する英軍による見せしめ。兵士の軍装は反乱当時のものではなく描いた年代のものである。]]
 
イギリスは反乱の原因となったエンフィールド銃を大量に配備し、不正確な命中[[精度]]で短い射程でしか[[射撃]]できない旧式の滑腔銃を持った反乱軍(18世紀的な密集銃隊で運用された)を射程外の距離から正確に射撃する事で圧倒した。
 
 
 
また、捕虜となった反乱軍兵士への残虐な処刑([[大砲]]の砲口に縛り付け、[[木製]]の[[砲弾]]を発射して身体を四散させる)を見せしめとして行い、恐怖で反乱軍とインド民衆の士気を挫こうとした。
 
 
 
ムガル皇帝[[バハードゥル・シャー2世]]が先導者として力不足であったことなども影響し、ラクシュミー・バーイーなどの活躍はあったものの、統一を欠いた反乱軍は最終的には個別撃破されて消滅した。とはいえ、[[1859年]]中ごろまでバフト・ハーン、ターンティヤー・トーペーといったゲリラ勢力の抵抗は続いた<ref>チャンドラ『近代インドの歴史』、p.158</ref>。
 
 
 
== 影響 ==
 
[[File:Victoria Disraeli cartoon.jpg|thumb|200px|女帝位を欲しがるヴィクトリア女王を皮肉った風刺画。インド人の格好をした[[ベンジャミン・ディズレーリ]]がヴィクトリアとインド帝冠とイギリス王冠の交換をしている。]]
 
反乱の失敗によって[[ムガル帝国]]は名実共に消滅、皇帝バハードゥル・シャー2世は有罪の判決を受け、廃位されて[[ミャンマー|ビルマ]]に[[流刑]]となり、反植民地運動は衰勢となった。イギリス政府は、一会社に広大なインドの領土を託すことの限界であるとして、この反乱の全責任を負わせる形でイギリス東インド会社を解散させ、ムガル皇帝をビルマに流刑し、インドを直接統治することにした({{仮リンク|1858年インド統治法|en|Government of India Act 1858}})<ref>辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.335</ref>。
 
 
 
そして、[[1877年]]にはイギリスの[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]を皇帝とする[[インド帝国]]の成立を宣言し、形式的にも本国政府がインドを統治することとなった<ref>辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.335</ref>。
 
 
 
また、多くの藩王国が叛乱に対して好意的でないもしくは敵対的であったのだが、そのことが第二次大戦後独立したインドによる報復として藩王国の廃止とさらにその後の年金廃止へとつながっていくこととなる。
 
 
 
==主な戦闘==
 
{{Main|en:Battle of Najafgarh}}
 
{{Main|en:Battle of Agra}}
 
{{Main|en:Battle of Badli-ki-Serai}}
 
{{Main|en:Siege of Delhi}}
 
{{Main|en:Siege of Cawnpore}}
 
{{Main|en:Battle of Chinhat}}
 
{{Main|en:Siege of Lucknow}}
 
{{Main|en:Second Battle of Cawnpore}}
 
{{Main|en:Capture of Lucknow}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
==参考図書==
 
*『歴史群像No.75インド大反乱』学習研究社、2006年
 
*{{Cite|和書|author =辛島昇|authorlink =辛島昇|translator=|title =新版 世界各国史7 南アジア史|publisher =山川出版社| date =2004年|isbn =}}
 
*{{Cite|和書|author =小谷汪之|authorlink =小谷汪之|translator=|title =世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―|publisher =山川出版社|date =2007年| isbn =}}
 
*{{Cite|和書|author =ビパン・チャンドラ|authorlink =ビパン・チャンドラ| translator=栗原利江|title =近代インドの歴史|publisher =山川出版社| date =2001年|isbn =}}
 
*{{Cite|和書|author =バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ|authorlink =|translator=河野肇|title =ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史|publisher =創士社| date =2009年| isbn =}}
 
*{{Cite|和書|author =フランシス・ロビンソン|authorlink = フランシス・ロビンソン| translator=月森左知|title =ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)|publisher =創元社|date =2009年|isbn =}}
 
 
 
==関連項目==
 
{{Commons category|Indian Rebellion of 1857}}
 
*[[ムガル帝国]]
 
*[[イギリス東インド会社]]
 
{{Portal bar|アジア|イギリス|ヒンドゥー教|戦争|民俗学|歴史}}
 
  
 +
1857~58年,[[イギリス東インド会社]]支配下のインドで,インド人兵士による反英蜂起に市民や農民らが加わり,北インド,中央インド全域に拡大した反乱。「セポイの反乱」とも呼ばれた。セポイ sepoyはペルシア語源の兵士を意味するシパーヒーの英語綴りをローマ字読みしたもので,東インド会社のインド人傭兵をさす。19世紀中頃,イギリスのとった強引な[[インド藩王国]]併合策はインドの支配者層をはじめ各階層の不満を高めていた。このような状況のもと,イギリス人が[[ヒンドゥー教]]や[[イスラム教]]の教えを無視し,銃の弾薬包に弾丸や火薬を詰める際の潤滑剤としてウシとブタの脂を使っているという噂が広がり,これが兵士による反乱の口火となった。1857年5月10日[[メーラト]]のセポイが武装蜂起し,翌日には[[デリー]]のセポイと市民に迎えられデリーを占領,ムガル皇帝を擁立し[[ムガル帝国]]の統治復活を宣言した。以後,反乱は各地に波及し,市民,農民なども加わって大衆暴動に発展,数ヵ月後にはインド全土の 3分の2に広がった。特に[[アワド王国]]とその周辺で激しく,[[ラクノー]](ラクナウ),[[カーンプル]]は激戦地となった。イギリスは多数の援軍を送り,1857年9月にはデリーを回復,ムガル皇帝は捕えられ,翌 1858年に廃位となった。イギリスはさらに,ネパール王にグルカー兵([[グルカー族]])の出動を承諾させ,1858年3月にアワド王国のラクノーを占領,続いて各地を鎮定し,1858年7月8日反乱鎮圧の声明を出した。インド大反乱当時の情勢は,イギリスの植民地支配に対する不満が連鎖的に爆発したもので,民族的統一の主体もなく,反乱を指導すべき政策や組織もなかったが,インド史上最初の団結をもった反英闘争であり,最初の独立戦争とも呼ばれる点で歴史的意義は大きい。
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2018/10/12/ (金) 11:17時点における最新版

インド大反乱(インドだいはんらん、Indian Rebellion)

1857~58年,イギリス東インド会社支配下のインドで,インド人兵士による反英蜂起に市民や農民らが加わり,北インド,中央インド全域に拡大した反乱。「セポイの反乱」とも呼ばれた。セポイ sepoyはペルシア語源の兵士を意味するシパーヒーの英語綴りをローマ字読みしたもので,東インド会社のインド人傭兵をさす。19世紀中頃,イギリスのとった強引なインド藩王国併合策はインドの支配者層をはじめ各階層の不満を高めていた。このような状況のもと,イギリス人がヒンドゥー教イスラム教の教えを無視し,銃の弾薬包に弾丸や火薬を詰める際の潤滑剤としてウシとブタの脂を使っているという噂が広がり,これが兵士による反乱の口火となった。1857年5月10日メーラトのセポイが武装蜂起し,翌日にはデリーのセポイと市民に迎えられデリーを占領,ムガル皇帝を擁立しムガル帝国の統治復活を宣言した。以後,反乱は各地に波及し,市民,農民なども加わって大衆暴動に発展,数ヵ月後にはインド全土の 3分の2に広がった。特にアワド王国とその周辺で激しく,ラクノー(ラクナウ),カーンプルは激戦地となった。イギリスは多数の援軍を送り,1857年9月にはデリーを回復,ムガル皇帝は捕えられ,翌 1858年に廃位となった。イギリスはさらに,ネパール王にグルカー兵(グルカー族)の出動を承諾させ,1858年3月にアワド王国のラクノーを占領,続いて各地を鎮定し,1858年7月8日反乱鎮圧の声明を出した。インド大反乱当時の情勢は,イギリスの植民地支配に対する不満が連鎖的に爆発したもので,民族的統一の主体もなく,反乱を指導すべき政策や組織もなかったが,インド史上最初の団結をもった反英闘争であり,最初の独立戦争とも呼ばれる点で歴史的意義は大きい。



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