興除
興除 こうじょ | |
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地方 |
中国地方、山陽地方 中国・四国地方 |
都道府県 | 岡山県 |
自治体 | 岡山市 |
行政区 | 南区 |
旧自治体 | 児島郡興除村 |
面積 |
17.17km² |
世帯数 |
5,717世帯 |
総人口 |
14,407人 (登録人口、2018年7月31日現在) |
人口密度 |
839.08人/km² |
隣接地区 |
市内: 南区妹尾地域・福田・藤田・灘崎 市外: 倉敷市倉敷(藤戸)・茶屋町 都窪郡早島町 |
岡山市南区役所興除地域センター | |
東経133度51分4.71秒北緯34.5887972度 東経133.8513083度 | |
所在地 |
〒701-0213 岡山県岡山市南区中畦593 |
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興除(こうじょ)は、岡山県岡山市南区にある地域である。かつての児島郡興除村(こうじょそん)に相当する。本項では同村についても述べる。
概要
岡山市南区役所興除地域センターが管轄する南区西畦・曽根・中畦・内尾・東畦が該当地域となっている。かつて児島郡興除村であったが、1971年5月1日に岡山市へ編入合併された。
広大な干拓地のため農業が主力産業となっており、米や麦の他、ナス、レンコン、トマトが栽培されている。また北部の妹尾駅周辺は岡山駅までのアクセスの良さからマンションが多数建設されている。
地理
岡山市南西部に位置し、全域が児島湾干拓地であるため平坦であり丘陵はない。南部の倉敷市・南区灘崎地域との境界を倉敷川が流れている。
歴史
こうじょそん 興除村 | |
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廃止日 | 1971年5月1日 |
廃止理由 |
編入合併 上道町、興除村、足守町 → 岡山市 |
現在の自治体 | 岡山市 |
廃止時点のデータ | |
地方 |
中国地方、山陽地方 中国・四国地方 |
都道府県 | 岡山県 |
郡 | 児島郡 |
団体コード | 33402-9 |
面積 | 17.18km2. |
総人口 |
7,397人 (昭和45年国勢調査、1970年) |
隣接自治体 |
岡山市、倉敷市 児島郡藤田村、灘崎町 都窪郡茶屋町、早島町 |
座標 |
北緯34度35分19.55秒 東経133度51分4.7秒 |
1819年(文政2年)、倉敷代官であった大草太郎右馬が幕府の命を受けて開墾を行うことになり、翌1820年(文政3年)に工事着手され、1823年(文政6年)に約840ha、5096石の新田が造成された。この新田は岡山藩士小原大之介により、中国管子の「興利除害」という言葉から興除新田と名付けられ、これが興除の地名の起源となっている。
1822年(文政5年)、興除新田は東村・中村・西村と区分されたが、当時は新開地に「村」の名称が使用できなかったため東疇・中疇・西疇と改称された。さらに同年9月に西疇の北部・東部を分割して曽根が、東疇の西部を分割して内尾が置かれた。1875年(明治8年)、これら5地区をすべて村とした(以下、沿革を参照)。
1957年(昭和32年)8月3日 - 4日、集団赤痢(患者:40名。うち、死者:1名)が発生した。約1週間前、吉備上水道の滅菌装置が24時間にわたり壊れ、川水がろ過装置だけで給水されていたので、それが原因ではないかといわれた。[1]
沿革
- 1875年(明治8年) - 東疇村、中疇村、西疇村、曽根村、内尾村が発足。
- 1889年(明治22年)6月1日 - 町村制施行。西疇村と曽根村が合併し西興除村発足。東疇村、中疇村、内尾村が合併して東興除村発足。
- 1905年(明治38年)4月1日 - 東興除村と西興除村が合併して興除村発足。
- 1910年(明治43年)6月12日 - 妹尾駅が開業。
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 大字西疇のうち字鶴崎の区域を都窪郡茶屋町に編入。
- 1954年(昭和29年)12月1日 - 大字西疇の一部を倉敷市に編入。
- 1971年(昭和46年)5月1日 - 興除村が岡山市に編入される。村制時の5大字は同市の大字に継承(東疇・中疇・西疇は東畦・中畦・西畦に変更)。
- 2009年(平成21年)4月1日 - 岡山市が政令指定都市に移行し、興除の行政区は南区となる。
行政
岡山市南区役所の出先機関である興除地域センターが南区中畦に存在し、戸籍関係等一般の業務を扱う総務民生課が置かれている。1971年5月1日の編入合併までは興除村役場として、また2009年4月1日の政令市移行までは岡山市役所興除支所として使用された。
施設
- 岡山県環境保健センター
- 岡山南警察署東畦駐在所、中畦駐在所、曽根駐在所
- 興除郵便局
学校
交通
参考文献
- 角川日本地名大辞典(旧地名編)
- 岡山市と周辺市町村合併の記録(1971年)
脚注
関連項目
外部リンク