福本藩
福本藩(ふくもとはん)は、播磨国神東郡の福本陣屋(現在の兵庫県神崎郡神河町福本)に藩庁を置いた藩。ただし、藩(大名の所領)であったのは江戸時代初期および明治維新期のごく短期間であり、その間は交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)池田家の知行地であった。
鳥取藩に預けられた池田輝澄を祖に持つ経緯から、鳥取藩との関係が強く、その支藩的立場であった。1870年、鳥取藩に吸収された。
藩史
前史
寛永17年(1640年)、山崎藩6万8000石の藩主であった池田輝澄(池田輝政の四男)は、お家騒動を咎められて改易され、甥の鳥取藩主池田光仲に預けられた[1]。輝澄は、徳川家康の外孫であることもあり、鳥取藩から堪忍分として鹿野1万石が給された[1]。寛文2年(1662年)、輝澄の子の政直は堪忍分1万石を相続した[1]。
立藩と交代寄合化
寛文3年(1663年)、政直に対して播磨国内(神東郡・神西郡・印南郡)1万石が新たに与えられ、福本藩が立藩した[1]。
寛文5年(1665年)、政直は嗣子なく没した。遺領は政直の弟である政武(7000石)と政済(3000石)が分割相続し、2つの旗本家となった。このうち福本7000石の領主となった政武は、交代寄合の格式となった。貞享4年(1687年)に政武が没すると、嗣子の政森(6000石)と次男の政親(1000石)によって分割された。以後、3家とも明治維新まで存続した。
7代喜通は安政2年(1855年)藩校「乾々館(けいけいかん)」を開いた。
明治維新後の再立藩と廃藩
1868年(慶応4年)6月、鳥取藩蔵米3,500石を与えられ、また、石高直しにより10,573石となり、再び諸侯に列して藩となった。明治2年(1869年)に藩校は移設され名も「時習館」と改称された。
1870年6月(明治3年8月)、藩主徳潤は福本藩知事となるが、1870年10月(明治3年11月)に藩財政困窮のため鳥取藩に併合され、廃藩となった。
1884年(明治17年)7月、華族令施行に伴い徳潤は男爵に叙せられたが、1894年(明治27年)に爵位を返上している[1]。
歴代藩主
- 池田家
外様 10000石→7000石→6000石→10573石 (1662年 - 1665年、1868年 - 1870年)
幕末の領地
福本藩施設遺構
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福本陣屋藩邸跡
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保秀稲荷社
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勘定奉行職武家屋敷
脚注
参考文献
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1997年 ISBN 978-4404025241
- 『大名の日本地図』 中嶋繁雄著 文春新書 2003年 ISBN 978-4166603527
- 『池田家福本藩跡』 神河町観光協会発行(2011年11月12日確認)
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年
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