二上山 (奈良県・大阪府)
二上山(にじょうさん[1])は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。かつては大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼ばれた。
金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある双耳峰である。 また、石器に使われた讃岐岩(サヌカイト)の産地である。二上山の北側の春日山付近の地域で遺跡が多く発見されていることから二上山北麓遺跡群とも呼称されている。後期旧石器時代から弥生時代にかけての多量の剥片・砕片・石核・くさび形石器・敲石類が採集されており、遺構としての採掘坑も確認されている。大阪みどりの百選に選定されている[2]。
地理
金剛山地の北部に位置。金剛生駒紀泉国定公園の区域でもあり、自然が豊か。二上山は、「近つ飛鳥」や「当麻寺」を絡め、ハイキングコースとなっている。山頂の付近は、大和平野が一望でき、雄岳から雌岳への途中から、大阪湾・大阪平野が、雌岳の南方からは、葛城山・金剛山の山並みを一望することができる。
北側には、火山活動でできたとされる屯鶴峯があり、付近には、近鉄大阪線・近鉄南大阪線・国道165号(長尾街道)が通っており、交通の要所となっている。近鉄大阪線、国道165号沿いに香芝市立二上山博物館がある。
南側は、竹内街道が通っていた。現在は、国道166号が通っている。
西側、太子町付近は、「近つ飛鳥」(河内飛鳥)と呼ばれて、陵墓・古墳など、遺構が多く残っている。二上山万葉の森や大阪府立近つ飛鳥博物館もある。
雄岳山頂には二上山城の本丸跡があり、葛木二上神社(祭神は豊布都霊神・大国(御)魂神)がある。また、その近くの二の丸跡には大津皇子の墓がある(ただし、実際には大津皇子の墓ではないとする説もある)。
歴史
有史以前
二上山周辺は、火成岩や火砕流堆積物が分布していることから、火山であったと考えられている。約2000万年前の大噴火により形作られたと言われている。活動時期は、新第三紀と推定され、最終活動時期は、約1400万年前と推定されている。
二上山は死火山で、今後、噴火の可能性はなく、地図で火山として分類されることはない。
有史以後
古来より、雄岳・雌岳の間に日が沈む様子から、神聖な山岳として、人々からあがめられてきた。
古墳時代から飛鳥時代にかけて、二上山周辺は、海上の交通の要所、大阪湾・住吉津・難波津から、政治の中心の舞台である飛鳥地方への重要ルートとなり、二上山の南に、日本で最初の官道として知られる竹内街道が作られた。二上山の石切場から切り出された石材が高松塚古墳に使われた。謀反の疑惑をかけられて自害した、大津皇子の墓が雄岳山頂付近にある(ただし、大津皇子の墓ではないとする説もある)。
雄岳山頂には鎌倉時代後期に楠木正成によって二上山城が築かれた。戦国時代になると、河内畠山氏が居城である高屋城の支城として城を整備している。
岳のぼり
古くから、二上山の水を農業に使っている大和国側の「ダケ郷」の村人が、春に「岳のぼり」と称し、二上山に登り、神を迎えていた。「嶽の権現さん、雨降ってたもれ」「嶽の権現さんは幟がお好き、幟持ってこい、雨降らす」と言いながら、のぼりや提灯をもって登拝し、稲作りに必要な雨を願うという水神的性格の祈雨の登山であった。大和高田市域の築山村・神楽村からも徒歩で村人が往来した。現在は有志により、毎年4月23日に「岳のぼり」が行われている。「ダケ郷」とは「嶽郷四十八ヶ村」といって、明治22年の町村制施行後の村である二上村、下田村、五位堂村(以上香芝市)、當麻村、磐城村、新庄村(以上葛城市)、陵西村、浮孔村、高田村、磐園村、土庫村、松塚村(以上大和高田市)に含まれる48大字のことである。[4]
交通アクセス
ギャラリー
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雄岳山頂
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雌岳山頂
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大津皇子 二上山墓
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高松塚古墳に使われた石切場
脚注
関連項目
外部リンク