オルタナティヴ・ロック
オルタナティヴ・ロック(Alternative Rock)は、ロックの一ジャンルである。日本ではオルタナティヴ、オルタナと略称されることが多い。
オルタナティヴ(Alternative)とは、「もうひとつの選択、代わりとなる、異質な、型にはまらない」という意味の英語の形容詞。大手レコード会社主導の商業主義的な産業ロックやポピュラー音楽とは一線を画し、時代の流れに捕われない普遍的な価値を追い求める精神や、前衛的でアンダーグラウンドな精神を持つ音楽シーンのことである。イギリス、アメリカだけでなく、世界の多くの国に存在する。
ジャンル全体の傾向としては、1970年代後半の英米の産業ロックへの反発からくる、1960年代ロックへの回帰(音楽的のみならず、思想的にも)を志向しており、インディー・ロックの流れを汲む。
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概要:黎明期
1978年、イギリスでは前年のロンドン・パンク・ムーブメントと入れ替わるようにポスト・パンク/ニュー・ウェイヴが勃興した。そのもっとも先鋭的なグループとしてスロッビング・グリッスル、ディス・ヒート、パブリック・イメージ・リミテッド(PIL)らの名前が挙げられる。かれらはパンクが開けた風穴をさらに広げようとし、より自由で実験的な音楽を演奏し、資本的にもメジャーなレコード会社から独立したインディーズ・レーベルのソロ、およびバンドが多く、音楽メディアからはオルタナティヴ・ロックと呼ばれた。イギリスのラフ・トレード・レコード[1]は、初期のオルタナティヴ・ロックのレーベルとして知られていた。またアメリカで発表されたオムニバス盤『ノー・ウェイヴ』もオルタナティブ・ロックの佳作であった。同アルバムにはジェームス・チャンスらの曲が収録されていた。オルタナに分類されるジャンルには、パンク・ロック、ハードコア・パンク、ノー・ウェーブ、インダストリアル、ガレージロック、グランジ、シューゲイザー、ノイズロック、ミクスチャー・ロック、ラップロック、ローファイ、エモ、ポスト・パンクなどがある。
同じころ、アメリカ各地の大学で学生が自主運営していたカレッジ・ラジオは、イギリスやアメリカのパンク・ロックやポスト・パンク、ニュー・ウェイヴやギターポップ、ノイズロックなど、アメリカの音楽シーンの主流から外れた音楽を盛んに取り上げた。
彼らのラジオ局は、当時の音楽界の主流であったディスコミュージック、ポップやヘヴィメタルなどを「収益性を第一とし、産業的・芸能的でアートとしての進歩性に欠け、聴衆におもねたもの」と呼んで、自らが支持する音楽を「主流でない音楽、真剣な音楽、自分たちの応援する地元のインディーズバンド」として放送する傾向があった。全米の大学ラジオごとのチャートをあわせた「カレッジチャート」では、商業性主体のビルボード・チャートとは異なるオルタナティヴ(代わりの選択肢となりうる・型にはまらない)なバンドが上位に名を連ねていた。REMやU2は、カレッジ・ラジオが応援し続けたバンドとして特に有名である[2]。U2は、音楽賞で受賞した際には「応援してくれたカレッジ・ラジオに感謝する」とコメントしていたほどである。
詳細:定義
広義の解釈はクラッシュ、ディーヴォなど、メジャー・レーベルから発表された作品も、オルタナティヴ・ロックに含む考え方。浸透している定義であり、オルタナティヴ・ロックの考察記事・読本などでは、これを主眼として「オルタナティヴ・ロックに属するバンド」を選考し、扱われることが多い[3]。しかしこの定義の場合、音楽やアティチュードの親和性という部分にそもそも多分の主観性を含むため、決して厳密で明瞭な定義ではあり得ない。
狭義の解釈としては、メジャーから発表されているソロ、バンドは、オルタナティヴ・ロックに含まれないとする考え方。それ以外に、オルタナティヴ・ロックの時代性が希薄となってしまった史観でもって勃興時期の前後に位置するものだけを取り上げる定義もある。
1980年代USオルタナシーン
アンダーグラウンドな音楽活動は地域や時代を問わず存在したと考えられるが、1980年代の北アメリカ諸都市におけるパンク由来の音楽活動の特徴を、カナダの音楽社会学者ウィル・ストロー (Will Straw) は、「シーン」scene という概念で、従来の(エスニックな)「コミュニティー」に根ざしてアンダーグラウンドにまで連なる(たとえば)ダンス音楽と対比して論じている。[4]ウィル・ストローはカナダのトロント、モントリオール、アメリカのロサンゼルス、デトロイト、イギリスのロンドンなどのオルタナティブ・ロック・シーンを綿密に調査した。1980年代半ばまでに、カナダ、アメリカの都市部にはローカルなカレッジ/オルタナ・コミュニティが成立し、地域限定のインフラ(レコードリリースやラジオ放送)を利用した音楽活動が行なわれた。音楽的な多様性が許容され、必ずしも音楽的共通性を根拠としない「シーン」が成立していった。これらの諸シーンは、あくまでローカルなものでありながらも、特に必然的な地域性なしに各地で同様な経過で発生したため、各バンドは諸都市間を移動する活動によっても類似の聞き手を期待できた。しかし、この論文が出版された1991年ごろには、これらのシーンから生まれた音楽がメインストリームに取り入れられていった。若者にとっては、グランジなどが一大ジャンルとして、それまで主流だったポップ音楽よりも魅力のあるものと見られるようになっていった。
世界のオルタナ・シーン
世界のオルタナティヴ・ロック・シーンについて記述する。
南カリフォルニア
巨大都市ロスアンジェルスはニューヨークと並ぶ音楽産業の中心であり、1970年代以前から「アンダーグラウンド」の規模も大きくその音楽的内容・活動姿勢ともに多様な音楽活動を包含したと考えられ、単一のローカルシーンとみなすことはできない。しかし、その中で1970年代後半の、ニューヨークやロンドンと比べてローカルであったニューウェーヴ・パンクシーンからさらにロスアンジェルス郊外のハードコア・パンクシーンが枝分かれしていく過程は、1977年に高校生のファンジンとして創刊された『フリップサイド』(en:Flipside (fanzine))によく記録されている。当初はニューヨークやロンドンのバンド公演の合間に登場するだけだった地元バンドが増えると共に、色分けがなされるようになる。「ストリート系」「サーフパンク」は、ロスアンジェルスのサウスベイやオレンジ・カウンティなど郊外の未成年者を指し、これらのライブハウスで問題を起こしやすい層に人気のブラック・フラッグ[5]、といったバンドはやがて都心のライブハウスからは締め出され、郊外各地の常設・臨時のライブ会場を拠点として「ハードコア・シーン」が形成されていくことになる。注目すべき点は、これらの色分けがあくまで聴き手の分類であって、ミニットメンやレッドクロス、あるいはTSOLといったバンド自体の音楽は、ニューウェーブ・ポストパンクやメタルなどさまざまな要素を含んでいた、という点である。新たに参入したディセンダンツはサーフポップのメロディーをこの地域のハードコアに持ち込んだ。
ロスアンジェルスでのライブの機会が限られる中、知名度の高かったブラック・フラッグやミニットメンは頻繁にツアーを行ない、アメリカ各地にハードコアシーンが形成される契機を作った。ブラック・フラッグの自主レーベルSST・レコードは、LAで親交のあったバンドだけでなく、これらのツアー活動を通じて知り合ったアリゾナのミート・パペッツ、ミネアポリスのハスカー・ドゥ、ニューヨークのバッド・ブレインズ、ソニックユース、ダイナソーJr.といったバンドの作品をリリースし、1980年代の代表的なUSオルタナティヴ・インディー・レーベルとして知られる。
ロスアンジェルスは映画産業の中心地でもあり、映画に登場したり映画音楽に起用されたりしたバンドも多い。1980年代初期のハードコア・シーンをよく伝える映画としては、オレンジ・カウンティーのハードコアバンド、ソーシャル・ディストーションとユースブリゲードが1982年スクールバスを改造したツアーバスで試みた全米ツアーを中心とする映画『アナザー・ステート・オブ・マインド』や、1984年のフィクション『サバービア』がある。
1984年にはハードコア・ブームはピークを迎え、ロスアンジェルスでも地元のイヴェンターGoldenvoiceが、各地の人気バンドやUKハードコアのバンドをヘッドライナーとしてオリンピック・アリーナのような大きな会場で頻繁にイヴェントを開催するようになる。このような、メインストリーム的なハードコア・パンク・イヴェントからは地元のバンドの多くが締め出され、様式化したハードコア・パンクと各地のハードコア・シーンの乖離が進んでいたことを『フリップサイド』は伝えている。1980年代半ばにはロスアンジェルスはグラム・メタル、次いでスラッシュ・メタルといったメタルのメインストリームでのブームの中心として各地から集まったアンダーグラウンドなバンドの活動が盛んになっており、パンクバンドの演奏機会は失われていた。しかし、1980年代末からバッド・レリジョンとそのレーベルエピタフ・レコードのメロディック・ハードコアが人気を集め、1990年代パンク・リバイバルの中心の一つとみなされるようになった。
サンフランシスコ・ベイエリア
ロスアンジェルスと密接な関係にある地域であり、パンク・ニューウェーヴのライブハウスとしてマブヘイ・ガーデンズが知られ、ブラック・フラッグやサークル・ジャークスといったバンドが早い時期から頻繁にツアーを行なっている。1978年結成の地元のバンドデッド・ケネディーズ[6]は、自主レーベルオルタナティヴ・テンタクルズを立ち上げ、東海岸へのツアーを行なうなど、早くから知名度をあげ世界的に知られるようになり、ジェロ・ビアフラ(v.)はパンクの反体制的主張の代弁者として積極的に発言する。バークリーの公共放送KPFAの音楽番組マクシマムロックンロールのティム・ヨハナン(en:Tim Yohannan)は、オルタナティヴ・テンタクルズからカリフォルニア北部のパンクバンドのサンプラーをリリース、この48ページのライナーが、世界的に知られるようになるパンク誌『マクシマム・ロックンロール』の創刊号となる。当初からこの雑誌のカラーとして、オルタナティヴな価値観を目指すパンク思想がアピールされた。1986年にはオルタナティヴ・ミュージック・ファウンデーションを設立し、自主運営ライブハウス・ギルマンをオープンする。ギルマンは、ベイエリアのパンクシーンの中心として、グリーン・デイ、ジョーブレーカー、サマイアムといったバンドの活動拠点となった。日本のバンドでも原爆オナニーズなどがアメリカ・ツアーでこの会場を選んでいる。ただし、『マキシマム・ロックンロール』を単にパンク音楽誌とみなすことはできない。その大量のレビューにはハードコア・パンク全盛期の草創期から、ポストパンク、サイケデリック、ノイズ、あるいはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの再発、白人ビースティー・ボーイズのラップなど、典型的なパンク以外の音楽もしばしば好意的に評されている。白人のラップが評価されたことは、黒人ラップが中心のR&Bチャートとは異なっていた。1984年からは日本のバンドも登場し、少年ナイフなども紹介されている。
ワシントンD.C.
黒人人口の比率が圧倒的に高く、オルタナ・シーンは小さい。地元レコード店主のスキップ・グロフにより1978年に自主制作で出された、ハーフ・ジャパニーズを含むニューウェーヴ・バンドのコンピレーション 30 Seconds over D.C.:Here Comes the New Wave!が、ニューヨークからの独立宣言とも言える地元バンド作品である。グロフが設立を助けたティーン・パンクスによるディスコード・レコードも、ニューヨークの影響を克服して「D.C.を地図に載せる」ことがテーマとなった。このティーンパンクスに大きな影響を与えたのが、ジャズ・フュージョンから転向したアフリカ系アメリカ人パンクバンド、バッドブレインズの「ポジティヴ・メンタル・アティテュード (PMA)」と超高速のスラッシュ・スタイルである。バッドブレインズは後にニューヨークに本拠を移し、東部のハードコア・バンドとしては初めて全米ツアーを行なって人気バンドとなる。さらにマイナー・スレットをはじめとするティーンパンクスがハードコアを名のるに及んで、『フリップサイド』や『マクシマム・ロックンロール』を通じて「DCシーン」は全米のパンクシーンに知れ渡った。しかし、バッドブレインズはボーカルH.R.がレゲエへの傾倒を強め、また、1983年のマイナースレット解散後、ディスコードのバンドもさまざまな音楽的実験を開始するため、DCシーンが音楽スタイルに結び付けられた期間は短かった。1985年設立のティーンビートなどポップ・レーベルも加わり、社会団体Positive Force が毎年開催するオルタナティヴズ・フェスティバルをはじめとした音楽を通じた社会運動の企画を軸として「シーン」が再定義されていくことになる。
90年代以降
1990年代初頭のアメリカでは、ニルヴァーナやダイナソー・Jr、パール・ジャム、サウンドガーデンなどがライブハウスやカレッジチャートなどを中心に、大きく売り上げを伸ばしていた。彼らはグランジ・ロックと呼ばれていた。すでに70年代末にはオルタナティヴ・ロックという呼称は存在していたが、ジャンル名が広く定着したのは、この時期である。グランジは、全米チャート上位を独占していた既存の1980年代的な産業ロック、ハードロック、ヘヴィメタル、ポップ・ロックなどとは違うロックの呼称として一般化していった」。
1990年代後半には、発端にして中心であったグランジムーブメントが終焉する。オルタナティヴ・ロックも、下記の狭義の定義に従えば、爆発的なムーブメントは終焉した。ただし、同じく下記の広義の定義に従えば、依然として世界の音楽業界へ影響を与え続けていると言える。
オルタナティヴ・ロックが、ハードロックやヘヴィメタルと並立してしまうほどの名実を得てしまった2000年代では、上記のような勃興の際の時代性の意味合いが希薄になっているところも多々あり、その扱い方は世界的に非常に曖昧なものとなっている。
多様な見解
オルタナティヴ・ロックとは、そもそも1980年代の主流から外れたロックを指すためのくくりで、音楽性は雑多で多岐にわたるため、ある一定の音楽を指したジャンルではない。定義については様々な評論が存在し、明確な共通点は、1980年代にメジャーシーンで大きなセールスをあげていないという点にある。
その他の見解は、学術的にロックミュージックの歴史を取り上げる際などに、その明瞭さを注視されて扱われることが多い。ただしこの定義の場合、1990年代末期以降に活躍し、音楽性的に既存のジャンルに含める事が難しく、オルタナティヴ・ロック以外の呼称を与えにくいバンドをオルタナティヴに含めることができず、齟齬が発生する事が多い[7]。
そもそもの語源に立ち返り、その時代の主流に対するカウンターミュージックを志向するバンドのみを含める定義。この場合、様式化されていることがないため、オルタナティヴ(異質な)・ロックという本来の意味には最も忠実である。しかし、基本的にその音楽に対する主観に依る定義であるため明瞭でなく、また利益の最大化を主眼とした資本性を捨てているため、そもそもシーンの主流となっていったためにオルタナティヴ・ロックというジャンルを必要とし、定義付けされていった他の定義とは、根本的に違いがある。
特徴、使用機材、歌詞
オルタナティヴ・ロックは、そもそもが1970年代の末にイギリスで発生したのは前述の通りである。英米メジャーシーンの産業ロック、ポップに対するオルタナティヴとして誕生したジャンルであるため、音楽性は1980年代的なもの(MTV的なもの)と正反対の方向性を持つ。これらはその多くが音楽的な挑戦を持ち、メジャーシーンへのアンチを志向している。また1980年代のポピュラーミュージック、産業ロックに比べると、聞き手にとっての耳触りのよさやキャッチーさを否定している。
これらのいわゆる「アート性に根ざす分かりにくさ」がオルタナティヴ・ロックに対する一つのタームとなっており、R.E.M.やソニック・ユースといった勃興の際の旗手となったバンド群は、その人気が1990年代に入ってメジャーシーンへ表出した際、その1980年代ヘヴィメタルロックとは違った抽象性・アート性を当時の音楽雑誌、ローリング・ストーンやNMEなどをはじめ、多くのメディアでさかんに議論された。
サウンド的には、アンダーグラウンド志向に則ってきらびやかなエフェクトは敬遠され、1970年代以前のロックの影響が濃い、簡素でロー・ファイ的な価値観を重視する。ドラムサウンドやヴォーカルにキラキラとしたエフェクトをかけるのは好まれず、ガレージ・ロック/インディー・ロックのような現実感のある自然なサウンドが重要視される。
演奏面では、特にギターのサウンド/奏法には工夫を凝らし、いわゆる1980年代に定型的とされていたヘヴィメタル的な奏法を否定し、速弾きソロなどは用いないバンドが多い。ギターの私的な改造を主としたスイッチ奏法などの音作りや、多くのシューゲイザーバンドやノイズロック・インダストリアルバンドが得意としているギターノイズ奏法などは特に著名。
好まれた機材としてはフェンダー社のジャガーやジャズマスター、ムスタングなどが挙げられる。歪み用のエフェクターは、きめの細かいヘヴィメタルタイプのディストーションよりもRATなどの荒いタイプのものが多用される。また、トゲトゲしいルックスを持った変形ギターなど、1980年代メインストリーム的なものを好んで使用するバンドは非常に少ない。
歌詞については、政治性・メッセージ性が強く、機知に恵まれ比喩も巧みな文学性の高い歌詞を書くバンドから、文に全く意味の通らないようなナンセンスな歌詞であったり、歌詞カードすら作らないバンドが存在するなど、様々なタイプが存在する。歌詞に対するスタンスについてもオルタナティヴ・ロック全体に共通する傾向を挙げることは難しいが、どちらにせよ一般的なヒット曲に有りがちな分かりやすい題材とは一線を画している。これらは、オルタナティヴ・ロックのアート性・抽象性の顕在化に一役買っていると言えるだろう。
ステージ衣装、メイクに関しても、力のこもった「いかにも」な衣装やメイクは敬遠される傾向がある。大半は普段着の延長のファッション、もしくはバンドによっては通常では考えられないほどの奇抜・変態的でアヴァンギャルド的なものが好まれる、と両極端である。
日本でのHMファンによる反発
オルタナティヴ・ロックの前衛性・アート性は当時の日本では本国アメリカ以上に理解を得られず、その定着には時間を必要とした。日本で本格的にオルタナティヴ・ロックの評価が高まり、きちんと確立されるのはニルヴァーナやレッド・ホット・チリ・ペッパーズらのブレイクにより、オルタナティヴ・ロックが完全に潮流となってからとなる。
当時の日本ではグランジやミクスチャー・ロック(こちらは完全な和製英語)といった直感的に理解しやすいジャンルで盛んにコマーシャルされたため、それらを包括する意味合いを持つオルタナティヴ・ロック自体の知名度は低い。一部の専門的な雑誌媒体を除けば、日本のテレビや雑誌などで1990年代にオルタナティヴ・ロックという用語が扱われていたことは稀である。
日本のバンドにおいては、オルタナティヴ・ロック特有の音楽性との、幾分かの親和性が見られる邦楽ミュージシャンを除き、ムーブメント背景をくぐっていないにも関わらず、配給会社の戦略によって邦楽ミュージシャンに無闇にオルタナティヴ・ロックの呼称が与えられてしまうことさえある。
正統派ヘヴィメタルを支持する音楽雑誌『BURRN!』の方針によって、「メタルの敵」というイメージが定着し、スラッシュメタルや正統派メタルを支持するメタルファンには、敵視され続けた。また、90年代中盤~、後期にオルタナティヴ・ロックやグランジ、モダン・ヘヴィネス要素を取り入れ、音楽性を豹変させてしまうバンドが多かったため、一層嫌われた。
オルタナティヴ・ロックに分類されるアーティストの一覧
- 参照:
- 参照:
関連項目
参考文献
- BURRN! 1992.4月号
- アメリカン・オルタナティヴ・ロック・ガイド(鈴木善之著)
- Punk Zine Archive! FlipsideやMaximum Rocknroll が読める。
- Flipside Fanzine Memorial Website LAの初期パンクGIGのデータベース作成中。
- Hüsker Dü Database Hüsker Düのライブデータ、インタビュー、文献リストなど。
- Mark Anderson & Mark Jenkins Dance od Days: Two Decades of Punk in the Nation's Capital 2001. Soft Skull Press.
脚注
- ↑ http://www.discogs.com/.../266714-Rough-Trade-Records-Lt...
- ↑ http://dmpl.org/.../college-rock…-and-context-1980s-college-...
- ↑ 2003年のローリングストーンにおける特集、NME・SPINなど多くの世界的ロック雑誌の記事傾向などもこれに該当。日本では鈴木善之の著群など
- ↑ Straw, Will (1991). "Systems of Articulation, Logics of Change: Communities and Scenes in Popular Music", Cultural Studies, 5, 3, pp.368-88。en:Maximum RocknrollのScene Reportsを例示しており、「シーン」はこの用法に基づく概念であるとみられる。これより創刊の早いロスアンジェルスのファンジンen:Flipsideは1978年にはL.A.Scene という表現を用いており、1979年には「オレンジ・カウンティの二つの'scenes'」というような用法が現れている。
- ↑ 「USオルタナティブロック1978-99」村尾泰郎
- ↑ http://www.allmusic.com/artist/dead-kennedys.../discography
- ↑ Q誌のデイク・バートンは、著『オルタナティヴ・ロック史観』の中で、これらにはイギリスで言うとレディオヘッド、ザ・ヴァーヴ、スーパー・ファーリー・アニマルズ、ミューズ、活動中期以降のブラーなど多くのバンドが該当するとし、その定義の不完全さを指摘