アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯爵)

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第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・フィリップ・プリムローズArchibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery, KG, KT, PC1847年5月7日 - 1929年5月21日)は、イギリスの政治家、貴族。

1868年に爵位を継承し、1871年から貴族院議員として政界入りした。自由党に属し、ウィリアム・グラッドストンの政権で閣僚を歴任。グラッドストン引退後にイギリスの首相を務めた(在任: 1894年 - 1895年)。

1851年から1868年まではローズベリー伯爵家の法定推定相続人として「ダルメニー卿(Lord Dalmeny)」の儀礼称号を称した。

概要

1847年スコットランド貴族ローズベリー伯爵プリムローズ家の嫡男として生まれた。イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジへ進学した(→生い立ち)。1868年に爵位を継承し、1871年から自由党貴族院議員として政界入りした。1879年ミッドロージアン・キャンペーンEnglish版グラッドストンを助けて自由党の勝利に貢献し、第2次グラッドストン内閣内務省政務次官English版、ついで王璽尚書建設長官English版を務め、第3次グラッドストン内閣第4次グラッドストン内閣では外務大臣を務めた(→自由党政権で閣僚職歴任)。

1894年3月にグラッドストンが引退するとヴィクトリア女王より大命を受けて組閣した。しかし彼は自由党内の帝国主義派のグループ「自由帝国主義派」の領袖だったため、アイルランド自治法案に消極的であり、アイルランド議会党English版との関係を悪化させた。貴族院を支配する保守党の協力も得られず、政権運営はすぐに行き詰まった。さらに庶民院の自由党指導者で財務大臣として入閣していたハーコートと対立を深め、閣内分裂状態に陥った。結局ハーコートが主導した相続税の導入を数少ない事績として1895年6月に内閣総辞職した(→首相)。

下野後もしばらくは野党自由党の党首を務めたが、ハーコートとの党内対立が続き、1896年10月には党首職も辞職することになった(→野党自由党党首として)。保守党政権が第二次ボーア戦争を開始するとアスキスらとともに「自由帝国主義派」の政治家として野党の立場から政府の戦争遂行を支持し、ロイド・ジョージら戦争に反対する党内左派(「親ボーア派」)と対立した。また1902年には党のアイルランド自治法案の方針を批判し、アスキスらとともに自由連盟English版を結成して党首キャンベル=バナマンとの対決姿勢を露わにした。しかし保守党政権の植民地大臣チェンバレンが提唱した関税改革論(保護貿易論)に明確な反対姿勢を打ち出さなかったことが自由帝国主義派の議員たちの間での彼の人望を落とすことにつながり、1904年までには党内における影響力を完全に喪失し、自由党内で孤立した存在となった(→党内影響力の低下)。

1904年12月からの自由党政権に入閣することはなく、同政権と距離を置いた活動を行ったが、1911年以降は貴族院に出席しなくなり、実質的に引退した。1929年に死去した(→晩年)。

若くして爵位を継承したため、庶民院議員を経ることなく貴族院議員となっており、19世紀末の首相としてはやや適性を欠いていたと指摘される。性格はおおらかだったので人望はあったという。にもかかわらず彼が早期に権力を失った理由についてベアトリス・ウェッブEnglish版は社会政策の無知に原因を求めている(→人物・評価)。

妻はメイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルド男爵の一人娘ハンナEnglish版。彼女との間に第6代ローズベリー伯爵位を継承するハリーEnglish版はじめ2男2女を儲けた(→家族)。

経歴

生い立ち

1847年5月7日に第4代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズの嫡子ダルメニー卿アーチボルド・プリムローズEnglish版の息子として、ロンドンバークレー・スクエアEnglish版で誕生。母キャサリンは第4代スタンホープ伯爵English版フィリップ・ヘンリー・スタンホープEnglish版の娘[1][2]

父ダルメニー卿はスターリング選出の庶民院議員で、第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム首相の下で海軍本部委員の一人を務めたが、襲爵前の1851年に死去した。代わって彼がローズベリー伯爵位の法定推定相続人となり、「ダルメニー卿」の儀礼称号を帯びた。また母は第4代クリーヴランド公爵ハリー・ポウレットと再婚した[3]

イートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジで学ぶ[4]

自由党政権で閣僚職歴任

ファイル:GladstoneandRosebery.gif
1879年のミッドロージアン・キャンペーンEnglish版中、ローズベリー伯爵邸ダルメニー・ハウスEnglish版前で。一番手前に座る人物がローズベリー伯、中央で椅子に座る人物がグラッドストン

大学在学中の1868年に祖父の死去により襲爵した。襲爵した爵位の中には連合王国貴族ローズベリー男爵位があったため、1871年2月から貴族院議員に列する[3]

ローズベリーの名が広く知られるようになったのは、1879年に自由党ウィリアム・グラッドストンが行った「ミッドロージアン・キャンペーンEnglish版」によってであった。一連のベンジャミン・ディズレーリ政権批判においてローズベリーは資金提供と舞台演出を担当し、1880年総選挙English版での勝利に貢献した[5]

ファイル:Gladstone dancing with Lord Rosebery Wellcome V0050315.jpg
1880年総選挙English版の自由党勝利で歓喜のダンスを踊るグラッドストンとローズベリー伯の風刺画

選挙後発足した第2次グラッドストン内閣で1881年から1883年まで内務省政務次官English版を務めた後、1885年に王璽尚書建設長官English版として入閣した。1886年の第3次グラッドストン内閣では外務大臣として再び閣僚となった。

1890年に妻と死別してからしばらく政界から距離を置いていたが、ヴィクトリア女王らの説得もあって復帰し、1892年の第4次グラッドストン内閣で再度外務大臣に任じられた。外務大臣としての彼は、イギリスが占領下においていたエジプト王国からの撤兵に反対し、フランスドイツとの勢力争いの舞台となっていたウガンダの排他的支配を主張した。1893年に仏泰戦争English版でフランスがシャムに迫るとフランスとイギリスが衝突する可能性が高まったが、ローズベリーは硬軟合わせた交渉によりシャムを緩衝国として残すことで危機を解決した。また日清戦争後の1895年に起きた三国干渉では、イギリスは干渉に加わるべきでないと判断している[3]

首相

1894年3月にグラッドストンが引退すると、ヴィクトリア女王はローズベリー伯に大命を降した。一般には庶民院議員の財務大臣ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートが後任の首相になるものと思われていたが、ハーコートは態度が傍若無人なため、閣内で嫌われており、ハーコートを首相にすればただちに内閣が瓦解する恐れがあった。そのため女王はローズベリー伯に組閣の大命を与えたのだが、世論はそうした事情を知らなかったのでハーコートが理不尽に女王に退けられたと考え、ハーコートに同情を寄せた。そのとばっちりでローズベリー伯は政権発足直後から世論の冷たい目に晒される羽目になった[6]

ハーコートはローズベリー伯の内閣にも財務大臣として残留したが、彼はなにかにつけて首相ローズベリー伯に逆らった[7]。またローズベリー伯は自由党内の帝国主義者のグループ「自由帝国主義者」の領袖であり、「平和主義者」グラッドストンとは立場が違っていた[6]、グラッドストンが目指したアイルランド自治法案にも消極的であった[7]。そのためアイルランド議会党English版からの支持もグラッドストン時代ほど磐石ではなくなり、自由党内も急な方針転換に動揺した[7]。さらに保守党支配下の貴族院は彼らと思想が近い自由帝国主義者の貴族が首相になろうとも自由党政府の法案を葬り去ることに遠慮をしなかった[6]。唯一予算案のみは貴族院は否決しないのが慣例だったが、その分野では財務大臣ハーコートが累進性の相続税を導入して国民人気を博した。ローズベリー伯は相続税に消極的でハーコートと対立したのでその株はますます下がった[6]

ローズベリー伯は首相をやることにうんざりし、「私はゴミ捨て場のようなものさ。何かいいことがあれば皆自分にとっておき、嫌なことは全部私に押し付ける」と愚痴るようになった[8]

結局1895年6月に陸軍予算の火薬不足に関する法案が否決された件で陸軍大臣ヘンリー・キャンベル=バナマンが辞職を表明した際にローズベリー伯もそれに同調して総辞職を決定した。ここで強引に踏みとどまったところでウェールズ国教会問題で敗れるのがオチと判断したためだった[9]。こうしてローズベリー伯内閣は史上稀に見る弱体内閣として短期間で瓦解した[9]

野党自由党党首として

代わって首相となった保守党の第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは直ちに解散総選挙English版を行って勝利したので自由党は当面野党になる見通しとなった。

下野後も自由党党首を務めていたが、自由党庶民院院内総務ハーコートとの党内対立は続いた。ローズベリー伯はハーコートとの同席を嫌って影の内閣の会議にもあまり出席しなくなり、ハーコートが独断で党の方針を決定するということが増えていった[10]

そのような中の1896年10月にローズベリー伯はエジンバラで行った演説において突然党首辞職を表明した。表向きはアルメニア人虐殺事件をめぐって前党首グラッドストンが自分と異なる意見を述べたことを理由としたが、実際にはハーコートに対する当てつけであるのは明白だった。首相たる党首として14か月、在野の党首として18か月の在任だった。ローズベリー伯の辞職についてハーコートは「党首が去っても何も変わらんよ。自由党員が一人減っただけだ。お先真っ暗なので帽子を取ってサヨナラしたのだろう」と嘲笑的に語った[11]

党内影響力の低下

ファイル:Earl of Rosebery Vanity Fair 14 March 1901.jpg
1901年の『バニティ・フェア』誌に掲載されたローズベリー伯の似顔絵

ローズベリー伯の辞職後、ハーコートが自由党党首となったが、嫌われ者のハーコートでは党内をまとめられず、1898年暮れには彼も党首職を辞することを余儀なくされた。代わってヘンリー・キャンベル=バナマンが党首となった[12]

保守党政権が第二次ボーア戦争を開始するとローズベリー伯はハーバート・ヘンリー・アスキスリチャード・ホールデンEnglish版らとともに「自由帝国主義派」として政府の方針を支持し、ロイド・ジョージら戦争に反対する党内左派(「親ボーア派」と呼ばれた)と対立した[13]。当初自由帝国主義派が優勢だったが、ボーア戦争の戦況が泥沼化してくると党内の空気は親ボーア派に傾いていき、曖昧な立場をとってきた党首キャンベル=バナマンも親ボーア派寄りになっていった[14]

1902年初頭にローズベリー伯は自由党のアイルランド自治法案の方針に反対を表明し、アスキスやエドワード・グレイらとともに「自由連盟English版」を結成し、党首キャンベル=バナマンに対する公然の抵抗を開始した。この分裂騒動で自由党内は極度の混乱状態に陥った[15]

しかしちょうどこの年からローズベリー伯の党内権力が急速に低下した。特に1903年以降になると自由帝国主義派議員の中で最も重要な大物議員と見做される人物はローズベリー伯ではなく、アスキスになっていた[16]。その原因は第2次ボーア戦争の終結でもはや帝国問題が大きな争点にならなくなり、自由党内の最大の関心事項が植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンの関税改革論(保護貿易論)への批判に移ったため、自由帝国主義派と自由党左派の対立が自由貿易支持という共通の大義のもとに終息したことだった。この点においてローズベリー伯はあまりに親保守党政権的態度をとりすぎたため、チェンバレンの保護貿易論にも明確な反対の意思を打ち出せなかった(対してアスキスはチェンバレンの保護貿易論を徹底的に批判した)。これでは自由貿易を党是とする自由党内で影響力が落ちていくのも無理はなく、ローズベリー伯は自由帝国主義派の議員たちからも見捨てられてしまったのだった[16]

1904年11月にキャンベル=バナマンが「アイルランド自治法案を斬新的に進める」と宣言した時、ローズベリー伯はこれに反対を表明したが、かつての同志たちアスキス、グレイ、ホールデンらはいずれもキャンベル=バナマンの方針に支持を表明している[17]。すっかり孤立して党内権力を喪失したローズベリー伯は、政治家というより知識人層に訴えかける政治評論家的な存在と化していった[16]

晩年

1904年12月にキャンベル=バナマン自由党政権が発足したが、失脚者ローズベリー伯には何のポストも与えられなかった。ローズベリー伯はキャンベル=バナマン首相やその後任のアスキス首相に対して貴族院から批判を行った。1908年の「人民予算English版」に対しても反対票こそ投じなかったものの反発している。最後に議場に姿を見せたのは1911年議会法に賛成票を投じた時であった。

1911年7月には連合王国貴族爵位ミッドロージアン伯爵位を与えられた[1][2]

1916年挙国一致内閣を組織することになったデビッド・ロイド・ジョージはローズベリーに「高いポスト」を提示したが、辞退している。

1929年5月21日エプソムの自宅で死去し、ダルメニーEnglish版の教会墓地に葬られた。

人物・評価

彼は若くして爵位を継承したため、庶民院議員を経験することなく貴族院議員となっており(通常この時代の貴族は襲爵前に一族の影響下の選挙区から出て庶民院議員を務める)、19世紀末の首相としてはやや首相としての適性を欠いていたことが指摘される[6]

しかし彼は常に人々に親しく情をかけ、打ち明け話もするので広く人望があった。そのため傲慢な性格のウィリアム・ヴァーノン・ハーコートに比べれば明らかに党内に敵が少なかった[18]。これがグラッドストン引退後にヴィクトリア女王がハーコートではなく、ローズベリー伯に組閣の大命を与えた最大の理由である[6]

結局彼は政権も自由党党首の地位も党内の影響力も早期に失うことになったが、シドニー・ウェッブ(初代パスフィールド男爵)の妻であるパスフィールド男爵夫人ベアトリス・ウェッブEnglish版はその理由について「彼はただ面目のみを維持しようとしている。彼は経済的社会的害悪に無関心であり、またそれについての知識も有していない。」「ローズベリーは完全に勢力を喪失した。これはローズベリーがボーア戦争の実施に賛成したことと社会改良政策に対する彼の無知に原因している」と書いた[19]

栄典

爵位

1868年3月4日の祖父アーチボルド・プリムローズの死去により以下の爵位・準男爵位を継承した[1][2]

  • 第5代ローズベリー伯爵 (5th Earl of Rosebery)
    (1703年4月10日勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第5代ローズベリー子爵 (5th Viscount of Rosebery)
    (1700年4月1日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第5代インヴァーカイシング子爵 (5th Viscount of Inverkeithing)
    (1703年4月10日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第5代プリムローズ=ダルメニー卿 (5th Lord Primrose and Dalmeny)
    (1700年4月1日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第5代ダルメニー=プリムローズ卿 (5th Lord Dalmeny and Primrose)
    (1703年4月10日の勅許状によるスコットランド貴族)
  • 第2代ローズベリー男爵 (2nd Baron Rosebery)
    (1828年1月26日の勅許状による連合王国貴族爵位)
  • (キャリントンの)第9代準男爵 (9th Baronet "of Carrington")
    (1651年8月1日の勅許状によるノヴァスコシア準男爵位)

1911年7月3日に以下の爵位に新規に叙された[1][2]

  • 初代ミッドロージアン伯爵 (1st Earl of Midlothian)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)
  • バッキンガム州におけるメントモアの初代メントモア子爵 (1st Viscount Mentmore, of Mentmore in the County of Buckingham)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)
  • サリー州におけるエプソンの初代エプソン男爵 (1st Baron Epsom, of Epsom in the County of Surrey)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)

勲章

家族

1878年にローズベリーは、ユダヤ人銀行家メイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルド男爵の一人娘ハンナEnglish版ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの孫)と結婚した。ハンナは1874年に死去したメイアーから父の所領の大半を相続しており、イギリス有数の遺産相続人であった。2人を引き合わせたのは、ベンジャミン・ディズレーリ夫人メアリーEnglish版であった。

夫人との間に二男二女をもうけた。

出典

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 Heraldic Media Limited. “Rosebery, Earl of (S, 1703)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. . 2016閲覧.
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 Lundy, Darryl. “Archibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery” (英語). thepeerage.com. . 2016閲覧.
  3. 3.0 3.1 3.2 Wikisource-logo.svg {{#invoke:citation/CS1|citation |CitationClass=encyclopaedia }}
  4. テンプレート:Venn
  5. 神川信彦 2011, p. 265.
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 神川信彦 2011, p. 429.
  7. 7.0 7.1 7.2 中村祐吉 1978, p. 25.
  8. 神川信彦 2011, p. 430.
  9. 9.0 9.1 中村祐吉 1978, p. 27.
  10. 中村祐吉 1978, p. 28.
  11. 中村祐吉 1978, p. 28-29.
  12. 中村祐吉 1978, p. 29.
  13. 中村祐吉 1978, p. 29-30.
  14. 中村祐吉 1978, p. 30-31.
  15. 中村祐吉 1978, p. 31.
  16. 16.0 16.1 16.2 坂井秀夫 1967, p. 331.
  17. 中村祐吉 1978, p. 35.
  18. 中村祐吉 1978, p. 24-25.
  19. 坂井秀夫 1967, p. 338.

参考文献

  • 神川信彦 『グラッドストン 政治における使命感』 吉田書店、2011年。ISBN 978-4905497028。
  • 坂井秀夫 『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』 創文社、1967年。
  • 中村祐吉 『イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇』 集英社、1978年。
  • 『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』 秦郁彦編、東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。

外部リンク

公職
先代:
レオナルド・コートニーEnglish版
イギリスの旗 内務省政務次官English版
1881年-1883年
次代:
J.T.ヒバートEnglish版
先代:
ジョージ・ショウ=レフィブレEnglish版
イギリスの旗 建設長官English版
1885年
次代:
デイヴィッド・プランケットEnglish版
先代:
初代カーリングフォード男爵
イギリスの旗 王璽尚書
1885年
次代:
第3代ハーロウビー伯爵English版
先代:
第3代ソールズベリー侯爵
イギリスの旗 外務大臣
1886年
次代:
初代イデスリー伯爵
先代:
(新設)
20px ロンドン参事会議長English版
1889年 - 1890年
次代:
サー・ジョン・ラボック準男爵
先代:
サー・ジョン・ラボック準男爵
20px ロンドン参事会議長English版
1892年
次代:
ジョン・ハットン
先代:
第3代ソールズベリー侯爵
イギリスの旗 外務大臣
1892年-1894年
次代:
初代キンバリー伯爵
先代:
ウィリアム・グラッドストン
イギリスの旗 第48代首相
1894年-1895年
次代:
第3代ソールズベリー侯爵
先代:
初代キンバリー伯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1894年-1895年
先代:
初代キンバリー伯爵
イギリスの旗 枢密院議長
1894年-1895年
次代:
第8代デヴォンシャー公爵
党職
先代:
ウィリアム・グラッドストン
自由党党首
1894年-1896年
次代:
ウィリアム・バーノン・ハーコート
先代:
初代キンバリー伯爵
自由党貴族院院内総務English版
1894年-1896年
次代:
初代キンバリー伯爵
名誉職
先代:
第6代ホープトン伯爵English版
リンリスゴー総督English版
1873年-1929年
次代:
第2代リンリスゴー侯爵
先代:
第5代バクルー公爵
ミッドロージアン総督English版
1884年-1929年
次代:
第6代ローズベリー伯爵English版
スコットランドの爵位
先代:
アーチボルド・プリムローズ
23px 第5代ローズベリー伯爵
1868年-1929年
次代:
ハリー・プリムローズEnglish版
イギリスの爵位
先代:
(創設)
23px 初代ミッドロージアン伯爵
1911年-1929年
次代:
ハリー・プリムローズEnglish版

テンプレート:イギリスの外務大臣