アブデュルハミト2世
アブデュルハミト2世(II. Abdülhamid, 1842年9月21日 - 1918年2月10日)は、オスマン帝国の第34代皇帝(在位:1876年 - 1909年)。第31代皇帝アブデュルメジト1世の子で、第33代皇帝ムラト5世は兄、第35代皇帝メフメト5世、第36代皇帝メフメト6世は弟に当たる。
生涯
即位と憲法発布
1876年、叔父アブデュルアズィズがミドハト・パシャによってクーデターで廃され、その後を継いだ兄のムラト5世も精神疾患ですぐに退位したため、新皇帝として擁立された。兄と共に叔父の西欧訪問に随行した経験を持つが、皇子時代のムラト5世が「新オスマン人」と呼ばれる立憲派と積極的な関わりを持ったのに対し、アブデュルハミト2世は逆に距離を置いていたといわれる。このため、開明的な人物であるという評判もあったものの、その政治姿勢や手腕は全くの未知数の人物であった。
アブデュルハミト2世が即位した当時、オスマン帝国はバルカン半島での諸反乱を巡りロシアとの関係が悪化しつつあった。そのため、諸外国の支持を取り付けるためにもさらなる近代化改革を行う意志を内外に示す必要に迫られていた。
これにより、帝国では憲法を制定されることとなり、ミドハト・パシャを制憲委員会の委員長、ついで大宰相に任命して12月23日にオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)の発布にこぎつけた。憲法ではムスリム(イスラム教徒)と非ムスリムの平等が定められ、勅選の上院と民選の下院からなる議会も開設された。
こうして、オスマン帝国における第一次立憲制が始まったものの、アブデュルハミト2世は叔父がクーデターで廃位された経験から皇帝権を強化したい意向を持っており、憲法によって皇帝権が制限されることに強い警戒感を抱いていた。このため、憲法には戒厳令の発令や危険人物の国外追放といった、強い君主大権が残された[1]。
露土戦争と憲法の停止
1877年4月、即位して間もない頃に露土戦争が始まる。戦争はオスマン帝国の敗北に終わり、翌1878年のロシアとの講和条約(サン・ステファノ条約)でセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立とブルガリアへの自治権付与を認めざるを得なくなってしまう。
ただし、このような状況はヨーロッパ各国のロシアの南下政策に対する警戒感を招き、改めて戦後処理と調整の場としてベルリン会議が開催されることとなった。会議の結果、マケドニアはオスマン帝国に返還されることになったものの、オスマン帝国がバルカン半島における領土の多くを失ったことに変わりはなく、帝国の重心は徐々にアナトリアに移ることになる。
既に開戦前の1877年2月にミドハト・パシャは憲法の君主大権に基づいて大宰相を罷免され、国外追放に処されていた(後に逮捕・処刑される)。また、1877年3月に開会された議会では、オスマン帝国にとって不利な戦況に対して容赦のない政府への批判が繰り返された。1878年2月、これらの批判に業を煮やしたアブデュルハミト2世は非常事態を口実に憲法を停止し、議会(下院)も閉鎖してしまう。こうして第一次立憲制は終焉をむかえ、以後30年に及ぶ専制体制が始まることになる[2]。
専制政治の展開
ミドハト・パシャの失脚後、イスタンブールのユルドゥズ宮殿に引き籠もったアブデュルハミト2世は皇帝による専制政治の強化を行ない、秘密警察(ハフィエ)を結成して密告を奨励する。さらに、国民の不満を抑えるために軍部を利用して厳しい弾圧を行ない、不正規軍ハミディイェの設立も行った。
アブデュルハミト2世の治世中における弾圧で殺された者は数知れず、ある時は血が河になったこともあったとまで言われている。このため、「赤い流血の皇帝(Kızıl Sultan)」と称されて恐れられた。
一方で、アブデュルハミト2世は汎イスラーム主義的な宣伝にも努め、ジャマールッディーン・アフガーニーやミールザー・アーガー・ハーン・ケルマーニーをイスタンブールへ招聘し(後にアフガーニーを監禁・獄死に追いやる)、イスタンブールのペルシャ語日刊紙『アフタル』(ペルシア語: اختر - Akhtar)の報道をきっかけにタバコ・ボイコット運動を勃発させてガージャール朝をタバコ・ファトワーなどで非難し、1889年にエルトゥールル号を東洋へ派遣するなど、オスマン帝国外ではカリフとしての威信をある程度高めることに成功した[3]。
また、対外戦争では、露土戦争で敗北したものの、1897年のギリシャとの戦争(希土戦争)では勝利を収めている。また日本が明治維新後目覚ましい近代化を推進したことに共感を持ち、1881年に使節団を率いて訪問した吉田正春、1892年にエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けに訪れた山田寅次郎(後の宗有)を出迎え、アブデュルハミト2世自身は明治天皇を評価していた。
しかし、アブデュルハミト2世は厳しい独裁政治・恐怖政治を敷いたことから、遂に国民の不満は爆発し、 1908年、立憲政治の復活を求める統一と進歩委員会(青年トルコ党)のエンヴェル・パシャら(後のムスタファ・ケマル・アタテュルクも参加していた)による革命という形で現われたのである[4]。
退位
統一と進歩委員会による青年トルコ人革命が起きると、アブデュルハミト2世は要求を受け入れ、ひとまず憲法の復活を宣言した(第二次立憲制)。しかし、翌1909年に「3月31日事件」と呼ばれる反革命クーデターが起こったことで、この動きへの皇帝の関与を疑った統一と進歩委員会は皇帝の廃位を決め、議会で廃位を決議した。
こうして、アブデュルハミト2世は、オスマン帝国史上初の議会で廃位を決議された皇帝となった。この決議はシェイヒュルイスラームの承認を得た上で実行に移され、後継の皇帝に弟のメフメト・レシャト(メフメト5世)が擁立された。
廃位後はサロニカに幽閉されていたが、1912年にバルカン戦争でサロニカを失ったためイスタンブールへ戻ることを許され、同地で1918年2月10日に77歳で死去した[5]。
死後
7月3日にメフメト5世も亡くなった後、弟のメフメト6世が即位したが、1922年にトルコ革命で廃位され、オスマン帝国は実質的に消滅した。同年にカリフとなった従弟のアブデュルメジト2世もまた、1924年にカリフ制の廃止で他のオスマン家一族共々トルコを追放された。
孫のメフメト・オルハン、エルトゥールルはそれぞれオスマン家の家長となり、エルトゥールルは2004年にトルコ共和国のパスポートを取得してトルコへ帰国、オスマン家は半世紀ぶりにトルコ帰国を果たした(ただし、エルトゥールルは1992年に一時的にトルコに戻っている)。
対日外交
1887年の小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応え、1890年、オスマン帝国海軍エルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行が来日し、6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団となった。ただし軍艦に疫病が発生したうえ、帰途には樫野埼灯台付近で遭難し、大きな犠牲が支払われた(エルトゥールル号遭難事件)。
脚注
- ↑ 山内、P210 - P213、パーマー、P218 - P226、永田、P302 - P304、新井、P169 - P172。
- ↑ 山内、P213 - P216、パーマー、P226 - P251、永田、P304 - P307、新井、P172 - P179。
- ↑ 山内、P238 - P247、P293 - p295、パーマー、P252 - P268、永田、P307 - P308、新井、P184 - P188。
- ↑ 山内、P403 - P409、パーマー、P269 - P309、永田、P316 - P320、新井、P195 - P196。P232 - P233。
- ↑ 山内、P409 - P410、パーマー、P310 - P321、P328 - P329、P352、永田、P220 - P222、新井、P233 - P236。
参考文献
- 山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論社、1996年。
- アラン・パーマー著、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論社、1998年。
- 永田雄三編『新版 世界各国史9 西アジア史』山川出版社、2002年。
- 新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年。
関連項目