ルーマニア革命 (1989年)
ルーマニア革命 Revoluţia română | |
---|---|
戦争: 東欧革命 | |
年月日: 1989年12月16日 - 26日 | |
場所: ルーマニアの旗 ルーマニア(ルーマニア社会主義共和国) | |
結果: 共産党政府の崩壊、ニコラエ・チャウシェスクの処刑 | |
交戦勢力 | |
[[ファイル:テンプレート:Country flag alias ROM1989|border|25x20px|テンプレート:Country alias ROM1989の旗]] 反政府勢力 | ルーマニアの旗 共産党政府 |
戦力 | |
損害 | |
ルーマニア革命(ルーマニアかくめい、ルーマニア語: Revoluţia română)は、1989年12月、ルーマニア社会主義共和国のニコラエ・チャウシェスク書記長政権が打倒され、現在のルーマニアが樹立された一連の出来事である。反チャウシェスク派によるクーデターと見ることができるためルーマニア政変とも言われる。
概要
1989年、東ヨーロッパ各国の共産党政府が相次いで打倒された東欧革命において唯一、武力により共産党政権が打倒された。
ルーマニア共産党書記長のニコラエ・チャウシェスクが命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相のワシーリ・ミリャの急死(銃撃による死亡)をきっかけに、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し、治安部隊との武力衝突に陥った。革命軍は1週間で全土を制圧してチャウシェスクを処刑し、非共産党政権を樹立した。
前史
1945年5月8日の敗戦によってルーマニア王国が崩壊し、ソビエト連邦軍の占領下で、ルーマニア共産党による一党独裁国家であるルーマニア社会主義共和国が成立した。
ルーマニア社会主義共和国は、他の東欧諸国とは一線を画し、ソビエト連邦とも一定の距離を維持する独自外交を行っていた。これはルーマニアが産油国であり、ソビエト連邦に依存しなくても独自に外貨獲得やエネルギー資源の確保が可能だったためである。ソ連や近隣諸国の影響力を排除した結果、国内におけるチャウシェスクの求心力は高まり、「チャウシェスク王朝」とも言われた個人独裁体制を確立した。
しかしながら、1980年代に入ると経済政策に失敗し、国内経済の疲弊が始まった。対外債務の返済のために飢餓輸出が強行された結果国民の生活水準は低下したが、その一方でチャウシェスク自身は国民の館と呼ばれる豪華な宮殿を建設し、一族を要職に就けるなど国民生活を無視するような政治を続けたためにルーマニア国民の間では独裁政権に対しての不満が日増しに強くなった。こうした状況の中で、1989年に入り中国で六四天安門事件が起こり、東欧でもポーランドを皮切りに各国の共産党政権が次々と倒れると、ルーマニアでも次第に民主化を求める機運が高まっていった。
これに対してチャウシェスクは情報統制と反政府勢力の弾圧強化を図り、民主化運動への一切の妥協を拒否すると共に政権の維持に固執した。
革命の推移
発端
- 1989年12月16日 - ルーマニア西部の都市ティミショアラで民衆によるデモが発生。治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る。
- このデモは人権活動家でハンガリー改革派教会の牧師テケーシュ・ラースロー(ラースロー・テケーシュ)(en)への国外退去処分に対するハンガリー系住民による抗議デモであった。
- ティミショアラを含むルーマニア西部(バナート地方)はハンガリー国境に近く、1919年のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊するまでハンガリー王国の領域であった。ルーマニアに留まったハンガリー系住民に対する政府の扱いはあまり良いとは言えず、ハンガリー人であるラースローの国外退去処分への抗議とともに待遇改善を求めてデモを起こしたのであった。
勃発
- 12月21日 - 首都ブカレストで官製集会の最中に爆発事件が発生する。
- ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会が開催された。チャウシェスクの演説が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾を2つ爆発させた(実行犯は警察により射殺された。10代の若者2人が爆竹を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い)。広場はパニック状態に陥り、集会は強制的に解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送で生中継されていたがチャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見てたじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された(その後、放送は再開された)。
- 集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかしこの政治集会に対しても治安警察が発砲、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが、車両で抗議集会の妨害をする程度にとどまり、直接市民を殺傷することはなかった。市民の政権に対する不満は頂点に達した。
- この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防相ワシーリ・ミリャに対し軍隊による群集への発砲を指示した。しかしミリャはこの命令を拒否、チャウシェスクの逆鱗に触れ、その後ミリャは自室で死体となって発見された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防相が自殺した」と報じたものの市民には「処刑された」との噂が広まった。軍首脳の中にも国防相処刑説が広がり、大統領に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(ルーマニア共産党本部等)の占拠が始まった。
混乱と逃亡
- 12月22日 - 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及びチャウシェスクはブカレストから脱出し政権は崩壊、反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織しテレビ、ラジオ局を掌握した。これにより「国営ルーマニア放送」から「自由ルーマニア放送」と改称される。
- チャウシェスクは非常事態宣言を出し事態に対応しようと試みるが国軍が革命勢力に参加したことで頓挫、妻のエレナと共にヘリコプターでの脱出を図った。しかし一連の逃亡劇は反体制側に転じた自由ルーマニア放送他、世界各国のマスメディアで映像が流されるお粗末なものであった。
- 一見盤石な支配体制を築いていたと思われていたチャウシェスクは、この逃亡劇において多くの裏切り行為に遭った。ヘリコプターパイロットのマルタン中佐はわざと機体を上下に揺らして「レーダーに捕捉され、対空砲火を受けた」と嘘をついて夫妻の逃亡をあきらめさせようとした。離陸したチャウシェスクは陸路への逃亡を試み、車を運転していた地元の医師のニコラエ・デカを脅して逃亡を手伝わせた。しかし、革命を知っていたデカは面倒ごとに巻き込まれたくないと思ってエンジントラブルを装ってすぐに一行を下ろした。再び一行は車を洗車していた工場労働者のニコラエ・ペトリソルを脅し、トゥルゴヴィシュテへ向かった。走行中チャウシェスクはラジオで情報収集を試みたが、すでにメディアが救国戦線に乗っ取られたことを悟ると激高したという。ペトリソルは街のはずれにある農業施設まで彼らを案内し、所長は匿うふりをして一行を一室に案内して監禁し、近くに駐屯していた軍(デカの通報を受けて事前に情報をつかんでいた)に身柄を引き渡した。[1]
- その後、首相のコンスタンティン・ダスカレスクは辞任、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権時に政権批判をし投獄されていた政治犯も釈放された。その後、夜になるとブカレスト市内各地で反体制派の軍隊と大統領派の治安警察による激しい銃撃戦(市街戦)が発生。多数の死傷者が出た。
- 12月23日 - 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用し国軍、市民への発砲を続ける。救国戦線評議会は発砲してくる大統領派を「テロリスト」と呼び市民に協力を要請、大統領派の掃討に出る。また市民も銃をとり大統領派に応戦する。混乱により情報が錯綜する中、ハンガリーから軍の派遣要請の連絡を受けるがこれを拒否。また、ソ連(ソ連軍)が事態の沈静化の為に介入するがこれも拒否する。そして救国戦線(国軍)によりチャウシェスク夫妻が逮捕され18時、自由ルーマニア放送(テレビ)で報道された。
崩壊
- 12月24日 - ブカレスト市内の市街戦は依然として続く。また、大統領派の逮捕も相次いでいく。
- 12月25日 - チャウシェスク夫妻が拘禁されていた軍事基地で特別軍事法廷が開かれ、夫妻は大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行された。
- 救国戦線は当初軍事裁判ではなく、ブカレストに夫妻を連行して通常裁判を実施する予定であったが、秘密警察が基地に攻撃を仕掛け、激しい銃撃戦が展開された。夫妻が奪回されることを恐れた救国戦線は、対応を急いだのであった。また生存説が流布される事を危惧した救国戦線は、処刑された夫妻の死体の映像をメディアに公開した。
- 12月26日 - 救国戦線評議会が新指導体制を発表し、暫定政権を樹立。同日、チャウシェスク夫妻の処刑が発表される。これを機に大統領派の抵抗も終息していく。
革命後
チャウシェスクの処刑とルーマニア共産党政権の崩壊を受け、暫定的な救国戦線評議会による革命政権を経て、1990年5月20日にルーマニアで初となる多数政党制による自由選挙が行われ、政党に衣替えした救国戦線が勝利を収めた。また後に国民による投票としては初めての大統領選挙が行われイオン・イリエスクが大統領の座に就いた。
他の東欧諸国では、自由選挙の下で多かれ少なかれ旧共産党が議席を獲得したが、ルーマニアでは革命後に共産党が消滅し、共産党そのものが一時期非合法となった。ルーマニア共産党関係者のなかには、救国戦線に参加して政治生命を保った者がいる一方で、「社会主義労働者党」という政党が共産党の後継政党を称したが、広く支持を得るには至らなかった。
脚注
- ↑ George Galloway and Bob Wylie, Downfall: The Ceaușescus and the Romanian Revolution