岡本太郎
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岡本 太郎 | |
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生誕 |
1911年(明治44年)2月26日 日本 神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子) |
死没 |
1996年(平成8年)1月7日(満84歳没) 日本 東京都新宿区信濃町35(慶應義塾大学病院) |
国籍 | 日本 |
教育 |
東京美術学校(現・東京芸術大学)中退 パリ大学哲学科履修 |
著名な実績 | 絵画、彫刻、陶芸、書道、写真 |
代表作 | 『傷ましき腕』、『重工業』、『明日の神話』、『マミ会館』、『太陽の塔』、ほか |
運動・動向 | 抽象美術、シュールレアリズム、原始美術 |
受賞 | 芸術文化勲章(フランス。1984年、1989年) |
この人に影響を 与えた芸術家 | 岡本一平・岡本かの子(父母)、マルセル・モース、パブロ・ピカソ、ミルチャ・エリアーデ、ディエゴ・リベラ、ダビッド・アルファロ・シケイロス |
この人に影響を 受けた芸術家 | ゲルダ・タロー |
岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)
洋画家。岡本一平,岡本かの子の一子。 1929年東京美術学校に入学,同年末両親とともに渡欧,11年間パリに滞在。 31年ピカソの作品に感化されてサロン・デ・シュルアンデパンダンに『傷ましき腕』 (1936) を出品,37年まで抽象美術のグループ「アブストラクシオン・クレアシオン」に参加。 36年神秘主義と政治革命を目指す「社会学研究所」に加わる。この間パリ大学で哲学,社会学,民族学を修め 39年卒業。 40年に第2次世界大戦の戦局悪化のためパリを逃れて帰国。 41年二科会に入り (61年脱退) ,42年応召,中国で転戦。戦後は前衛派の主流として花田清輝,野間宏らと前衛芸術を推進し,原色図形などによる作品を発表。
60年代以後,各国の国際展に出品して海外でも評価を得る。また,評論家としても活躍するほか,舞台装置,モニュメントの制作,メダル,織物,家具のデザインを手がけ,70年の日本万国博覧会ではテーマ展示プロデューサーをつとめ,『太陽の塔』を設計し話題となった。その他の主要作品はパリ国際センター会議場の大壁画(75) 。主著『日本再発見』 (58) ,『忘れられた日本』 (61) ,『美の呪力』 (71) など。