末次元康
末次元康 | |
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時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄3年(1560年) |
死没 | 慶長6年1月13日(1601年2月15日) |
主君 | 毛利輝元 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 毛利氏→末次氏→椙杜氏→厚狭毛利家 |
末次 元康(すえつぐ もとやす)は、安土桃山時代の武将。毛利氏の家臣。毛利元就の八男。
生涯
永禄3年(1560年)、安芸国吉田庄にて安芸国の戦国大名・毛利元就の八男として誕生。
元就に出雲国末次庄(所領2400貫)の末次城を与えられたことから名字を末次と称した。また、椙杜氏に養子に入っていた同母兄の元秋の跡を継いで椙杜氏の家督を継いだともされる。
天正4年(1578年)に兄・吉川元春に従い因幡国宮石城を攻め初陣の功名をあげた。天正13年(1585年)、毛利氏が四国攻めに参加した隙に南条直秀に伯耆国河原山城を奪われた際には、同城を奪還し戦功を讃えられた。同年、急死した同母兄の毛利元秋の家督を相続し出雲月山富田城主となった。天正19年(1591年)に豊臣秀吉が吉川氏当主の吉川経言(広家)に月山富田城への移封を命じたため、元康は備後国の神辺城へと移された。
文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役にも主君・毛利輝元の名代として朝鮮に出陣している。碧蹄館の戦いでは明軍に攻め込み敵兵1000人余りを打ち取って勝利の発端を作るなど大きな戦功を立て、豊臣秀吉から感状を送られる。また、文禄4年(1595年)には従五位下に任じられ、豊臣姓を与えられている(村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」『駒沢史学』80号)。文禄の役後の慶長3年(1598年)に瀬戸内海に接する小さな半島上に王子山城を築城し、居城を神辺から移した。嫡男・毛利元宣はこの城で生まれている。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、専横を極める徳川家康と、石田三成や宇喜多秀家らが対立すると、毛利家中はどちらに味方するか大いに揉めた。そのため、元康は家中の収拾に当たりながら、輝元の命を受け、元康は堅田元慶らと藤堂高虎、加藤嘉明の所領であった伊予国の住人・久枝又左衛門に内応するように書状を送る等、積極的な内応工作にも従事していた。
関ヶ原の戦いでは、前哨戦の伏見城攻撃に加わり、伏見城落城後には西軍の大将として15000人の軍勢を率い京極高次の篭る大津城を攻めた(大津城の戦い)。元康は本陣を長等山に置き、ここから立花宗茂の軍勢と連携して大砲で城内に攻撃を加えた。9月13日には総攻撃を開始し、堀を埋め、三の丸、二の丸を落として本丸に迫り、9月15日には城主京極高次を降伏させるが、この日は関ヶ原の本戦当日であり、結局、本戦には間に合わなかった。主力の敗北を伝え聞いた元康らは、大坂城に戻り抗戦の準備を進めたが、輝元の意向により、大坂城を退去して帰国した。
戦後は毛利氏の減封により長門国厚狭郡に10,500石を与えられ、子孫は長州藩一門家老厚狭毛利家となった。
慶長6年(1601年)に大坂木津の毛利宿陣で病死した。享年42。
元康と元安橋
広島市内に架かる元安橋は、元康に因んで命名された物である。この橋は毛利輝元による広島築城に際して架橋された。元康とこの橋との関係は、彼自身が架橋を指揮したという説、あるいは彼の屋敷に続く通りに架橋されたとする説がある。この橋の架かる川が、元安橋にちなんでやがて元安川と呼ばれたため、元康は間接的に川の名にも関わっている。