細川勝益

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細川 勝益(ほそかわ かつます、生年未詳 - 文亀2年6月4日1502年7月8日))は、室町時代から戦国時代にかけての武将細川遠州家当主および土佐守護代細川頼種の子孫にあたる。通称は三郎。官位は治部少輔遠江

生涯や事績

細川氏一門・細川持益(もちます)の嫡子として生まれる。この正確な年はわかっていないが、(名前)から元服時に室町幕府第7代将軍足利義勝偏諱(「勝」の字)を受けたことがわかる。

応仁元年(1467年12月7日、父・持益の死去に伴い、祖父・満益(みつます)の代より世襲してきた土佐守護代を継承、同国守護であるが在京中の細川京兆家(細川本家)当主・細川勝元の代官として現地入りする。しかし、同年に応仁の乱が勃発すると、勝元が大将を務める東軍への加勢のため上洛(上京)して参戦する[1]。このため、土佐に不在の間に在地領主の台頭が目立つようになる。

戦乱の最中にあった文明3年(1471年)、上洛してきた下総国出身の僧、日祝に対し、南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通に至る広い寺地(40ほど)を寄進。2年後にはこの地に頂妙寺が開山し、明応4年(1495年)、勝益の更なる土地寄進(現在の京都市中京区辺り)により寺域が拡大。

戦乱がおさまってからは土佐に戻り、文亀元年(1501年)には土佐田村荘(居城である田村城の南西)に曾祖父・細川頼益(よります、頼種の孫)追善のための桂昌寺[2]を建立して、土佐守護代・細川氏の権威を保とうと試みた。

その翌年の6月4日に死去。跡を継いだ息子の細川政益(まさます)が土佐守護代となるが、永正4年(1507年)に京兆家当主の細川政元(勝元の子)が暗殺される(永正の錯乱)と、子(弟とも)の国益(くにます)とともに上京し[1]、やがて土佐は守護代不在の地となった[1]

関連項目

参考外部リンク

脚注・出典

  1. 1.0 1.1 1.2 『長宗我部三代記: 四国制覇の夢』(著:羽生道英、PHP研究所版)より。電子版はこちらより。
  2. 桂昌寺は後に徳川綱吉(江戸幕府第5代将軍)の母・桂昌院と字が重なるのを憚って細勝寺と改称している。「細」、「勝」の字は益が由来なのだという。