大陸軍 (フランス)
La Grande Armée 大陸軍 | |
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100px | |
期間 | 1805–1815 |
国籍 | フランス帝国 |
規模 | 685,000名 (1812年6月) |
主な戦歴 | 第三次対仏大同盟 |
指揮 | |
現司令官 | 20px ナポレオン 20px ミュラ ランヌ ベルティエ ネイ ダヴー ベルナドット スールト マッセナ スーシェ ヴィクトル オージュロー ルフェーヴル モルティエ ベシェール ウディノ マルモン |
表・話・[ 編]・[ 歴] |
大陸軍(仮名:だい・りくぐん|仏語:Grande Armée)は、フランス第一帝政下の陸軍組織であり、ナポレオン1世が命名したフランス兵を中核とする軍隊の名称である。1805年8月29日に発足した。いわゆるナポレオン軍であり、ナポレオン戦争の中心的軍隊となった。
その前身は1804年に大西洋沿岸軍(Armée des côtes de l'Océan)の名で編制された方面軍であり、イギリス本土侵攻を目的にドーバー海峡に面するブローニュに配置されて総勢18万の兵員で構成されていた。しかし、翌1805年にナポレオンはイギリス上陸作戦が実は困難な事を悟らされて目標の変更を迫られていた。折りしもイギリスとオーストリアの間で第三次対仏大同盟が結成された事でその口実を得たナポレオンは、同年8月29日から大西洋沿岸軍を内陸部のライン川に向けて進軍させ、同日の参謀長ベルティエに宛てた手紙の中で始めて「Grande Armée」という言葉を使っている。この時から大西洋沿岸軍は大陸軍に改称したと見られ、以後はヨーロッパ大陸全域を管轄にして戦う事になった。
1805年にオーストリア、ロシアと交戦した後も、1806~1807年のプロイセン、ロシアとの戦い、1808年から1814年までのスペイン半島戦争、1809年のオーストリアとの決戦、1812年のロシア遠征の各戦役においても大陸軍の名称が使われていた。ナポレオンの方針で諸外国の部隊と外国人兵士が積極的に加えられていた事も特徴であり、1812年夏にピークを迎えた兵員数は685,000名を数えて事実上の多国籍軍隊となった[1]。ロシア遠征の敗北後もナポレオンは新たな兵員を徴集して大陸軍を立て直し、1813年のドイツ戦役、1814年のフランス防衛戦、そして1815年の百日天下まで死闘を繰り広げた。なお、1815年時の名称は北方軍(Armée du Nord)だった。
Contents
組織構造
皇帝軍事本営
大陸軍(グランダルメ)は事実上皇帝ナポレオンが直率する軍隊であり、その指揮統率を助ける側近達は皇帝軍事本営(Maison militaire de l'Empereur)としてまとめられていた。この組織は皇帝の身の安全を保証しその戦争指導を支え各軍への指示伝達を円滑化する為の統帥機関であり、侍従武官と幕僚本部と皇帝近衛隊指揮官で構成されていた。国家予算の1割強を消費しており皇帝近衛隊の維持費はまた別枠だった。常にナポレオンと従軍を共にし親征地の最前線にもそのまま移動した。
侍従武官(Aides-de-camp de l'Empereur)は戦場におけるナポレオンの最側近であり作戦立案と指揮統率を助けていた。その職務は柔軟かつ多岐に渡った。任命されたのはナポレオンに忠実で特にイタリアとエジプトで共に戦った経験を持つ歴戦の高級将校達だった。宮殿総監(Grand maréchal du palais)は宮廷内の警護を担当し、馬事総監(Grand écuyer)は戦場での警護を担当した。この両名は軍事作戦中の外交交渉を担当する事も多かった。侍従武官は全期間を通して合計37人が任命されたが一度の在任者は12名までに限られていた。彼らはそれぞれが秘書を持ち自身の職務を助けさせた。
参謀総監(Major général)は、幕僚本部(État-major général de l'armée)の統括者であり、各種専門スタッフをまとめる他、ナポレオンから発せられた戦争指導を具体的な命令書に書き表して各司令官に伝達する事務統括の役目を果たした。大陸軍の参謀長(Chef d'état-major)と同義であり、ルイ=アレクサンドル・ベルティエがほぼ全期間を通して在任していた。
軍団と師団
17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパの軍隊は、封建制度特有の事情で極めて集権的な組織構造になっており、一人の軍司令官が長大な隊列の進退を決めて衝突した敵と順次交戦していく運用法が標準となっていた。封建領地ごとに連隊(régiment)が組織され、戦争時は複数個の連隊が合同して旅団(brigade)を形成し、旅団は長大な隊列の一部分となった。
革命期のフランス軍は共和制に移行した軍隊内情の変化により、従来にはない軍事制度の改革に取り組める余地が生まれたので、それまでの長大な隊列を機能的に分割して独自の行動権限を持たせた師団と、各師団を有機的に結合し高度な連携を可能にした軍団の編制単位が考案される事になった。師団(division)はフランス第一共和政の陸軍大臣ラザール・カルノーによって1793年から1794年にかけて整備され、軍団(corps d'armée)は時の第一執政ナポレオン・ボナパルトによって1800年に誕生した。複数の軍団に分けて運用された大陸軍(グランダルメ)は従来にはない軍隊の多元的な活動を実現してヨーロッパ大陸を席巻するに到った。
各編制単位
軍団
- 軍団は歩兵軍団(corps d'infanterie)とも呼ばれ、その兵員数は10,000名から50,000名と幅広く平均20,000名前後であり、標準構成は3個歩兵師団+1個軽騎兵師団+大砲44門であった。歩兵軍団は1805年に7個、1813年に14個存在した。ロシア遠征までは騎兵予備集団(corps de réserve de cavalerie)が全重騎兵師団を一括管理していたが、1812年に3個の騎兵軍団(corps de cavalerie)に分割された。その兵員数は約10,000名で概ね4個騎兵師団+大砲30門で構成された。1813年以降の騎兵軍団は小規模化して6個となり、兵員数は約4,000名で標準構成は2個騎兵師団+大砲12門となった。
- 軍団長は副官5名と幕僚部(état-major)と兵站部(parc)と予備砲兵(réserve d'artillerie)と工兵部(génie)を持った。副官には私設副官(aide-de-camp)と公式副官(adjudant)がおり後年は後者のみとなった。幕僚部は各種専門スタッフのグループで参謀長(chef d'état-major)が統括した。憲兵もここに在籍した。軍団、師団は司令官(commandant)と参謀長の二人三脚で運営されていた。兵站部は軍需品を積んだ荷馬車群の集合場所で砲兵部署(parc d'artillerie)と輜重部署(parc des équipages)に分かれており、木工職人や鍛冶職人もここで活動した。大砲10~20門からなる予備砲兵は砲兵指揮官(chef de l'artillerie)が管理し、また配下の師団砲兵(6~8門)も管理下に置いた。工兵部は概ね3個工兵中隊からなり工兵指揮官(chef du génie)が率いた。この軍団長+スタッフ達には2個騎兵大隊(400名)が護衛として随伴した。
師団
- 師団は一つの戦場または広大な戦場の一区域を受け持つ戦術面の基本単位であり、歩兵師団(division d'infanterie)と騎兵師団(division de cavalerie)に分類された。歩兵師団の兵員数は5,000名から10,000名で徒歩砲兵の大砲8門が標準で付いた。騎兵師団の兵員数は2,000名から4,000名で騎馬砲兵の大砲6門が標準で付いた。歩兵師団は大抵3~6個の歩兵連隊と1個の徒歩砲兵中隊で構成され、騎兵師団は概ね2~4個の騎兵連隊と1個の騎馬砲兵中隊で構成された。
- 師団長は副官3名と参謀長が統括する幕僚部を持ち、1個騎兵大隊(200名)が護衛として随伴した。軍団のものより小規模な師団の幕僚部(état-major)には砲兵中隊士官と、軍需品を積んだ荷馬車を各連隊に捌く輜重士官(officier des équipages)や野戦病院を設置する衛生士官(officier de santé)などの他、旅団長も在籍した。また、前線での必要に応じて配下連隊が持つ各荷車を集めて一括保管する兵站部(parc)が設けられる事もあった。
歩兵旅団+連隊+大隊+中隊
- フランス軍の旅団(brigade)は言わば戦場専用の編制単位となり、旅団長は副官2名を持つのみで、師団配下の連隊1~3個の指揮権を与えられ、その各連隊が擁する各大隊を戦場で動かす役割だった。大抵は連隊2個分の大隊の戦場運用をまかされた。結果的に師団は2~3個の旅団を持つ事になった。
- 大隊(bataillon)は戦場での基本行動単位であり、定員は800~1,000名だが従軍中の消耗で実際は500名程度の事が多く、戦場に展開される長大な隊列および陣形は基本的にこの大隊が組む戦闘隊形を連結して形成された。中隊(compagnie)は配膳を共にする兵営生活の基本単位であり定員は120~140名だが実際はその6~8割程度の事が多く、これが複数集まって大隊を形成した。
- 連隊(régiment)は軍隊管理の基本単位であり各県ないし郡ごとに設置され、地元の人口情勢に応じて2~6個大隊を編制して管理した。大きな戦場での大隊運用は師団長ないし旅団長に一任されたが、旅団が無く師団長が一括運用しない時は連隊長が保有大隊を動かした。連隊長は運営スタッフを持ち、戦場では第1大隊と共に行動する事が多かった。連隊は各地域に根差して組織される恒久的な編制単位であり兵員数が極度に減少してもその存在が失われる事はなかった。従軍中の消耗で少人数となった連隊を幾つもまとめて一部隊として率いる役割も旅団は持っていた。
騎兵旅団+連隊+大隊+中隊
- 騎兵旅団は、軍団または騎兵師団に属して、連隊1~4個分の大隊の戦場運用をまかされた。騎兵大隊(escadron)は2個中隊をまとめてその定員は約200名であり、騎兵中隊の定員は約100名だったが、実際の人数はその半分程度の事が多かった。特定の地域で設立される恒久的な編制単位である騎兵連隊は3~4個大隊を編制して管理した。騎兵も戦場では大隊ごとに行動した。
砲兵連隊+中隊
- 歩兵騎兵と異なり、砲兵は中隊単位で戦闘活動に従事した。砲兵中隊(batterie)の定員は約120名であり砲兵連隊に直接管理された。砲兵連隊は純粋な軍政上の管理組織であり実戦指揮機能は持たなかった。戦場での砲兵中隊は軍団長配下の砲兵指揮官または師団長に指揮された。
皇帝近衛隊
1804年5月に発足した皇帝近衛隊(Garde impériale)はフランスの精鋭軍隊であり、前身の執政親衛隊(Garde des consuls)から発展した組織だった。皇帝近衛隊は軍団(corps d'armée)の編制単位と同等で、歩兵騎兵砲兵工兵の四兵科と各種牽引兵および支援部門を備えていた。ナポレオンは皇帝近衛隊が全軍隊の模範となる事を望み絶対の忠誠を示す事を求めた。
皇帝近衛隊に存在する様々な兵種は連隊(régiment)単位で管理された。1806年以降の近衛歩兵連隊は2個大隊構成となり両大隊は4個中隊を擁していた。各近衛歩兵中隊の兵員数は約100名だった。近衛騎兵連隊は当初は2個大隊構成で、重騎兵科は6個大隊、軽騎兵科は10個大隊まで拡張された。各大隊は2個中隊を擁しており各近衛騎兵中隊の兵員数は約100名だったが、従軍中の消耗で後年は定員の半分以下になってる事が多かった。各近衛連隊は旅団、師団、集団(corps)などの編制単位にまとめられて戦った。各連隊の組み合わせである戦闘序列(ordre de bataille)は戦役ごとに臨機応変に変化しており一定でなかった。
年 | 兵士数 |
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1800 | 4,000 |
1804 | 10,000(皇帝近衛隊発足) |
1806 | 15,000 |
1809 | 31,000(新規近衛隊を追加) |
1811 | 52,000 |
1813 | 92,000(若年兵が大量採用された) |
1815 | 25,000 |
古参、中堅、新規近衛隊
最終的に皇帝近衛隊は経験と能力によって三階層に分けられる構造となっていた。1806年から本格的な増員が始まり、1809年の組織拡張の中で新規近衛隊が創設され新しい採用者はそこに編入された。同時に従来の近衛隊は古参近衛隊と呼ばれるようになった。1810年に新規と古参の渡り橋となる中堅近衛隊が新設され、1806年からの増員組がその主な構成員となった。各近衛部隊の格式とそこに所属する近衛兵の格式はまた別であり、中堅ないし新規近衛隊の士官は古参近衛隊からの編入者(古参近衛兵)である事が多く、新規近衛隊の下士官は中堅近衛隊からの編入者(中堅近衛兵)である事が多かった。
古参近衛隊(Vieille Garde)
古参近衛隊は皇帝近衛隊の最高格であり、構成員は全て3~5回以上の方面作戦(campagne)従軍経験を持ち、戦闘能力と勇敢さを表彰された者たちだった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。
- 近衛擲弾兵第1連隊+第2連隊
- 近衛猟歩兵第1連隊+第2連隊
- 近衛精鋭憲兵レギオン
- 近衛騎馬擲弾兵連隊の第1大隊~第4大隊
- 近衛猟騎兵連隊の第1大隊~第5大隊+近衛マムルーク騎兵大隊
- 皇后竜騎兵連隊の第1大隊~第4大隊
- 近衛軽槍騎兵第1連隊の第1大隊~第3大隊
- 近衛軽槍騎兵第2連隊の第1大隊~第5大隊
- 近衛徒歩砲兵第1連隊
- 近衛騎馬砲兵連隊の第1大隊+第2大隊
中堅近衛隊(Moyenne Garde)
中堅近衛隊[2]は皇帝近衛隊の次席格であった。新規近衛隊で経験を積んだ者を引き上げて精鋭歩兵団を構成させつつ、古参近衛候補生とするか、又は新規近衛隊の士官ないし下士官の補充要員としていた。1814年のナポレオン退位時に解散し1815年の百日天下でも再建されなかった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。
- 近衛小銃擲弾兵連隊
- 近衛小銃猟歩兵連隊
- 近衛軽槍騎兵第1連隊の第4大隊~第6大隊
新規近衛隊(Jeune Garde)
新規近衛隊[3]は皇帝近衛隊の末席格であった。元々は最低1回の従軍経験を持つ推薦された若年士官と年間表彰兵が入隊していたが、後には新兵からの選抜者が大半を占めるようになった。1813年の最大規模時の構成内容は以下の通りだった。
- 近衛狙撃歩兵第1連隊~第12連隊
- 近衛選抜歩兵第1連隊~第12連隊
- 近衛海兵大隊
- 近衛騎馬擲弾兵連隊の第5大隊+第6大隊
- 近衛猟騎兵連隊の第6大隊~第9大隊
- 皇后竜騎兵連隊の第5大隊+第6大隊
- 近衛軽槍騎兵第1連隊の第7大隊
- 近衛軽槍騎兵第2連隊の第6大隊~第10大隊
- 近衛徒歩砲兵第2連隊
- 近衛騎馬砲兵連隊の第3大隊
近衛歩兵
- 近衛擲弾兵(Grenadiers-à-Pied de la Garde impériale)[4]
- 執政親衛隊の擲弾兵を起源とするフランス軍の最上級歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。密集隊形を組む戦列歩兵科だった。フランス軍内で最も経験を積んだ最優秀の古参歩兵である近衛擲弾兵は、ナポレオンの最後の切り札とされ他の近衛兵ほど戦闘に投入される機会もなく言わば殿堂入りの存在だった。彼らはナポレオンから家族同然に扱われ従軍中の愚痴をこぼす事も許されていた。この連隊への採用には厳しい基準が定められており、10年以上の軍隊勤務歴と勇敢さでの表彰歴を持ち、品行方正かつ読み書きが出来て178cm以上の身長である必要があった。1806年に新設された第2連隊は1809年に消滅し1811年に再設されて中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1810年のホラント王国併合時にその近衛歩兵隊が編入され第3連隊となったが1813年に解散している。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され古参近衛隊に所属した。
- 装備品はシャルルヴィル1777年型マスケット銃とその銃剣と歩兵用小剣(sabre briquet)であり、これは他の近衛歩兵にも共通していた。
- 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。前面に金の彫刻板を留め金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった[5]。第2連隊は赤い羽飾りの熊毛帽となり、第3、第4連隊は赤い羽飾りを立て白紐を巻いた黒い円筒帽となった。
- ワーテルローの戦いにおいてイギリス軍のメイトランド旅団に撃破され皇帝近衛軍は総崩れとなった。この功績からメイトランド旅団は第一又は擲弾兵近衛歩兵連隊(グレナディアガーズ)と命名された。
- 近衛猟歩兵(Chasseurs-à-Pied de la Garde impériale)
- 執政親衛隊の猟歩兵を起源とする最上級に次ぐ地位の歩兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。散開して戦う軽歩兵科だった。近衛擲弾兵と双璧をなす彼らも殿堂入りの存在であり戦闘に投入される機会は少なかった。採用基準も近衛擲弾兵と概ね同じで身長のみ172cm以上だった。1806年に新設された第2連隊は1809年に消滅し1811年に再設されて中堅近衛隊所属となり1813年に古参近衛隊に昇格した。1815年の百日天下の時に第3連隊と第4連隊が追加編制され、彼らはワーテルローの戦いで最終突撃を敢行した。
- 制服は白いチョッキの上に、襟口は青く袖口は赤色で白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった[6]。第2連隊は赤+緑の羽飾りの熊毛帽となり、第3、第4連隊は赤+緑の羽飾りを立て白紐を巻いた黒い円筒帽となった。
- 近衛海兵(Marins de la Garde impériale)
- 1803年にイギリス上陸作戦に向けて皇帝座乗船の乗組員となる近衛海兵大隊が組織された。この大隊の構造は海軍式であり5個の海兵中隊(équipage)をまとめていた。近衛海兵中隊の人数は約150名だった。イギリス侵攻作戦が中止された後は近衛歩兵の一員となり、ナポレオンが乗り込む船舶やボートの操舵と管理を担当した。船舶作業の時は邪魔にならない拳銃を主武器とした。
- 制服は金のモールを肋骨状に並べた青いジャケットと、金のストライプの入った青いズボンだった。赤い羽飾りが立てられ上辺に金色の縁取りがされた青い円筒帽をかぶった[7]。
- 近衛小銃擲弾兵(Fusiliers-Grenadiers de la Garde impériale)[8]
- 1806年に近衛擲弾兵連隊に属していたウェリテス大隊(二軍大隊)を独立させて近衛ウェリテス擲弾兵(Velites-Grenadiers de la Garde impériale)連隊として組織されたが、すぐに近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde impériale)第2連隊と改称された。1809年の新規近衛隊の創設と共にそこに所属し今度は近衛小銃擲弾兵連隊と改称された。1811年に中堅近衛隊に昇格した。密集隊形を組む戦列歩兵科である彼らは姉妹部隊である近衛小銃猟歩兵と連携して戦った。1814年のナポレオン退位と共に解散し、1815年の百日天下では近衛擲弾兵に鞍替えされてその第3、第4連隊の中核構成員となり古参近衛隊に所属した。近衛擲弾兵第1連隊は三十代半ばの者が多く年齢的な衰えがあったので、実質的に皇帝近衛隊の中枢戦力となったのは近衛擲弾兵第2連隊とこの近衛小銃擲弾兵だった。
- 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章(房紐は白)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
- 近衛小銃猟歩兵(Fusiliers-Chasseurs de la Garde impériale)
- 1806年に近衛猟歩兵連隊に属していたウェリテス大隊(二軍大隊)を独立させて近衛小銃兵(Fusiliers de la Garde impériale)連隊として組織された後に、近衛小銃兵第1連隊と番号付きの呼称となった。1809年の新規近衛隊創設時にそこに所属し近衛小銃猟歩兵連隊に改称された。1811年に中堅近衛隊に昇格した。散開して戦う軽歩兵科の彼らは姉妹部隊である近衛小銃擲弾兵と連携して戦った。1814年に解散し、1815年の百日天下では近衛猟歩兵第3、第4連隊の中核構成員に改組されて古参近衛隊に所属した。近衛猟歩兵第1連隊は年齢層の高さから敏捷さに衰えがあったので、実質的に皇帝近衛隊の中枢となって高度な散兵戦を行ったのは近衛猟歩兵第2連隊とこの近衛小銃猟歩兵だった。
- 制服は白のチョッキの上に白い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
- 近衛狙撃歩兵(Tirailleurs de la Garde impériale)
- 1809年に近衛狙撃擲弾兵(Tirailleurs-Grenadiers de la Garde impériale)として組織され、翌年に近衛狙撃歩兵と改称された。彼らは隊列を組む戦列歩兵であり、ここでの’’tirailleurs’’は実は’’velites’’(元はローマ帝国の若年軽装歩兵であり、ナポレオンは二軍部隊の意味で用いていた)と同義の言葉だったようでつまり’’足軽’’の様な意味だった。まず2個連隊が編制され姉妹部隊である近衛選抜歩兵2個連隊と共に、同年に創設された新規近衛隊を構成した。新規近衛兵の中で背の高い者が入隊した。狙撃歩兵連隊は言わば精鋭部隊育成の為の練兵場であり、古参近衛兵が士官となり中堅近衛兵が下士官となって新規近衛兵達を鍛えて戦場に導く形となった。次々と連隊が新設され1811年に6個、1814年には16個連隊が存在した。1813年以降は若者達を近衛兵の名で熱狂させて危険な最前線に駆り立てる為のブランド部隊と化していた面があった。
- 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには赤色肩章が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。赤い飾り紐を巻き赤+白の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
- 近衛選抜歩兵(Voltigeurs de la Garde impériale)
- 1809年に近衛狙撃猟歩兵(Tirailleurs-Chasseurs de la Garde impériale)として組織され、翌年に近衛選抜歩兵と改称された。この名称はナポレオンの発案であり、単に従来の軽歩兵を言い換えたものだった。まず2個連隊が編制され、姉妹部隊である近衛狙撃歩兵と対をなして新規近衛隊を構成した。1811年に6個、1814年には16個連隊が存在した。密集隊形を組む近衛狙撃歩兵の周辺で近衛選抜歩兵は散兵線を築き連携して戦った。ロシア遠征の惨敗で戦局が悪化した1813年から若年兵の大量採用が始まり、近衛兵の誇りを持たされた彼らは消耗の激しい最前線に送り出される事になった。
- 制服は白のチョッキの上に青い襟返しのダークブルーのコートを着た。コートには黄色肩章(房紐は緑)が付いていた。白いズボンと黒い長靴を履いた。白の飾り紐を巻き赤+緑の羽飾りを立てた黒い円筒帽をかぶった。
近衛哨戒擲弾兵(Flanqueurs-grenadiers de la Garde impériale)
- ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。その役割は露払いのようなものであり、皇帝近衛隊の各部隊が行軍する周辺に配置されて敵の奇襲や待ち伏せを警戒し本隊の長蛇の移動を支援した。彼らは近衛兵と言っても名ばかりの存在でありそれに準じた待遇は無かった。1814年に解散した。
- 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+赤の羽飾りを立てて赤い飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。
近衛哨戒猟歩兵(Flanqueurs-chasseurs de la Garde impériale)
- ロシア遠征に備えて1811年に1個連隊が創設された。姉妹部隊である近衛哨戒擲弾兵と同じ役割で、近衛兵たちの前方および側面に配置されて敵の奇襲と待ち伏せを警戒し本隊の長大な行軍を支援した。彼らはより外側の範囲に展開されていた。彼らもまた名前だけの近衛兵で特別な待遇は無かった。1814年に廃止された。
- 制服は襟返しが金色に縁取られたグリーンのコートと白色のズボンだった。短めの黄+緑の羽飾りを立てて黄色の飾り紐を巻いた黒い円筒帽をかぶった。
近衛騎兵
- 近衛騎馬擲弾兵(Grenadiers-à-Cheval de la Garde impériale)
- 執政親衛隊の重騎兵を起源とするフランス軍の最上級騎兵団であり、1804年の皇帝近衛隊発足時に連隊となった。背高の熊毛帽をかぶり巨大な黒馬に騎乗する近衛騎馬擲弾兵の行進はさながら黒い森林が迫ってくるように見え周囲を圧倒した。「神」とも「巨人」ともあだ名されるこの偉大な連隊への採用には厳しい審査が課せられており、身長176cm以上の屈強な体格を持ち、4回以上の方面作戦に参加して10年以上の軍隊勤務歴があり、勇敢さで表彰されている必要があった。カービン騎兵連隊と胸甲騎兵連隊から採用されるのが常だったが、その他の騎兵科からの選抜者もいた。
- 近衛騎馬擲弾兵連隊の歴史は数々の武勲で飾られていた。1805年のアウステルリッツの戦いではロシア皇帝の騎兵隊を撃破し、1807年のアイラウの戦いでは大砲60門による苛烈な集中砲火に晒されるが、指揮官の「諸君!あれは糞ではない!ただの砲弾だ!」の一言でロシア軍の陣地に雪崩れ込んだ。1812年のロシア遠征ではフランス兵を散々に苦しめたコサック騎兵でさえも高い熊毛帽の陣列を見ると逃げ去ったという。近衛騎馬擲弾兵は白兵戦で無敗を誇り、ナポレオンが最も頼りにした重騎兵だった。
- 制服は白いチョッキの上に中央の襟返しが白いダークブルーのコートを着て、白色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった。装備品は直刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
- 近衛猟騎兵(Chasseurs-à-cheval de la Garde impériale)
- 1796年のイタリア遠征中に敵騎兵の奇襲から命拾いしたナポレオンは護衛用の軽騎兵を組織しこの200名が起源となった。最古参の騎兵団とも言える彼らは執政親衛隊に組み込まれ、そこから皇帝近衛隊の1個連隊に発展した。この連隊に採用されるには3回以上の方面作戦従軍経験と10年以上の軍歴、身長170cm以上が必要であった。1815年の百日天下の時に2個目の連隊も作られていた。
- 近衛猟騎兵は最優秀の斥侯であり戦場におけるナポレオンの目となり耳となった。高度に融通が利きナポレオンと密接な関係にあった彼らは「皇帝の寵児」と呼ばれていた。それ故かやや規律に欠ける面もあり皇帝の前での無作法を指揮官から注意される事が度々あったという。アウステルリッツの戦いで武勲を挙げたが、スペインの戦場ではイギリス騎兵の奇襲で大きな被害を出した。だが概ね活躍してその戦歴を飾りワーテルローの戦いでも勇敢な戦いぶりを見せた。
- 彼らは特に豪華に飾り立てたユサール様式の制服を着用していた。白い羊毛で裏打ちされ金の装飾が施された赤い短丈外套を羽織り、金色モールを肋骨状に並べた緑色のジャケットを着て、白金色のハンガリー風ズボンと黒い膝下長靴を履いた。古参近衛兵は赤いスカーフをかけ赤+緑の羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶり、新規近衛兵は赤+緑の羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は曲刀サーベルとカービン銃と拳銃であった。
- 近衛マムルーク騎兵(Mamelouks de la Garde impériale)
- ナポレオンはエジプト遠征の中でこの砂漠の戦士達を見出しフランスに連れ帰った。狂信的な勇気を持ち中東の馬術と剣技を見せる彼らはフランス軍内にその名を轟かせ、近衛猟騎兵連隊に所属する異質な軽騎兵中隊となった。1805年のアウステルリッツの戦いで活躍した事で独自の軍旗を獲得し増員されて大隊待遇の中隊となった。1813年には新中隊が追加されて正式に騎兵大隊となり、第1中隊は古参近衛隊に、第2中隊は新規近衛隊に所属した。近衛猟騎兵連隊の管理下にあったが、ナポレオンの下で独自に行動する事もあった。
- 彼らの制服は異国情緒に溢れていた。白いターバンを巻いた赤い帽子をかぶり、紺、緑、黄、橙、紫など銘々の色鮮やかなシャツとチョッキを着て、赤いズボンと茶色の長靴を履いた。武器もまた異国的であり、反りの深い三日月刀と二丁の拳銃を中心にして短刀や槌矛を使い、はたまた戦斧を持つ者もいたという。
- 近衛精鋭憲兵(Gendarmes d'élite de la Garde impériale)
- 皇帝近衛隊を引き締める最高峰の監視員である彼らは鉄の規律を持ち、その高潔さと無慈悲さによって近衛兵から畏怖される存在であった。皇帝近衛隊に組織された憲兵レギオンは精鋭レギオン(légion d’élite)と呼ばれ、当初は4~6個中隊をまとめ1813年に12個中隊となった。近衛憲兵中隊の定員は120名だった。彼らは皇帝の本営を警備して周囲の秩序を保つ他、捕虜の尋問や賓客の護衛も担当した。1807年以降は中隊数の増加に伴い前線に出て戦闘する機会が増えた。採用には厳重な審査が課せられ従軍経験4回と勇敢さの表彰歴、品行方正で教養を備え身長176cm以上が必須とされた。後年はドイツ語能力も求められた。採用者は主に一般の憲兵レギオンからで、また重騎兵科からの者もいた。
- 制服は黄色のチョッキに赤い襟返しのダークブルーのコートを着て肩から白い飾緒を下げていた。そして黄色のズボンと黒い膝上長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶった。
- 皇后竜騎兵(Dragons de l’Impératice)
- 1806年に近衛竜騎兵(Dragons de la Garde impériale)連隊として創設されたが翌年に改称された。3番目の近衛騎兵隊である彼らの装備品は一般の竜騎兵と異なっており、下馬戦闘を行わない中騎兵の位置付けだった。採用資格は軍歴6年、従軍経験2回、勇敢さの表彰歴、読み書きの教養と身長173 cm以上だった。各竜騎兵連隊から一度に10名ずつが採用され、後には他からの門戸も開かれた。
- 制服は白のチョッキに白い襟返しのダークグリーンのコートを着て肩から金の飾緒を下げていた。白いズボンと黒い膝下長靴を履き、黒い房飾りを後ろに下げ赤い羽飾りを立てた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶっていた。曲刀サーベルと拳銃と竜騎兵用マスケット銃で武装していた。
- 近衛軽槍騎兵(Chevau-Légers-Lanciers de la Garde impériale)[9]
- 4番目の近衛騎兵隊であり、ポーランド人騎兵の活躍を高く評価したナポレオンの考えでポーランド式槍騎兵(ウーラン)の部隊が編制される事になった。装備品はその名が示す通り槍であったが実際に槍を構えるのは前列だけで、後列は銃剣付きカービン銃を用いておりそれがポーランド式であった。補助武器として曲刀サーベルと拳銃も携行していた。
- 第1連隊(ポーランド)
- 1795年のポーランド分割により祖国を失ってフランスに亡命し、その優れた騎兵技術を買われて皇帝近衛隊に採用されたポーランド軍人達はナポレオンの期待を裏切らなかった。1807年にナポレオンはポーランド人騎兵の功績に応える形で、彼らだけの独立部隊である近衛ポーランド軽騎兵(Chevaux-légers polonais de la Garde impériale)連隊の創設を承認した。ただし担当教官はフランス人でありフランス式の騎兵隊として編制された。翌年のスペイン戦線のソモシエラの戦いの中で、彼らはスペイン軍砲兵陣地への伝説的な突撃を敢行し大いに名声を高めた。ナポレオンは彼らの人間離れした勇気を絶賛し、槍を主武器とする本来のポーランド形式で戦う事を認めて近衛軽槍騎兵と改称させた。彼らは教えられる側から教える側になり後年、フランス軍内に槍騎兵連隊が新編制される時にその手腕を振るった。近衛軽槍騎兵第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊と共に騎兵戦闘において一度も敗れた事がない部隊だった。ワーテルローの戦いでイギリス軍の近衛騎兵連隊を撃破した事も彼らの偉大な武勇伝の一つとなった。
- 制服は白く縁取られた赤い襟返しの濃青のコートと緋色のストライプの入った濃青のズボンだった。ポーランド風の特徴的な四角筒帽をかぶった。四角筒帽は赤く塗装され黒い牛皮を巻き白の飾り紐を付け前面に金のプレートを留めて中央から白い羽飾りを立てていた。
- 第2連隊(オランダ、後にフランス)
- 1810年のホラント王国併合時に、その近衛騎兵隊を改組編入させる形で組織された。彼らオランダ人槍騎兵はその特徴的な赤一色の軍装で知られており赤い槍騎兵(les lanciers rouges)と呼ばれていた。ロシア遠征の中で壊滅状態となり、1813年に再編制された後の構成員はほぼフランス人となった。フランス人槍騎兵もまた赤い軍装を受け継いだ。正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵である彼らをナポレオンは気に入っており、最後までこの槍騎兵連隊の規模拡張を計画していた。幾多の戦いを経てワーテルローの戦いにも参加した。
- 制服は青い襟返しの赤色のコートと赤色のズボンだった。赤いポーランド風四角筒帽をかぶった。四角筒帽は金色の飾り紐を巻き白い羽飾りを立てて前面に金のプレートが留められていた。
- 第3連隊(リトアニア)
- ロシア遠征直前の1812年にナポレオンは祖国回復を夢見るリトアニア人達の熱意を認めて、彼らの騎兵連隊を新規近衛隊に加えた。1795年のポーランド・リトアニア分割でロシア帝国に祖国を奪われていた彼らは、その遠征に参加する事で自分達の悲願を果たそうとしていた。しかし厳しい遠征の中で苦戦を強いられ、ロシア・コサック騎兵とウクライナ・ユサール騎兵に包囲された後にスロニムで滅ぼされた。その生き残り達は近衛軽槍騎兵第1連隊に編入された。
- 制服は青い襟返しの紺色のコートと紺色のズボンだった。紺色のポーランド風四角筒帽をかぶった。
- 近衛護衛騎兵(Gardes d'honneur de la Garde impériale)
- ナポレオンの指示で1813年に新設された彼らの役割は、各近衛騎兵連隊に随伴して様々な支援任務をこなす事だった。新しく徴集した青年騎兵の中から選ばれた者達で4個連隊が編制された。ナポレオンは上流家庭と富裕家庭出身の若者達を動員し馬と装備品の費用も負担させる事を望んでいたが、実際には庶民層の若者も少なからず存在していた。この頃はロシア遠征での騎兵大量喪失により近衛騎兵入隊のハードルが大幅に下がっていた。これを発展させたものが近衛偵察騎兵となった。1814年のフランス防衛戦の中で消滅した。
- 制服は、白いモールを肋骨状に飾り付けた緑色のジャケットを着用し、肩から白の飾り帯をかけ、グリーンの短丈外套を羽織った。赤いズボンに黒い膝下長靴を履いた。緑の羽飾りを付けた赤い円筒帽をかぶった。
- 近衛偵察騎兵(Eclaireurs de la Garde impériale)
- ロシア遠征の退却中、コサック騎兵の戦闘技術に強い印象を受けていたナポレオンは、フランス本土決戦前夜の1813年12月にコサック騎兵を参考にした新しい騎兵団を創設し近衛偵察騎兵と名付けた。軽騎兵科である近衛偵察騎兵は純粋な支援部隊であり、編制された3個の連隊は近衛重騎兵の各隊に随伴する位置付けだった。第1連隊は近衛騎馬擲弾兵連隊に、第2連隊は皇后竜騎兵連隊に、第3連隊は近衛軽槍騎兵第1連隊にそれぞれ付属して、専ら偵察と戦闘支援を担当するものとされた。装備品はポーランド槍騎兵と似て、前列は槍と曲刀サーベル、後列は銃剣付きカービン銃と曲刀サーベルだった。訓練期間も短く、彼らがどれだけコサック騎兵の技術を身に付ける事が出来たのか疑問が残った。1814年のフランス防衛戦に投入されたが、敗戦によるナポレオン退位と共に解散した。
- 第1連隊第1大隊の制服は熊毛コルパック帽と白いモールで飾った緑色のジャケットと緑色のズボンだった。その他大隊は猟騎兵風で黒い円筒帽と緑のコートと緑のズボンだった。第2連隊も猟騎兵風だが赤い円筒帽をかぶった。第3連隊は赤い襟返しの濃青色コートと白いズボンと赤いポーランド風四角筒帽だった。
近衛砲兵
- 近衛徒歩砲兵(Artillerie a Pied de la Garde impériale)
- 前身の執政親衛隊では1個中隊のみの規模だった。この皇帝直属の砲兵連隊の入隊資格は、背が高く勇敢さの表彰歴を持ち教養を備えた3回以上の従軍経験者であり、各砲兵連隊より2名が採用された。1806年には35歳以下で10年以上の軍隊勤務者という条件が加わり各連隊から15名が採用されるようになった。フランス徒歩砲兵の最精鋭であるこの連隊は3個大隊で構成されており、第1、第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属した。各大隊は3個中隊を擁しており、近衛徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名で重砲4門か軽砲8門を保有していた。1809年に第3大隊はスペインに遠征して連隊から分離し、やがてこの第3大隊を中核とした近衛徒歩砲兵第2連隊が新編制されて新規近衛隊の支援砲兵となり、1813年には16個中隊まで増やされた。第1、第2大隊の計6個中隊は近衛徒歩砲兵第1連隊を形成し古参近衛隊の支援砲兵となる他、皇帝直率の予備砲兵ともなった。
- 制服は袖口が赤く襟口と襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートにダークブルーのズボンだった。コートには赤色肩章が付いていた。古参近衛砲兵は赤い飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛帽を、新規近衛砲兵は赤い羽飾りを立てた赤い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。
- 近衛騎馬砲兵(Artillerie a Cheval de la Garde impériale)
- 前身の執政親衛隊にも1個中隊が存在していた。ナポレオンは1802年から騎馬砲兵の増設に力を注ぎ3個大隊構成の連隊にまで拡張した。各大隊は2個中隊を擁しており、近衛騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名で大砲6門を保有していた。近衛騎馬砲兵の採用には更に厳しい基準が定められて帝国全土から最優秀の人材が探し出されていた。比類なき砲兵である彼らは戦場を神出鬼没に駆け巡り、全速力で駆けつけて来て馬車から大砲を降ろして最初の砲弾を放つのに1分と掛からなかったという。近衛騎馬砲兵連隊は徒歩と騎馬双方を含めたフランス全砲兵中の最上級部隊であった。用いられる軍馬も巨大で怪力の超一流であり、もしこの連隊の馬が不足した場合は皇帝の命令で、全騎兵中の最上級部隊である近衛騎馬擲弾兵連隊から軍馬を融通して貰えるよう定められていたので、近衛騎馬砲兵は全軍隊の頂点に立つ戦力と見なされていた事が分かる。第1大隊と第2大隊は古参近衛隊に所属し、第3大隊は新規近衛隊に所属していた。
- 制服はユサール様式の洗練されたもので、金色モールで肋骨状に装飾したダークブルーのジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされ金の組み紐で飾られたダークブルーの短丈外套を羽織った。きつめの濃青ハンガリー風スボンと黒い膝下長靴を履いた。金の飾り紐を巻き赤い羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。
- 近衛砲車牽引兵(Train d’artillerie de la Garde impériale)
- 近衛砲車牽引兵中隊(compagnie)は近衛砲兵中隊(batterie)の大砲運搬を一対一で担当して作戦中の行軍を支援した。当初は大隊組織で全中隊を管理したが、中隊数の増加に伴い1812年からは連隊組織で管理されるようになった。制服は青みのある灰色基調で赤い肩章が付いていた。
歩兵
”Une bonne infanterie est sans doute le nerf de l'armée, mais si elle avait longtemps à combattre contre une artillerie très supérieure, elle se démoraliserait et serait détruite.”(優れた歩兵は疑いなく軍隊の要である。しかしより優れた砲兵の前ではその士気を挫かれやがて壊走するだろう)。ナポレオンの歩兵観はこの様なものであった。歩兵は最も数の多いナポレオン軍の主要構成員であり、密集隊形で戦う戦列歩兵(infanterie de ligne)と、散開して戦う軽歩兵(infanterie légère)の二つの兵科に分けられていた。
戦列歩兵
戦列歩兵(infanterie de ligne)はフランス軍の基本構成員であり最も人数の多い兵科だった。戦場の彼らは密集した隊形を組み、何があっても隊列から離れない事を求められ、常に隊形の一部となって戦った。これは近世ヨーロッパ歩兵の標準的な戦い方だった。
ナポレオンが半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に改称した1803年当時は、112個の戦列歩兵連隊が存在し最終的には156個となった。連隊はフランスの各県ないし郡ごとに組織されていた。戦列歩兵連隊は2~6個大隊+後備大隊で構成されており、大隊の数は地元の人口情勢に左右された。後方支援役の後備大隊(bataillon de dépôt)は4個中隊で構成され主に新兵の教育部署となり、新兵達は連隊の荷車を運搬する小荷駄隊を兼ねた。戦場での基本行動単位である大隊(bataillon)は複数の中隊で構成された。中隊(compagnie)は配膳を共にする兵営生活の基本単位だった。1800~1804年の大隊構成は8個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊で各中隊の人数は約120名だった。1805~1807年は7個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊となった。1808~1815年は4個小銃兵中隊+1個擲弾兵中隊+1個選抜歩兵中隊で各中隊は約140名となった。戦列歩兵大隊の兵員数は1800年からは約1,000名、1808年からは約800名であり、戦列歩兵連隊の兵員数は大雑把に見て1,600~3,200名という事になるが、従軍中の消耗で実際には定員の5~7割程度になってる事が多かった。
連隊長(大佐)には運営事務役(中佐)とスタッフ達(会計士官、給与仕官、連隊副官、旗手、軍医長、鼓手長、軍楽長)と職人達(仕立て師、靴職人、理容師、パン屋、大工、鍛冶師)が付いた。後備大隊は中佐が管理した。大隊長(少佐)には副官(大尉と中尉)2名と准尉1名と鼓手伍長1名が付いた。中隊長(大尉)には副長(中尉と少尉)2名、曹長1名、軍曹4名、給養係伍長1名、伍長8名、鼓手2名が付いた。
- 小銃兵(Fusiliers)
- 小銃兵は最も人数の多い標準的な歩兵だった。彼らには行軍訓練が最優先に課せられて歩行速度と持久力を伸ばす事に最大の注意が払われた。”La première vertu d'un soldat est l' endurance de fatigue courage est seulement la deuxième vertu.”(兵士の第一の美徳は疲労に耐える事であり、勇気はその次でよい)とはナポレオンの言葉であり、この戦略眼による訓練で養われた長い距離を短い時間で踏破出来る歩兵達の移動能力はフランス軍の勝利を支え続けた。また戦場においては敵への接近中、個々に狙いを定めて射撃する事が奨励されており、加えて半ば自由行動となる銃剣突撃が積極的に用いられた。この様な兵士達の自主性にまかせる戦い方が出来たのはひとえにフランスが国民軍であるが故であり、他のヨーロッパ諸国ではこうは行かず、戦場では常に隊列を維持させ個々の発砲は許されず指揮官の号令下での一斉射撃を順守させる事が普通であった。
- 小銃兵の武器は、前装式火打石発火型滑腔砲であるシャルルヴィル1777年型マスケット銃とその銃剣であった。制服は白いチョッキと白いズボンの上に、襟口と袖口は赤く中央の襟返しは白い濃青色のコートを着た。濃青色コートは1812年までは尾の長いハビットロングで1813年からは尾の短いハビットベストとなった。始めは二角帽子をかぶり1807年に円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なるポンポンを付けていた。1808年の再編制では第1中隊は緑色、第2中隊は水色、第3中隊は橙色、第4中隊は紫色のポンポンと決められた。
- 擲弾兵(Grenadiers)
- 擲弾兵とは18世紀以前に大柄で精強な者が選ばれて敵戦列に擲弾(手榴弾)を投げ付ける役目を担った伝統に由来する名称であり、即ち精鋭兵を意味する兵種だった。背が高く勇敢で精強な者が選抜されて擲弾兵となった。彼らが構成する擲弾兵中隊は各大隊に1個ずつ組織された。擲弾兵中隊は大隊が縦隊を組んだ時はその先頭に立ち、横隊の時は古代ローマ&ギリシャ時代に最も名誉な位置と言われた右端に置かれた。戦況に応じて各擲弾兵中隊を合わせた擲弾兵集団が編制される事もあり、大規模戦闘隊形の要所に配置されて強力な突破力となった。
- 擲弾兵は威圧感を持つ為に全員が口ひげを蓄えるよう求められた。彼らは赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶったが、1807年に赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、擲弾兵は歩兵用小剣(sabre briquet)を腰に帯びた。歩兵用小剣はエリート歩兵の証であると同時に白兵戦用の武器でもあったが肝心の戦闘では滅多に使われず、ただの薪割りの道具になったという。
- 選抜歩兵(Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
- 1803年に軽歩兵大隊の中に選抜歩兵中隊が組織されたのに続いて、ナポレオンは1805年から戦列歩兵大隊にも選抜歩兵中隊を組織させた。その趣旨は軽歩兵のものとはやや異なり、各戦列歩兵大隊に独自の散兵線を持たせる事だった。背が低く射撃技術と身のこなしに優れた者が採用されて選抜歩兵となった。低身長者を選り分けたのは銃剣のリーチを揃える為でもあり、小柄な者ほど弾に当たりにくいと信じられていたからでもあった。彼らは擲弾兵に次ぐ精鋭と見なされて1809年から給与待遇が上げられた。通常は大隊横隊の左端か大隊縦隊の後方に位置し、散開を命じられると前方に展開して散兵線を敷いた。また市街戦や山岳戦の際には機敏さを活かした突入要員としても活躍した。師団または連隊内の全選抜歩兵中隊が集められて前面に配置され、広大な散兵線を築く事がしばしばあった。
- 彼らは黄+緑色の羽飾りを立てた二角帽をかぶったが、1807年に黄+緑色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。制服は小銃兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。装備品は竜騎兵用マスケット銃(銃身がやや短い)とされたが、実際には歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付いた。歩兵用小剣も腰に帯びた。
軽歩兵
近世の歩兵の大半は隊列を組み隊形の一部となって戦ったが、それとは別に隊列を組まず散開し、各自の判断で動き戦う者達もいて彼らは軽歩兵(infanterie légère)と呼ばれた。軽歩兵は、密集した戦列歩兵隊形の周辺に配置されて散兵線を築き、強固だが正面以外への融通が利かない歩兵陣形を臨機応変に援護した。戦列歩兵と異なり軽歩兵は選抜扱いで人数は少なく、1803年の31個連隊から最終的に37個を越える事はなかった。しかし他のヨーロッパ諸国と比べるとかなりの大人数ではあった。軽歩兵の役割は敵前逃亡しない強い責任感を持つ者だけにまかせる事が出来たので強制徴募と傭兵中心の封建軍隊では編制が難しく、国民国家の軍隊に限り大量編制が可能だった。
軽歩兵連隊は2~3個大隊+後備大隊で構成された。軽歩兵大隊の構成内容は1807年までは7個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊で中隊の人数は約120名、1808年からは4個猟歩兵中隊+1個カービン兵中隊+1個選抜歩兵中隊の構成で中隊の人数は約140名だった。
軽歩兵は正確で素早い射撃と機敏な動作を身に付ける為の専門的な訓練を受けており、哨戒や斥侯や伏兵などの様々な任務をまかされるのが常だった。入隊基準は身のこなしに優れた者であったが、小柄な者が優先採用される傾向があり平均身長は戦列歩兵より2cmほど低かった。この小柄さは実際に森林を駆け抜ける時の敏捷性や物陰に隠れる動作に活かされていた。
- 猟歩兵(Chasseurs)
- 猟歩兵は軽歩兵科で最も人数の多い標準的な存在だった。武器はシャルルヴィル1777年型マスケット銃と銃剣だった。1806年までは選抜扱いだったが、軽歩兵連隊の増加と選抜歩兵中隊の設立に伴い1807年からは待遇が下げられ、歩兵用小剣と円筒帽の羽飾りも取り外される事になった。
- 猟歩兵の制服は全体的にダークブルーで統一されており、濃青のチョッキと濃青のスボンの上に濃青のコートを着て、コートには緑色肩章(房紐は赤)が付いた。緑の羽飾りを立てた白紐円筒帽をかぶり、1807年から羽飾りは無くなり白い紐飾りだけの円筒帽に変わった。円筒帽には中隊毎に色の異なるポンポンが付いた。
- カービン歩兵(Carabiniers)
- この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来しており、即ちカービン兵は擲弾兵と対をなす精鋭の意味だった。彼らは戦列歩兵大隊の擲弾兵と同じ位置付けだった。背が高く勇敢で精強な猟歩兵が選ばれてカービン歩兵中隊に入った。彼らは擲弾兵と同様に口ひげを蓄える事を求められた。
- 制服は猟歩兵と同じだがコートに赤色肩章が付いた。赤い羽飾りを立てた熊毛帽をかぶり、1807年からは赤い羽飾りの赤紐円筒帽に変わった。標準装備のマスケット銃と銃剣の他、カービン歩兵は歩兵用小剣を腰に帯びた。
- 選抜歩兵(Voltigeurs、意味的には曲芸的に飛んだり跳ねたりする者)
- 1803年にナポレオンの指示で、軽歩兵連隊の中から背の低い者を集めて選抜歩兵中隊が組織されるようになった。当初の基準は152cm以下だったが、その後は平均より低い程度となった。軽歩兵はすでに選抜要員であり身のこなしに優れた者だったので、小柄さの利点を存分に発揮出来る特別な部隊が誕生した事になる。選抜歩兵は複雑な地形および障害物環境下でのアクロバットな戦いを専門とする者達であり、城壁の乗り越えや市街戦山岳戦の時に活躍し、他に偵察や奇襲も専門とした。ナポレオンの命名である「voltigeur」には敵騎兵に対して「飛び上がって」攻撃出来る歩兵という意味が込められていたが、この斬新な構想は上手くいかなかった。しかし特殊任務担当要員としての必要性を確立し、後年には戦列歩兵連隊の方にも選抜歩兵中隊が編制されるようになった。
- 制服は猟歩兵と同じだがコートに黄色の襟口と黄色肩章(房紐は緑)が付いた。黄色の羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶり、1807年からは黄色の羽飾りの黄紐円筒帽に変わった。竜騎兵用マスケット銃が標準装備とされたが、実際は歩兵用マスケット銃が使われてる事が多くそれに銃剣が付き、歩兵用小剣も腰に帯びた。
騎兵
”La cavalerie est utile avant, pendant et après une bataille.”(騎兵は戦闘前、戦闘中、そして戦闘後に役に立つ)とはナポレオンが残した言葉である。直線的な白兵戦を専門とする重騎兵(cavalerie lourde)と柔軟な機動任務を専門とする軽騎兵(cavalerie légère)の二つの兵科があった。フランス革命で騎兵の中核である貴族階層の士官下士官の大半が国外亡命しフランス騎兵はその質をひどく落としていたが、ナポレオンはこの部門の再建に取り組み成功している。
革命前の旧体制下では、精鋭集団であるカービン騎兵連隊2個、白兵戦専門の大騎兵連隊24個、乗馬歩兵である竜騎兵連隊18個、フランス式軽騎兵の猟騎兵連隊6個、ハンガリー式軽騎兵のユサール騎兵連隊6個が存在し、革命戦争期間に幾度か改編され取り分け猟騎兵連隊が増設されていた。1802年頃から騎兵の組織改革に取り組んだナポレオンは、大騎兵(Grosse cavaleries)を約半数に選別し、重量胸甲を着せて胸甲騎兵と改称させ重騎兵の一線級とした。この胸甲騎兵による肉弾突撃を多用したのがナポレオン戦術の特徴だった。選別に漏れた者達は竜騎兵に転向させられたので竜騎兵の数は倍増し重騎兵の二線級に位置付けられた。また軽騎兵の育成を強化し、ハンガリー式であるユサール騎兵を一線級に定めて軍服を華やかに飾らせた。フランス式である猟騎兵は二線級とされ質より量の方針で大幅に増員させた。ナポレオンは軽騎兵による組織的な偵察活動を特に重視した。後年にはポーランド式槍騎兵(ウーラン)を正面戦闘の白兵戦もこなせる万能型の軽騎兵としてフランス軍に導入した。
騎兵連隊の兵員数は800名から1000名であり、各連隊は概ね4個大隊+後備大隊で構成された。戦場での基本行動単位である騎兵大隊(escadron)は2個中隊構成であり、兵営生活の基本単位である騎兵中隊の人数は約100名だった。後方支援役である後備大隊(escadron de dépôt)は新兵教育と軍馬の入れ替えと小荷駄隊を兼ねていた。各連隊の第1大隊の第1中隊は精鋭中隊(compagnie d'élite)であり連隊内の選抜者が入隊した。騎兵連隊は従軍中の消耗で定員に足りてない事が多く、後年は半数以下になってる連隊も珍しくなかった。騎兵連隊と騎兵大隊のスタッフ構成は歩兵科とほぼ同じだったが、連隊スタッフに獣医と馬鞍職人と蹄鉄職人が加わった。騎兵中隊長(大尉)には副長(中尉と少尉)2名、曹長1名、給養係伍長1名が付き、胸甲騎兵中隊は軍曹2名と伍長4名、それ以外は軍曹4名と伍長8名が付いた。
重騎兵
- 胸甲騎兵(Cuirassiers)
- 突撃と白兵戦を専門とする彼らは中世の騎士を彷彿とさせる騎兵であり、胸甲を身に着け兜をかぶり直刀サーベルと拳銃で武装した。1812年にカービン銃も装備品となったが携行しない者もいた。1802年までは大騎兵(Grosse cavaleries)という名称で27個連隊が存在したが、1803年の騎兵改革で12個連隊に選別され、重量胸甲の着用を義務付けられた彼らは胸甲騎兵と改称した。1810年頃に2個の連隊が追加された。大きな軍馬にまたがる胸甲騎兵は正面から突撃して敵の隊列を突き崩し戦いの流れを変える決定打となり、危険な突撃を敢行する彼らには高い名誉が与えられていた。彼らの胸甲と兜は銃弾に対しても、白兵戦におけるサーベルと槍に対しても大きな防護効果を発揮した。[10]なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、前面と背面を覆う胸甲の採用はナポレオンのアイディアだった。重量胸甲の着用は短期の訓練では身に付かない白兵戦技術を補い、個人の技量に頼らず騎兵の練度を底上げさせる為の手段だった。この事は胸甲騎兵の大量補充を可能にし、ナポレオンは犠牲を顧みない騎兵の肉弾突撃を多用してそれがナポレオン軍の強さにつながった。
- 胸甲騎兵はナポレオン時代における最強の騎兵であり、近衛騎馬擲弾兵と並び他国の悩みの種となった。[10]
- しかし、オーストリア軍のウーラン、ロシア軍のコサック、イギリス軍の胸甲騎兵もナポレオン軍の胸甲騎兵に勝るとも劣らない戦闘力と勇猛さを持っていた。[11]
- 制服は白のズボンに濃青のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。その上に銀色の胸甲を着けた。鉄と真鍮製の兜は黒い牛皮を前面に巻き黒い房飾りを後ろに下げて金のとさかが付き赤い羽飾りが立てられていた。
- カービン騎兵(Carabiniers-à-Cheval)
- この名称は近世初期にカービン銃で武装した騎兵が精鋭とされた伝統に由来していた。彼らはフランス重騎兵の中から剣の達人を選抜したエリート部隊であり2個の連隊が存在した。当初は赤い羽飾り付きの熊毛帽をかぶり白のチョッキと赤い襟返しの濃青色コートを着て白いズボンを履いていた。胸甲騎兵と同じく突撃と白兵戦を主な任務とし、直刀サーベルとカービン銃で武装したが、カービン騎兵は胸甲を着用しなかった。彼らは胸甲に頼らず剣の技術のみで敵と格闘する事を許されたエリートだった。なお18世紀のヨーロッパ諸国の重騎兵は軽装甲ないし非装甲が主流となっており、重量胸甲は銃撃には無力な上に疲労が増し落馬時の受け身と離脱行動も難しくなる厄介な代物でもあった。しかし突撃を多用するナポレオン戦術の下で白兵戦の機会が急増すると徐々に消耗を強いられ、1809年にはオーストリア軍のウーラン騎兵(ポーランド式槍騎兵)との戦いで大損害を被り、ついにナポレオンはカービン騎兵に胸甲の着用を命じた。彼らは口惜しがったが以後の軍装は一新され、熊毛帽の代わりに赤いとさかで飾られた鉄と真鍮製の金色兜をかぶり、白いコートの上に金色の胸甲を着用するようになった。カービン騎兵は近衛騎馬擲弾兵に次ぐ地位の重騎兵であったが、その戦歴は振るわなかった。
- 竜騎兵(Dragons)
- 彼らは重騎兵科であったが用途的には中騎兵であり、正面戦闘の白兵戦を行う他、哨戒や斥侯などの遊撃任務も担当する多芸で汎用な存在だった。騎兵用の直刀サーベルと歩兵用の銃剣付きマスケット銃で武装しており、マスケット銃は通常馬鞍に取り付けられ馬上戦闘中はベルトで背負っていた。竜騎兵は歩兵戦闘の訓練も受けており必要に応じて下馬して戦った。故に軍馬が不足した際は徒歩竜騎兵となって柔軟に存在価値を示す事が出来た。徒歩竜騎兵は標準以上の歩兵戦力と見なされており、取り分け騎兵支援用の歩兵となる事が多かった。竜騎兵は二線級重騎兵であったが、同じく二線級軽騎兵である猟騎兵よりも練度的に上の位置付けだった。1803年の騎兵改革で15個の大騎兵(Grosse cavaleries)連隊が竜騎兵連隊に改組される事になり、1804年に竜騎兵連隊は30個存在した。1811年にナポレオンがポーランド式槍騎兵の価値を認めると、6個の竜騎兵連隊が槍騎兵連隊に改組された。
- 制服は白のチョッキと白のズボンに赤い襟返しの緑色のコートだった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊別に6色で色分けされた。前面に豹皮を巻き後ろに黒い房飾りを下げた真鍮製ギリシャ風ヘルメットをかぶった。
軽騎兵
- ユサール騎兵(Hussards)
- ユサール騎兵の軍装はきらびやかで華麗な事で有名だった。彼らの中にはカービン銃を持つ者もいたが、大抵は敏捷さを重視して曲刀サーベルと拳銃のみで武装した。ユサール騎兵の主な任務は偵察であったが、本隊が交戦するまでの前哨戦の中で様々な任務をこなした。作戦地域を駆け巡って敵部隊の動きをくまなく司令官に知らせるのと同時に、敵の斥侯を見つけた際にはこれを撃退して味方の情報を与えないようにした。ナポレオン軍の高度な戦略機動と分進合撃を可能にしたのは軽騎兵の組織的な情報収集力に拠る所が大きく、精鋭であるユサール騎兵は特に目覚しい働きを見せていた。また戦闘終了後に敵軍隊を再捕捉する追撃戦も彼らの重要な役目であった。敵地への危険な強行偵察を敢行する彼らはほとんど自殺行為と言えるほどの無謀な勇敢さで有名であり、30歳まで生き延びたユサール騎兵は真の古参兵であり幸運の持ち主(卑怯者)であると言われた。[10][11]1804年に12個連隊が存在し、1814年に14個連隊となった。
- ユサール騎兵の制服はジャケット、モール、襟口、袖口、スボン、短丈外套、羽飾りの各パーツの色の組み合わせが連隊毎に異なり色彩の変化に富んでいた。配色は濃青、赤、緑、黄、茶、白、水色だった。前面にモールが肋骨状に並んだジャケットを着て、黒い羊毛で裏打ちされた短丈外套を羽織り、きつめのハンガリー風ズボンと膝下長靴を履いた。頭には羽飾りを立てた円筒帽をかぶった。士官と精鋭中隊は熊毛コルパック帽だった。
- 猟騎兵(Chasseurs-à-Cheval)
- 彼らの役割と任務はユサール騎兵と同じで偵察、哨戒、奇襲、遊撃、追撃などであったが精鋭扱いされない二線級の軽騎兵だった。1804年に24個連隊が存在し、1811年には31個連隊を数えた。その内の6個連隊はドイツ人、イタリア人などの外国人部隊であった。猟騎兵の馬と装備品の費用は安く訓練も簡素で短かった。1805年には数ヶ月の乗馬射撃訓練だけで実戦投入される事もあった。装備品はカービン銃と曲刀サーベルで、カービン銃用の銃剣も渡されていたが多くの者はこれを用いなかった。この銃剣は下馬戦闘の為でもあり、猟騎兵もまた竜騎兵と同様に下馬戦闘の実技を課せられていたが、訓練が簡素過ぎたせいか徒歩騎兵として用いられる事はなく、軍馬欠乏の際はそのまま待機させられる事が多かった。
- 猟騎兵の軍装は全体的にダークグリーンで統一されていた。制服は黒い円筒帽をかぶり、緑色のコートを着て、緑色のズボンと黒い膝下長靴を履いた。精鋭中隊は熊毛コルパック帽をかぶった。コートの襟口と袖口と折返しは連隊毎に12色で色分けされていた。
- 槍騎兵(Lancers)
- ポーランド式槍騎兵(ウーラン)を高く評価したナポレオンは、1811年に6個の竜騎兵連隊と1個の猟騎兵連隊を槍騎兵連隊に改組させ、皇帝近衛隊のポーランド人騎兵たちにその教練をまかせた。更に槍騎兵の本場である同盟国ポーランド(ワルシャワ公国)から2個の槍騎兵連隊の提供を受けて合計9個連隊となった。彼らは名前が示す通り槍で武装しており、他に曲刀サーベルと拳銃も携行した。編制当初は前後二列に槍を構えさせていたが、実戦の中でポーランド式戦術の正しさが証明されると後列には槍の代わりに銃剣付きカービン銃を装備させた。彼らの槍は銃剣より長かったので歩兵陣形を攻めるのに効果があり、同様に長い槍のリーチで騎兵との白兵戦にも有利だった。[10][11][12]ただし槍騎兵の本領を満足に発揮出来たのはもっぱらポーランド人と近衛騎兵に限られており、一般のフランス人槍騎兵の方は力不足を指摘される事が多かった。また、騎兵槍は騎兵同士の戦闘では乱戦で返って邪魔になる事も多く、槍を捨ててサーベルに武器を切り替える事も珍しくなかった。[10]中世の騎士とは異なり、鎧を纏っていないせいか乱戦に弱いという欠点があり、背後にサーベルを主力武器とする騎兵が控えて援護していた。[13]また、槍騎兵の育成には手間がかかり、木製の騎兵槍で訓練をしていた。[14]
- 制服は黒いとさかで飾られた真鍮製ヘルメットとグリーンのコートとグリーンのズボンだった。コートの前面の襟返しは連隊別に6色で色分けされた。なお、ポーランド人の第7、第8連隊の方は黄色の襟返しのブルーのコートとブルーのズボンで頭には青いポーランド風四角筒帽をかぶった。
- 胸甲騎兵には及ばないもののナポレオン時代に復活した槍騎兵は、多くの騎兵がサーベルを主力武器とする中、実戦で恐ろしい威力を発揮した。[15]
砲兵
”Dieu se bat sur le côté avec la meilleure artillerie.”(神は優れた砲兵を持つ側に味方する)[16] 。砲兵士官の出身であるナポレオンはしばしばこの様に語っていたとされる。大砲はナポレオン軍の柱石であり、歩兵と騎兵が突入する前の敵隊列を乱す攻撃の要であった。徒歩砲兵(Artillerie a pied)と騎馬砲兵(Artillerie a cheval)の二つの兵種があり、更に大砲運搬を専門に行う砲車牽引兵(Train d’artillerie)と、大砲を載せる台車や荷車の修理修繕を行う工匠兵(Ouvriers)と、大砲の修理修繕を行う大砲鍛冶兵(Armuriers)の三つの支援兵種があった。
1805年には8個の徒歩砲兵連隊と6個の騎馬砲兵連隊が存在した。各徒歩砲兵連隊は概ね20個位の徒歩砲兵中隊(batterie)を一括管理した。各騎馬砲兵連隊は6個の騎馬砲兵中隊(batterie)を管理し1814年に8個となった。徒歩砲兵中隊はカノン砲6門と榴弾砲2門の計8門を持つのが標準で、騎馬砲兵中隊はカノン砲6門を保有するのが標準だった。砲兵連隊は戦場で一体的に行動する訳ではなく単に軍政上の管理組織だったので、各砲兵中隊は個別に師団ないし軍団に配属されていた。砲兵中隊には大尉2名、中尉2名、曹長1名、軍曹4名、給養係伍長1名、伍長4名がいた。砲兵は1等と2等にランク分けされていた。
師団には標準1個の砲兵中隊が配属されて師団砲兵(artillerie divisionnaire)と呼ばれた。歩兵師団には徒歩砲兵が、騎兵師団には騎馬砲兵が割り当てられた。軍団には徒歩と騎馬の2個砲兵中隊を配属するのが標準とされ軍団予備砲兵(réserve d'artillerie du corps)となった。軍団予備砲兵とその配下の師団砲兵は合併して軍団指揮下の大砲列となる事もあった。大砲の大量鹵獲により余裕が出た1809年からは革命戦争末期に廃れた連隊砲兵(artillerie régimentaire)の編制が再び始まり、カノン砲2門を持つ砲兵分隊(section)が配属された歩兵連隊も存在するようになったが、ロシア遠征での大量喪失で再び消滅した。
砲車牽引兵中隊(compagnie)は砲兵中隊(batterie)の大砲運搬に一対一で対応した[17]。砲兵中隊には工匠兵と大砲鍛冶兵が随伴して大砲と砲車の修理修繕を担当した。工匠兵は1811年に18個中隊あり、木工職人である彼らは軍隊内の様々な工作作業も担当した。大砲鍛冶兵は1811年に5個中隊あり、鍛冶職人である彼らは軍隊内の銃器全般の修理も担当した。工匠兵と大砲鍛冶兵は5名位のグループに分かれて各任地に赴いていた。
- Gribeauval cannon de 12 An 2 de la Republique.jpg
- Obusier de 6 pouces Gribeauval.jpg
- Systeme An XI cannon de 6 Douay 1813.jpg
大砲
- 旧体制時代の1765年にフランスの大砲製造技術は大幅な革新が為されており、ナポレオンはその優れた遺産を受け継ぐ幸運に恵まれた。ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバルが考案したグリボーバル・システムの下で製造された大砲は軽量化されて運搬が容易となり、砲身口径も標準化されて照準も合わせやすくなった。また台車も強化されて安定性も増した。標準型式は4ポンド、8ポンド、12ポンドのカノン砲と6インチの榴弾砲に定められた。1803年にナポレオンはこれを改定した共和暦11年式システムを発案し、4ポンド砲と8ポンド砲は6ポンド砲に置き換えられた。12ポンド砲は牽引に馬6頭を必要とする重砲で専ら軍団予備砲兵で用いられた。6ポンド砲は馬4頭で牽引された。砲身は真鍮(黄銅)製であった。青銅砲ともされるがこれは慣例上、真鍮製の物も含めて青銅砲と呼ばれたからである。砲架、車輪、前車はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。
- 徒歩砲兵(Artillerie a pied)
- 徒歩砲兵は標準的な砲兵だった。1805年に徒歩砲兵連隊は8個存在し1810年に9個目の連隊が追加された。軍政上の管理組織である徒歩砲兵連隊は概ね20個位の中隊を一括管理していた。徒歩砲兵中隊の兵員数は約120名であり、標準保有数はカノン砲6門と榴弾砲2門の計8門だったが従軍中の破損でその半数程度になってる事が多かった。
- 徒歩砲兵中隊の構造は二通りあり、(A)下士官が大砲1門を管理しその下士官2人(伍長と軍曹)を士官が管理して大砲2門の分隊(section)を構成しその士官2人(中尉と大尉)で大砲4門の半中隊(demi-batterie)を構成し大尉が管理者になるものと、(B)下士官が大砲1門を管理しその下士官数名を大尉が管理して半中隊を構成するものがあった。従軍中の大砲破損で大抵は(B)になった。砲兵中隊には大尉が2人いたので半中隊2個のペア部隊と言えた。この構造から砲兵中隊は分割運用される事が多かった。
- 制服は襟返しを赤く縁取ったダークブルーのコートとダークブルーのズボンで、赤い飾り紐を巻き上辺を赤く縁取った黒い円筒帽をかぶった。装備品は銃剣付き竜騎兵用マスケット銃と歩兵用小剣だった。
- 騎馬砲兵(Artillerie a cheval)
- 騎馬砲兵は騎兵と砲兵の高度な融合であり、大砲を荷馬車に乗せて戦闘に参加した。後方で砲列を敷く徒歩砲兵とは対照的に、ほぼ最前線で大砲の移動を繰り返す騎馬砲兵は近接戦闘の訓練も施されていた。彼らは指定位置に着くと素早く下馬して大砲を設置し敵を砲撃した。そして再び大砲を荷車に載せて乗馬し新しい場所へ素早く移動した。この一連の動作を成し遂げる為に相当の訓練を積んでいた彼らは精鋭と見なされており総人数は徒歩砲兵の五分の一程度だった。騎馬砲兵はナポレオン軍の虎の子部隊であり極めて優秀な戦力となったが、その編制と維持に掛かる費用もかなりのものであった。
- 1807年に騎馬砲兵連隊は6個存在し1810年に7個目の連隊が追加された。軍政上の管理組織である騎馬砲兵連隊は6個の中隊を管理し1814年に8個となった。なお1802年に中隊2個をまとめる大隊(escadron)の編制単位が導入され、各連隊は3個大隊を擁する事になり1814年に4個となったが、この大隊編制は実際には形骸化していたようだった。騎馬砲兵中隊は騎兵師団の支援砲兵となり、軍団にも1個が配属される事があって貴重な戦力となった。騎馬砲兵中隊の兵員数は約100名でカノン砲6門を保有するのが標準だった。これも半中隊(demi-batterie)に分けて運用される事がしばしばあった。
- 制服は赤色モールを肋骨状に飾り付けた濃青のジャケットを着て、濃青のズボンと黒い膝下長靴を履いた。赤い羽飾りを立てた熊毛コルパック帽をかぶった。装備品は軽騎兵用サーベルと二丁の拳銃で、拳銃は馬鞍に取り付けられていた。
砲車牽引兵(Train d’artillerie)
- 砲車牽引兵は大砲運搬を専門に担当して砲兵部隊の行軍を支援した[18] 。革命戦争期間は民間の人夫を雇っていたが、彼らは敵に襲撃されるとすぐに大砲を放棄する事が多かったので[19]、これを作戦上の重大な懸案と見なしたナポレオンは1800年1月に専門の兵員を用意させる事にした。砲車牽引兵は黄色のズボンとチョッキの上に襟返しが青い灰色のコートを着て黒い円筒帽をかぶった。下士官は軽騎兵用サーベルを腰に下げ、一般兵は短いサーベルを携行した。カービン銃ないし拳銃で武装する者もいて運搬中の大砲を守った。
- 砲車牽引兵中隊は砲兵中隊の大砲運搬に一対一で対応し[17]、このペアは砲兵分団(division d’artillerie)と呼ばれた。当時の’’division’’には師団と中隊ペア(分団=分大隊)の二つの意味があった。砲車牽引兵中隊は曹長に率いられた。各中隊は軍政上の管理組織である砲車牽引兵大隊にまとめられていた。1805年に5個中隊を管理する大隊10個があった。1808年に6個中隊を管理するようになり、1811年に27個大隊にまで拡張された。1809年からは連隊砲兵を運搬支援する分遣隊も柔軟に編制されるようになった[19]。
工兵
戦闘工兵(Sapeurs grenadiers)
- 戦闘工兵は厳密に言えば工兵(Génie)ではなく擲弾兵中隊の中から選抜された者達であり各歩兵大隊に5名が置かれていた。彼らはトレードマークである大斧を持ち、部隊の先頭に立って敵施設の解体作業を行った。敵の城門、防御柵、橋梁、防塞などを破壊して回り、また壁に穴を開けて味方の為の銃眼を作る事もあった。敵前での危険な解体作業に当たる事が多かったので名誉ある地位とされた。彼らは熊毛帽をかぶり、擲弾兵の制服の上に足元までを覆う厚地のエプロンをつけて作業中に飛び散る破片から身を守った。また、ユサール騎兵連隊と竜騎兵連隊にも10名の戦闘工兵が置かれており、精鋭中隊(第1大隊第1中隊)から選抜された彼らは先発隊として連隊野営地の確保を担当した。
土木工兵(Sapeurs)
- 土木工兵は軍内の土木作業を担当する者達でその任務は多岐に渡った。堡塁を築き、塹壕を掘り、簡易兵舎を建て、城塞都市攻略の際には土木技術を活かして味方を支援した。都市攻略戦が多発した革命戦争中は12個大隊を数えたが、1805年には5個大隊に選別されてそれぞれが8個中隊を擁した。土木工兵中隊の兵員数は150~200名だった。1812年には8個大隊まで増やされた。土木工兵大隊は軍政上の管理組織であり、戦場では中隊ごとに活動していた。土木工兵中隊は各軍団に複数個配属されて、軍団長配下の工兵指揮官の指示を受けた。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。必要な工具、資材などは工具牽引兵(Train du génie)が専門の荷車で運搬していた。工具牽引兵は1806年に創設され1810年には6個中隊が存在した。皇帝近衛隊には近衛土木工兵(Sapeurs de la Garde impériale)の1個大隊が存在し4個中隊を擁していた。
坑道工兵(Mineurs)
- 坑道工兵は城塞都市を攻略する攻城戦の際に城外から地下にトンネルを掘って城内に侵入する作業に従事した。1805年の時点で9個の坑道工兵中隊が存在し、1808年には12個にまで増やされ、2個大隊がそれぞれ6個の中隊を管理した。坑道工兵中隊の兵員数は150~200名だった。坑道工兵大隊も軍政上の管理組織であり、各中隊は必要に応じて個別に各地の軍団に配属された。制服は徒歩砲兵に似たもので上下共に濃青色だった。
架橋工兵(Pontonniers)
- 架橋工兵は工兵科(Génie)ではなく砲兵科(Artillerie)に属する兵種であり、制服も徒歩砲兵と同じものを着用していた。遠征中の河川の問題に対処する彼らは「はしけ」をつなぎ合わせてその上に橋梁を渡した浮き橋を構築するか、又は橋台橋脚が支える橋梁を組み立てて味方の渡河を助けた。フランス軍架橋工兵部門の責任者であったジャン・バプティスト・エーブレによる技術革新は名高く、彼が考案した工具と工作機械を用いる特別な訓練を施された工兵たちは、様々な橋梁部品を素早く作ると同時にそれらを組み立てて橋を完成させ、また分解した後は各部品の再利用も出来るようにした。必要な資材、工具、特殊部品は工具牽引兵(Train du génie)が運搬する専門の荷車で運ばれた。特殊部品が破損した時も専門の荷車に備えている鍛造機などの工作機械で製造し補充出来た。一つの架橋工兵中隊で全長120mから150m程のはしけ(艀)約80艘からなる浮き橋を7時間以内に組み立てる事が出来た。1805年の時点で5個中隊を管理する2個の架橋工兵大隊が存在し、最終的には8個中隊構成の3個大隊となり合計24個中隊まで増やされた。架橋工兵中隊の兵員数は100~150名だった。架橋工兵大隊も軍政上の管理組織であり、各中隊は必要に応じて各地の軍団に配属され中隊ごとに活動したが、大きな川の架橋作業で合同する機会が多かった。皇帝近衛隊には近衛架橋工兵(Pontonniers de la Garde impériale)の1個中隊が存在した。
その他の兵科
- 憲兵(Gendarmes)
- 軍隊内の不正を調査し軍規を引き締める役割を担っていた憲兵は、レギオン(légion)の編制単位でまとめられていた。憲兵レギオンの兵員数は50~120名であり中隊と同規模の集団だった。騎馬憲兵と徒歩憲兵の比率は6:4だった。1804年に27個の憲兵レギオンが存在し、1811年には34個まで増やされた。憲兵レギオンは各軍団に1個ずつが配属されており、また各方面の要地にも出向した。全レギオンは憲兵総監(Inspecteur général des armées gendarmerie)に管理されていた。
- 皇帝近衛隊内に組織されたレギオンは精鋭レギオン(légion d’élite)と呼ばれ、これは騎兵連隊と同規模の集団となり複数の近衛憲兵中隊(compagnie)をまとめていた。近衛憲兵中隊の兵員数は120名だった。1804年は騎馬4個と徒歩2個の計6個中隊が存在し、1806年に徒歩憲兵中隊が廃止されて4個中隊となり、1813年には12個中隊にまで拡張された。
- 制服は熊毛帽をかぶり、黄色のチョッキの上に赤い襟返しと赤い襟と赤い袖口の濃青色コートを着て、黄色のズボンを履いていた。
- 海兵(Marins)
- 海兵とは海軍に属す兵科であり、水兵(Matelots)と共に軍用船に乗り込んだが、船舶の操作を担当する水兵とは異なり、艦砲の砲手と艦上での白兵戦を専門とする者たちだった。近世の帆船同士の戦いでは大砲を放ちながら船体をぶつけて接舷した後に、海兵たちが斬り込んで敵乗組員を駆逐し敵艦の捕獲にまで到るケースが最も多かった。彼らは海戦時の主役であり、また敵地に上陸する際は歩兵戦力として活躍した。
- 旧体制時代の国王海軍海兵部隊は、フランス革命後の1794年に7個の歩兵半旅団に改組される形で一時消滅したが、イギリス上陸作戦が計画される中の1803年に海軍内に再び組織されて、砲手海兵(Artellerie de la Marine)の名称で4個の海兵連隊が編制される事になった。加えて皇帝近衛隊の中にも近衛海兵大隊が新設され、選抜された海兵達がその構成員となった。1805年10月に発生したトラファルガーの海戦の敗北でイギリス上陸作戦が中止されると、海兵の一部は陸軍の指揮下に移され、イギリス海軍に備えた沿岸警備を担当するようになった。ロシア遠征敗北後の1813年になると4個の海兵連隊は陸上海兵(Infanterie de Marine)と改称された後に大陸軍(グランダルメ)に組み込まれて内陸部へと従軍し、ドイツ方面の戦いに投入された彼らはライプツィッヒの戦いなどに参加した。
- 海兵連隊では海軍式の構成と階級が用いられており、第1連隊は8個大隊、第2連隊は10個大隊、第3連隊と第4連隊は4個大隊を擁していた。各大隊は3~4個の海兵中隊(équipage)をまとめていた。海兵中隊の人数は100~150名であり、鼓手とトランペット手の両方を持つ唯一の兵科だった。制服は青い襟返しのブルーのコートを着て青いズボンを履き、上辺を赤く縁取って前面に金色の錨マークを付けた黒い円筒帽をかぶった。
補給部門
有名な”une armée marche sur son estomac.”(軍隊は胃で行進する)の言葉を残したナポレオンは、兵站の重要性を明確に認識していた。従軍開始時にフランス兵は食料4日分を各自所持した。また各連隊の後備大隊(bataillon de dépôt)は全兵員に行き渡る食糧8日分を保管しておりこれは緊急時にのみ消費された。ナポレオンも安定した補給が困難である事を悟っており、兵士達になるべく狩猟採集と現地調達で日々を賄うように勧めていた。狩猟採集とは家畜と収穫間近の農作物の収奪である事が多く、現地調達とは強制徴発と略奪である事が多かった。
国家から各軍(方面軍)に提供される軍需品は戦争委員(Commiissares des guerres)が手配した。戦争委員は政府から各軍司令部に派遣されていた役人だった。軍需品は方面軍(armée)の倉庫に蓄えられて逐次運送された。まず各軍団の兵站部(parc)に補給物資を積んだ荷車が運び込まれて管理され、そこから配下の各師団を中継地点として、補給品の荷車が各連隊に届けられると中佐が監督する後備大隊(bataillon de dépôt)で保管運搬しつつ、各中隊の下士官(曹長と給養係伍長)による分配と配膳を経て糧秣弾薬衣料その他が兵士達に支給された。フランス軍の中で軍需品の管理保管運搬に直接携わる編制単位は軍団と連隊だった。
1806年までは民間の人夫を雇い軍隊に随伴させて物資全般の運搬をまかせていたが、戦利品を勝手に放棄する無責任さと運送能力に不満を募らせたナポレオンは、1807年に輜重牽引兵(Train des équipages)を創設して物資運搬の専門要員とした。彼らは砲車牽引兵と似た制服を着て同等の武装をし、糧秣武器弾薬などの軍需品および戦利品と更には負傷兵の運搬も担当した。各輜重牽引兵中隊は4頭立ての荷馬車32台を持ち、軍政上の管理組織である輜重牽引兵大隊にまとめられていた。中隊は更に4個の分隊(section)に分割されて運用される事が多かった。各分隊は荷馬車8台を持ち軍曹に指揮された。1807年には8個の大隊があり各大隊は4個中隊を管理した。1812年には16個大隊に増え6個中隊を管理するようになった。だがロシア遠征でほとんどの荷馬車が失われて壊滅状態となり、1813年には4個大隊が再建されたのみとなった。皇帝近衛隊には近衛輜重牽引兵(Train des équipages de la Garde impériale)の1個大隊が1811年に編制されて6個中隊を擁していた。
遠征ないし作戦開始前の兵舎生活を送る兵士に支給された食糧1日分はパン750g、ビスケット550g、肉250g、豆類60g、米穀30g、ワイン250ccだった。他によく語られるものとして、1804年にナポレオンが懸賞を掛けた食糧保存技術の公募に応えてニコラ・アペールが発明した「瓶詰」の実用的製法があった。しかし肝心の製造ラインと特に輸送手段の確立がなかなか進まず軍隊全体への普及は遅れ気味で、1814年にようやくその目処が立った時はすでに敗戦間近だった。
医療部門
近世の医療は正しい知識が確立される以前の不完全なものであり、それはナポレオン戦争でも同様であった。戦場での治療と言えば、負傷者の身体を包帯でぐるぐるに巻いて止血し、傷口が開かないように包帯の上から革帯で固定して縫合代わりにし、泥と血にまみれた軍服を脱がせて患者衣に着替えさせ、身体に食い込んだ破片異物を摘出し、損傷して回復する見込みがない四肢を切断する事だった。苦痛とショックをやわらげる目的でアヘンもよく使われていた。アヘンは丸薬か液体瓶として携行され、負傷者に摂取させて麻酔同様の働きをした。傷口を洗浄して清潔に保つ事も行われていた。また手法は不明だが挫傷の為の治療も存在していた[20]。
各連隊には軍医長(Chirurgien-major)1名と軍医助手(Aide-chirurgien)4~5名とその他補助員達が在籍していた。彼らは50kg以上の患者衣と10kg以上の包帯と外科道具を携行して困難な医療活動に従事した。また師団ごとに野戦病院(dépôt d'ambulance)が設置され負傷兵はここに運ばれたが、その実態はただの負傷者置き場と変わりなかった。満員で溢れ返るようになると付近の教会に可能な限り搬送され、ここでは敵味方の国籍を問わない救命活動が行われる事が多かった。皇帝近衛隊の衛生部門(service de santé)は正規の医療関係者で占められていたが、その他の部隊では事情が異なった。
当時の欧州諸国の中でフランス軍の医療事情は比較的ましな方とされており、特に負傷兵の救命救護の改善に貢献した二人の人物がいた。ドミニク・ジャン・ラリーが発明した救急馬車(ambulance volante)は、前線の負傷兵を迅速かつ効率的に後方の野戦病院に搬送する事を可能にした。ラリーはまた野戦病院の改善にも取り組んだ。ピエール・フランシス・パーシーは逆のアプローチを取り、前線の負傷兵の下に素早く駆け付けて担架に乗せ安全な所に運ぶとその場で治療を施す移動外科(chirurgie mobile)を組織した。治療と言っても破片異物を取り除いて包帯でぐるぐるに巻いて止血する位だったが、これは衛生兵の元祖とも言えた。ラリーとパーシー両名の業績は他の欧米諸国をも啓発し各国の軍隊でも取り入れられる事になった。
ナポレオンは負傷兵たちに最良の病院で静養出来る保証を与えた。傷痍軍人は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給が支払われ必要ならば義肢も与えられた。傷痍者となっても帰郷後の保証がある事が知れ渡ると、軍人全体の士気も盛んになり戦力の向上につながった。
情報通信部門
楽器演奏は軍隊内で重要な役割を果たし、指示伝達の合図だけでなく規律を保ち士気を高める為の精神的効果も期待されていた。各歩兵中隊には2名の鼓手(Tambours)が所属しドラムを鳴らして歩行ペースの調整と一斉射撃の合図をした。選抜歩兵中隊ではホルン手(Cornets)となったが音色が不評でドラムに戻される事が多かったという。騎兵中隊にはトランペット手(Trompettes)2名が所属した。各連隊には約8名の軍楽兵(Musiciens)が在籍したが、連隊長の裁量で20~30名規模の軍楽隊になる事もあった。
軍旗もまた部隊の位置と存在を示すだけでなく、兵士達を結束させる精神的支柱の役割を果たすものと見なされていた。1804年に第一帝政が樹立するとナポレオンは各戦闘隊形に国軍の象徴である鷲章軍旗(aigle)が掲げられる光景を望んで、従来の連隊だけでなく各大隊にも鷲章軍旗を授けた。しかし数の多さから戦場での喪失も目立った為に1808年以降の鷲章軍旗は各連隊に一本と定められて、各大隊は所在を示すだけの小旗(fanion)を持つ様になった。第1大隊が連隊旗を掲揚し、第2大隊は白色、第3大隊は赤色、第4大隊は青色、第5大隊は緑色、第6大隊は黄色の小旗を掲げた。各大隊の第2中隊が連隊旗または小旗を保有した。連隊旗の旗手(Porte-aigle)は選抜された士官であり下士官2名がその従者となった。
当時の遠距離通信は文書や手紙のやり取りで行われる他はなかった。近世を通して軍内の命令は馬に乗った伝令によって運ばれていた。敵方の文書を接収出来ればそれだけ作戦行動の先手を取る事が可能であり、また現地の一般的な書信からも貴重な情報を得れる事があったので、作戦地域における敵伝令の捕縛と書簡収集は重視された。連隊には郵便士官(Vaguemestre)が在籍する事もあり占領地での文書の押収とその分析を担当した。また状況により部隊内の私信検閲を行う事もあった。他にもフランス軍は伝書鳩を大規模かつ組織的に用いて遠距離通信に役立てていた。
文書に頼らない革新的な通信手段も存在していた。観測用熱気球をいち早く実用化したフランスは、それを偵察だけでなく遠方に合図を送る用途で空に上げる事もあった。また腕木通信(セマフォ)の施設も国内各所に整備されていた。ナポレオンも腕木通信に注目し、その開発者であったシャップの兄弟を通信監督(directeur du télégraphe)として皇帝軍事本営に一時期在籍させた事もあった。この工芸的な通信ネットワークは前線部隊と後方兵站の調整などに役立てられた。
外国人部隊
フランス革命政府は共和主義と市民社会の理念に沿わないものとして外国人傭兵部隊を廃止したが、ナポレオンは第一帝政の樹立と共にこれを復活させ、旧体制下の伝統的なスイス人傭兵部隊も呼び戻した。ナポレオンは愛国心を基にした国民軍隊を率いるのと同時に、金銭で雇った外国人部隊を用いる事にも前向きだった。皇帝近衛隊にも外国人兵士は積極採用され、愛国心とは無縁の彼らは金銭に加えて名誉欲とナポレオン個人への忠誠心を基にして戦った。自身も元は外国人であるナポレオンは、フランス人民の皇帝(Empereur des Français)であり、市民革命の成果を守護する防衛機構に必要な存在であるとして外国人部隊の編制を正当化した。結果的に当時のヨーロッパに存在した国々の多くがナポレオン戦争中の様々な局面で大陸軍(グランダルメ)の一部となった。外国人部隊は同盟軍として協力するものと、フランス軍の指揮下に組み込まれたものの二つに分類された。
- ポーランド
- 1795年のポーランド分割で祖国を失いフランスに亡命したポーランド軍人達が近衛軽槍騎兵第1連隊となっていた他、イタリアに亡命していたポーランド軍人達はフランス傘下のナポリ王国に仕えて1807年にナポリ軍の一部としてプロイセン・ポーランド方面に遠征し、翌年の祖国の地において兵力6,000名からなるヴィスワ軍団(Légion de la vistule)として新編制された。1807年に成立したポーランド人のワルシャワ公国は槍騎兵連隊2個をフランス軍に編入させる他、自国の軍団や師団を積極的に派遣して協力した。しかしライプツィッヒの敗戦によるナポレオンの凋落でポーランド人達は再び祖国を失う事になった。また同様の事情で祖国回復を目指すリトアニアもロシア遠征に際して複数の連隊を提供し、その中の一つは近衛軽槍騎兵第3連隊となった。
- イタリア
- 1803年にイタリア北部でポー川狙撃兵(Tirailleurs du pô)大隊が組織され、後にフランス軍の軽歩兵連隊となった。ナポレオンの継子ウジェーヌが治めるイタリア王国の軍隊、ナポレオンの義弟ミュラが治めるナポリ王国の軍隊、ナポレオンの妹エリザが治めるトスカーナ大公国の軍隊は当然の如くフランスの同盟軍となった。ナポレオンの故郷ではコルシカ狙撃兵(Tirailleurs corses)大隊が組織され、彼らは皇帝の従兄弟(Les Cousins de l'Empereur)と呼ばれていた。
- ドイツ
- 1803年にフランスが占領したハノーヴァーでは、軽歩兵と軽騎兵を合わせたハノーヴァー軍団(Légion hanovrienne)が組織されフランス軍の一部となった。ナポレオンの弟ジェロームが治めるヴェストファーレン王国は忠実な同盟軍となり多数の住民を動員してフランス軍に協力した。ナポレオンの甥っ子が治めるベルク大公国も複数の連隊を提供した。ドイツ諸国の中ではザクセン王国とバイエルン王国が大きな兵力で協力し、ライン同盟諸国もそれぞれ師団や連隊をナポレオンの下に派遣して同盟軍の役割を果たしたが、ライプツィッヒの戦いで離反した。
- その他
- 1803年にアイルランドからの亡命者を中心にしたアイルランド軍団(Légion irlandaise)が組織されてイギリス上陸作戦に備えたが計画は中止され、その後は一つの外国人連隊に改組された。旧体制下の優秀な歩兵戦力だったスイス人傭兵隊はフランス革命時に解雇されたが、1804年にナポレオンが皇帝になると再雇用されて4個のスイス歩兵連隊がフランス軍の指揮下に入った。1805年にオーヴェルニュ遠征連隊(Régiment de la tour d’auvergne)が編制され4個連隊まで拡張し1811年に外国人連隊(Régiment étranger)と改称した。この傭兵部隊には故郷を捨てた様々な国籍の者達が集まっていた。ナポレオンの弟ルイが治めるホラント王国が1810年に併合されると国王騎兵隊は近衛軽槍騎兵第2連隊に、国王歩兵隊は近衛擲弾兵第3連隊にそれぞれ改組された。フランスの占領下にあったポルトガルでは、1808年に9,000名の選抜兵員からなるポルトガル軍団(Légion portugaise)が組織されてヨーロッパ各地に遠征した。1809年にオーストリアからフランスに割譲されたダルマチアでは1811年に4個のクロアチア人歩兵連隊が組織された。彼らは優れた猟兵と言われていた。
階級構成
封建制度の軍隊とは異なり、ナポレオン軍での昇進は生来の身分や富でなく個人の能力と勇気で審査された。ナポレオンは ”Tout soldat français porte dans sa giberne le bâton de maréchal de France."(全てのフランス兵の背嚢には未来の元帥杖が入っている)と声明して、どの兵士も成した功績によって最高位まで昇進出来る事を示した。フランス革命前は庶民は将校になれず、名門貴族出身でないと大佐以上になれなかったのでこの違いは大きかった。ただし革命戦争時代に見られた様な急速な昇進は無くなり長く地道な軍隊勤務履歴が必要となっている。
フランス第一帝政陸軍の最高階級は師団将軍(Général de division)であった[21]。その中で特に功績を認められた者には帝国元帥、大将、軍司令官将軍の栄典ないし役職が授与された。階級ではない名誉称号である為、これらを重複して授けられた者もいた。帝国元帥(Maréchal d’Empire)の栄典は軍功卓抜な者への表彰と、帝政樹立時に著名な古将への懐柔策として使われた。高い給与と大きな指揮権限が付与され合計26名が叙任された。大将(Colonel général)は旧体制下では各兵科最先任の将官を意味する役職であったが[22]革命時に廃止された後に、第一帝政下では名誉称号として復活し専らナポレオンの取り巻きが叙任されていた。軍司令官将軍(Général en chef commandant une armée)は方面軍(armée)の指揮権を必要に応じて与えられた役職で半島戦争などで叙任が見られた。
師団将軍(Général de division)は旧体制の中将(Lieutenant général)に、旅団将軍(Général de brigade)は旧体制の少将(Maréchal de camp)に相当し、革命時の改称をナポレオンもそのまま使用した。旧体制の准将(Brigadier des armées du roi)は革命時に廃止されたままとなった。将軍副官(Adjudant-commandant)は階級ではなく軍団、師団の管理スタッフとしての役職名であり大佐ないし中佐の者が任命された。序列は旅団将軍と大佐の間とされた。
ナポレオンは1803年に、革命時に改称された半旅団(demi-brigade)を連隊(régiment)に、半旅団長(Chef de brigade)を大佐(Colonel)に戻させ、更に革命時に廃止された中佐(Major/又はGros-majorとも呼ばれた)を再設して各連隊に1名置くよう指示した[23]。中佐は連隊の管理と運営事務を担当した。大佐と中佐には一等、二等の等級が存在した。二等大佐(Colonel en second)は1809年の間のみ正式に階級化して特設連隊(régiment provisoire)を率いる事になった。少佐=大隊長(Chef de bataillon)を補佐する大尉は副官勤務大尉(Capitain adjudant-major)、中尉は副官中尉(Lieutenant sous-adjudants-major)と呼ばれ、役職的立場として一つ上のランクに扱われた。准尉(Adjudant sous-oficier)は各大隊に1名置かれて下士官達の監査役となり中佐の管理業務を補佐した。
大尉(Capitaine)は中隊長であり、中尉(Lieutenant)は副中隊長だった。大尉と中尉には一等、二等の等級があり砲兵科のみ三等まであった。少尉(Sous-lieutenant)は副中隊長の次席か連隊付き士官となった。軍曹(Sergent)は兵士達の現場監督であり、伍長(Caporal)はその補佐役となった。第一帝政下の伍長は旧体制の上等兵扱いから引き上げられ下士官待遇とされた。曹長(Sergent-major)は中隊の物資全般を管理し、給養係伍長(Caporal-fourrier)は中隊の食糧を管理した。軍需品を扱うこの両名は誠実で教養ある者が選ばれた。なお各種牽引兵中隊では曹長が中隊長となった。
なお、下記表内で※が付いたものは階級ではなく役職的地位、名誉称号である。「AまたはB」のBは騎乗部隊(騎兵、騎馬砲兵、憲兵)での呼称である。
大陸軍の階級 | 現代の米陸軍で相当する階級 |
---|---|
帝国元帥 (Maréchal d’Empire)※ 大将 (Colonel général)※ 軍司令官将軍 (Général en chef commandant une armée)※ 師団将軍 (Général de division) |
大将 (General) 中将 (Lieutenant general) 少将 (Major general) |
旅団将軍 (Général de brigade) | 准将 (Brigadier general) |
将軍副官 (Adjudant-commandant)※ | 大佐 (Staff Colonel) |
大佐 (Colonel) | 大佐 (Colonel) |
二等大佐 (Colonel en second)※1809年のみ | 中佐 (Senior lieutenant colonel) |
中佐 (Major) | 中佐 (Lieutenant Colonel) |
少佐 (Chef de bataillon または Chef d'escadron) | 少佐 (Major) |
副官勤務大尉 (Capitaine adjudant-major)※ | 大尉 (Staff Captain) |
大尉 (Capitaine) | 大尉 (Captain) |
中尉 (Lieutenant) | 中尉 (First Lieutenant) |
少尉 (Sous-lieutenant) | 少尉 (Second Lieutenant) |
准尉 (Adjudant sous-oficier) | 准尉 (Warrant Officer) |
曹長 (Sergent-major または Maréchal-des-logis-major) | 曹長 (Sergeant-Major) |
軍曹 (Sergent または Maréchal des logis) | 軍曹 (Sergeant) |
給養係伍長 (Caporal-fourrier または Brigadier-fourrier) | 中隊書記 / 補給係軍曹 (Company clerk / Supply sergeant) |
伍長 (Caporal または Brigadier) | 伍長 (Corporal) |
兵士 (Soldat) または騎兵 (Cavalier) または砲兵 (Canonnier) | 一等兵 (Private) |
戦術と戦闘隊形
18世紀のヨーロッパの戦いは概して横長の長方形隊列を組んだ歩兵が互いに小銃を撃ち合い、頃合を見て銃剣突撃を仕掛けるという定形的なものだった。大砲は戦いの始めに放たれて敵を脅かし、騎兵は戦いが佳境に差し掛かった時に突入した。封建時代の軍隊の構成員は強制徴募兵と傭兵で占められていたので、モラルと責任感に欠ける彼らを複雑に操作するのは難しく、必然的に戦いはシンプルな作法で行われていた。歩兵、騎兵、砲兵の各隊が戦場に配置された後は、それぞれが前進して正面からぶつかり合うのが当時の戦いの通例だった。
フランス革命で誕生した国民皆兵軍隊(levée en masse)は素人の集まりゆえに練度面は劣っていたものの圧倒的人数を誇り、また愛国心を持つ彼らのモラルと責任感は高かった。その特徴を生かした大量の兵士が一斉突入する群衆戦術は革命戦争の中で確立されて大きな威力を発揮した。彼らが実戦経験を積んだ後はモラルの高さゆえに複雑な隊列運動をまかせる事も可能となった為、ナポレオンはこの長所を存分に活かして高度に柔軟な陣形戦術を駆使し、固定的な戦術しか使えない封建軍隊を圧倒していった。その代表例は敵陣形の端に陽動攻撃を仕掛けるか、又は自軍の一部を囮にして敵部隊を釣り出し、敵の予備兵が出払った隙に一気に中央突破を図るというものだった。これはアウステルリッツの戦いなどで用いられており戦争の芸術と称えられた。
戦場の基本行動単位は大隊(bataillon)であり、その定員は1807年までは約1,000名、1808年からは約800名であったが、従軍中の消耗で実際は400~600名である事が多かった。戦闘隊形(formation de combat)はこの大隊ごとに組まれており、一軍の戦力は大隊の数で換算されるのが通例だった。師団は概ね8個から16個の戦闘隊形を展開する事になり、師団長が一括運用する時もあったが、大抵は左右または前後半々に分けられて双方の旅団に4個から8個の戦闘隊形の運用が分担された。連隊は地域ごとに設立される2~6個大隊の管理組織であり、戦闘時の連隊長は第1大隊と共に行動する事が多かった。旅団編制が存在せず師団長が一括運用しない時は連隊長が管理下大隊を指揮した。師団は幾何学模様的に戦闘隊形を配置し、大抵は散兵線(Formation en tirailleur)を前面に敷き、横隊(Ligne)を中央に並べて、縦隊(Colonne)を両端か後方または横隊の切れ目に置いた。この布陣は混成配置(Ordre mixte)と呼ばれた。軍団はそれら歩兵師団陣形と騎兵と砲兵の連携を行った。
「陣形」の基本要素である大隊戦闘隊形と、その部品となる中隊隊形の種類は以下の通りであった。大隊は1807年までは9個中隊、1808年からは6個中隊で構成されていた。
- Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg
横隊
- Butler Lady Quatre Bras 1815.jpg
方陣
- 戦列歩兵中隊の隊形
- 横幅30~40名が前後三列に並ぶのが基本だった。横幅15~20名の分隊(section)2個が左右に並ぶ形で構成されたので真ん中から分かれる事も出来た。従軍中の消耗で実際の横幅はこれより少ない事が多かった。また戦場をピンポイントで移動する時は横幅3名位の縦隊になる事があった。
- 戦列歩兵大隊の戦闘隊形
- 横隊(Ligne)
- 各中隊を横一列に並べたもので一斉射撃用の隊形だった。右端は擲弾兵中隊だった。左端の選抜歩兵中隊が前方に展開して散兵線を敷く事もあった。
- 分団縦隊(Colonne par division)
- 中隊2個を繋げた分団=分大隊(division)を前後4列または3列(1808年以降)に並べたもので銃剣突撃用の隊形だった。当時の’’division’’には師団と分団の二つの意味があった。擲弾兵中隊は最前列の右だった。選抜歩兵中隊は最後列の左だったが縦隊の前面に出て散兵線となる事もあった。散兵線を前衛にしたものは攻撃縦隊(Colonne d'attaque)と呼ばれた。各分団の前後間隔は列を詰めるもの(serrée)と一定の距離を空けるもの(à distance)のニつがあった。
- 中隊縦隊(Colonne par peloton)
- 各中隊を縦一列に並べたものでこれも銃剣突撃用の隊形であり、狭い地形や都市ないし城塞への突入時に用いられた。’’peloton’’は欠員無しの完全中隊を意味した。擲弾兵中隊が先頭で選抜歩兵中隊が最後尾となり、大抵は前後の間隔を詰めて並んでいた。
- 方陣(Carré)
- 各中隊を正方形ないし長方形の四辺となるように並べたもので騎兵に対する防御用隊形だった。6個中隊の時は前辺に2個、後辺に2個、左辺に1個、右辺に1個のように配置された。
- 軽歩兵中隊の隊形
- 各兵士が広い間隔を取って横幅10~13名の前後三列に並ぶ分隊(section)3個を、左と中央と右に並べるのが基本だった。平地では左右分隊がやや前進してその三列が交互に入れ替わりつつ狙撃を行い、銃剣を構える中央分隊は緊急時の集結地点を示す控えとなった。森林や起伏のある地形では各分隊の位置を保ちながら流動的に進んだ。これは散兵線(Formation en tirailleur)の基本要素となった。
- 軽歩兵大隊の戦闘隊形
- 分団縦隊(Colonne par division)
- 軽歩兵中隊2個を繋げた散兵線を前後4層または3層(1808年以降)に配置した。戦列歩兵大隊の横隊二つ分の横幅をカバー出来る浅めの散兵線(Formation en tirailleur)を形成した。
- 中隊縦隊(Colonne par peloton)
- 軽歩兵中隊の散兵線を前後9層または6層(1808年以降)に配置した。横隊を組んだ戦列歩兵大隊の横幅をカバー出来る深めの散兵線(Formation en tirailleur)を形成した。
- Detaille 4th French hussar at Friedland.jpg
- Grenadiers à cheval de la Garde impériale avant la charge.jpg
- 騎兵中隊の隊形
- 横幅30~40名の騎兵が前後二列に並ぶのが基本だった。横幅15~20名の分隊(section)が左右に並ぶ形で構成されたので真ん中から分かれる事も出来た。ピンポイントで進む時は隊列の真ん中から折れた逆V字型の両翼を閉じるようにして横幅四名の縦隊となった。また分隊が前後に並ぶ事もあった。それらに加えて軽騎兵中隊は、斥侯や遊撃などの任務に応じて一定の集合を保ちつつも臨機応変に動く解放態勢(Ordre lâche)を取る事が多かった。
- 騎兵大隊の戦闘隊形
- 横隊(Ligne)
- 2個の騎兵中隊を左右に並べた。
- 縦隊(Colonne)
- 2個の騎兵中隊を前後に並べた。
戦歴
1803年、ヨーロッパ大陸内における英仏間の貿易上の対立などの要因からイギリスはアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦布告した。革命の波及を警戒する他のヨーロッパ諸国もまたフランスを公然と敵視しており、1804年5月の膨張主義を伴うフランス第一帝政の樹立と、同年12月のナポレオンの戴冠式によって国際間の緊張は再び高まり始めていた。
第三次対仏大同盟(1805)
イギリス征服を企図したナポレオンはドーバー海峡に面したブローニュに総勢18万を数える軍勢を集結させていた。それに対抗してイギリスは1805年4月にオーストリア、ロシアと共に第三次対仏大同盟を結成した。イギリス上陸作戦が実は困難な事を悟ったナポレオンは、9月から矛先をオーストリアに変えてドイツ南部に進軍し10月のウルムの戦いを経て11月に首都ウィーンを占領した。翌12月にナポレオンはアウステルリッツの地でオーストリア=ロシア連合軍を破り、オーストリアにプレスブルクの和約を調印させて戦争に勝利した。翌1806年にオーストリアを宗主とする神聖ローマ帝国は解体され、代わりにフランスを盟主とするライン同盟がドイツ圏に誕生した。更にナポレオンは同年11月にイギリスとの貿易を禁止し、フランス国内業者に取引を独占させる事になる大陸封鎖令を発令しヨーロッパ諸国に参加を強制した。
第四次対仏大同盟(1806 - 1807)
ナポレオンを危険視したプロイセンは1806年10月、ロシアと共に第四次対仏大同盟を結成した。直ちに出征したナポレオンはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破した。続くポーランド方面の冬季遠征では苦戦するが、翌1807年5月にプロイセン軍を降服させ、6月のフリートラントの戦いでもロシア軍を撃破した。その後のティルジット条約でロシア、プロイセン両国と講和し、先の大陸封鎖令にも参加させた。
スペイン半島戦争(1808 - 1814)
1807年10月、ナポレオンは親仏派であるスペインのゴドイ政権とフォンテーヌブロー条約を結び、大陸封鎖令を拒否するポルトガル占領の同意と、スペイン領内のフランス軍通過の合意を得た後に遠征を開始し、12月にポルトガルを制圧した。だがその後も様々な口実でスペイン各地に軍を進駐させた事から反仏感情が高まり、1808年3月の政変でナポレオンに忠実なゴドイ政権が倒されるに到った。するとナポレオンはスペイン王家を追放して5月に自身の兄ジョゼフを王位に据えた。フランスの占領に反対するスペイン民衆は全土で蜂起してゲリラの語源となると共に、凄惨な半島戦争が始まった。7月に起きたフランス軍の衝撃的な敗北で新王ジョゼフは逃亡を余儀なくされた。ポルトガルでも反乱が起きており、これを契機と見たイギリスは8月にイベリア半島へ軍勢を上陸させた。英葡西の三軍は各地でフランス軍の撃退に成功し、戦況が悪化した事から11月にナポレオンはスペインへの親征に踏み切った。12月に首都マドリードを占領して兄ジョゼフをスペイン王に復帰させ、翌1809年1月にナポレオン自身はフランスに帰国した。しかしイギリス軍に支援されたスペイン人は頑強に抵抗して戦いは泥沼化し、半島戦争はそのまま長期化して1814年夏にスペインから追い出されるまでフランスを消耗させ続ける事になった。
第五次対仏大同盟(1809)
半島戦争でのフランスのつまづきを見たオーストリアは再度の挑戦を決意して1809年4月にイギリスと第五次対仏大同盟を結成した。オーストリア軍はドイツとイタリアで急速な軍事作戦を展開し、それに応じてナポレオンも反撃を開始するが、5月に発生したアスペルン・エスリンクの戦いで始めて一敗地に塗れる事になった。だが7月のワグラムの戦いで勝利した事から、オーストリアは意気消沈して停戦への運びとなり、10月のシェーンブルンの和約でオーストリアは巨額の賠償金と領土割譲を課せられ大陸封鎖令の遵守も確約させられた。この頃がナポレオン帝国の絶頂期であり、その後二年間のヨーロッパ大陸はスペインを除いて平穏な状態が続いた。
ロシア遠征(1812)
大陸封鎖令による貿易の不自由と経済の悪化でヨーロッパ諸国の不満は高まり、1810年にロシアが離脱を表明してイギリスとの貿易を再開した。これを認めないナポレオンは主にドイツ圏の外国人が4割を占める総勢60万の巨大な多国籍軍を編制し、1812年6月からロシア遠征を開始した。ロシアはナポレオンをひたすら自国の荒野に引きずり込んで疲弊させていく焦土作戦を展開して侵攻するフランス軍を大きく消耗させた。9月のボロディノの戦いの後に首都モスクワに到着したが、そこももぬけの殻で食糧と物資の欠乏に更に苦しむ事になった。ナポレオンはロシアとの講和を探ったが無駄に終わり10月から退却を開始した。この退却行は苦心惨憺を極め、過酷な極寒と執拗な追撃で多数の兵士が失われて総勢60万のうち生還出来たのは2万名ほどだった。フランスは壊滅的な大敗北を喫した。
第六次対仏大同盟(1813 - 1814)
ナポレオンのロシア遠征惨敗とスペインでの敗色を好機と見たプロイセンは、1813年3月にロシアと第六次対仏大同盟を結成しフランスへ宣戦するが、素早く軍隊を再建したナポレオンの反撃に手を焼いて6月に一時休戦した。同じく6月にスペインでは英葡西の三軍がフランス軍を敗走させ、7月には仏西国境のピレネー山脈を越える勢いだった。同時にスウェーデンもフランスに宣戦した。ナポレオンは対仏同盟諸国との講和を求めるが決裂し、ライン同盟諸国も次々とフランスから離反して大陸封鎖令も有名無実化された。8月にはオーストリアも宣戦して総勢45万を数える対仏同盟軍が一斉にドイツ方面から攻撃を開始した。同盟軍はナポレオンとの対決を避けて周囲の軍を叩く作戦を取った為に、ナポレオン自身は敗北しないままフランス軍は次第に消耗し追い詰められていった。10月、ライプツィヒで史上最大規模の決戦が行われてフランス軍は大敗しドイツから完全撤退した。
1814年はフランス本土の防衛戦となり、南から英葡西連合軍が、東から普露奥瑞の四軍がフランス国内に殺到し、3月には首都パリが包囲された。ナポレオンは徹底抗戦を望んだが部下達に退位を迫られて4月に降服した。フォンテーヌブロー条約に従いナポレオンはエルバ島に追放され、ルイ18世が帰還して王政復古となり5月のパリ条約で諸外国と講和した。9月からヨーロッパ諸国の間でウィーン会議が開かれ戦後の領土分割が協議されたが、各国の利害が対立してまとまる気配を見せなかった。
第七次対仏大同盟(1815)
1815年2月、ルイ18世に対する国民の不満とウィーン会議の混迷を好機と見たナポレオンはエルバ島を脱出して3月にパリへ到着し、特に軍人達に迎えられて皇帝の座に返り咲いた。ルイ18世は国外に逃亡した。驚いたウィーン会議中の諸国は急いで妥協案を成立させると第七次対大同盟を結成し、ナポレオンを法の外に置く旨を宣言した。戦争は不可避となり、兵力で劣るナポレオンは対仏同盟諸国の合流前に各個撃破する作戦を立て、まずベルギー方面にいるイギリス軍とプロイセン軍の攻撃に向かった。しかし6月のワーテルローの戦いで敗北した事で再び退位に追い込まれ、11月の第二次パリ条約の締結でナポレオン戦争は幕を閉じた。
脚注
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- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編. 創元社.
- ↑ 11.0 11.1 11.2 図解 ナポレオンの時代 武器・防具・戦術大全. レッカ社.
- ↑ 中里融司. 覇者の戦術 戦場の天才たち. 新紀元文庫.
- ↑ R・G・グラント. 兵士の歴史 大図鑑. 創元社.
- ↑ ハーピー・S・ウィザーズ. 世界の刀剣歴史図鑑. 原書房.
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- ↑ John R. Elting "Swords Around A Throne", p124, Da Capo Press, 1997
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参考文献
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外部リンク
- French website displaying flags of the Grande Armee
- Soldiers of Fortitude: The Grande Armee of 1812 in Russia by Major James T. McGhee
- French Heavy and Light Cavalry (Lourde et Legere Cavalerie)
- French article on Chappe telegraphs, Les Telegraphes Chappe, l'Ecole Centrale de Lyon
- Uniforms of Napoleon's Guard