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中原街道(なかはらかいどう)は、相模国(神奈川県)平塚と武蔵国江戸(東京)とを結ぶ街道で、多摩川を丸子で渡る。、東海道の一部としても機能していた。
歴史
中原街道は、武蔵国・相模国を結ぶ街道で、ただし詳しい成り立ちはよくわかっていない。日蓮が利用するなど中世には利用されていたと考えられていて[1]、一部は延喜式によって定められた東海道(江戸時代のものとはルートが異なる)に含まれていたらしいが、それ以前からあった道ではないかとも言われる。また、鎌倉街道下の道の一部とも考えられている[2]。
後北条氏の時代に本格的に整備をし、工事の際狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたため、比較的直線区間が多い[3]。狼煙を挙げた場所で今も記録に残っているのは、「横浜市旭区の今宿南町、清来寺の裏山」「上川井の大貫谷」「瀬谷区の三ツ境駅裏側」などがある。
1590年(天正18年)に徳川家康が江戸入りした際もこの街道を利用したと言われる[4]。
江戸時代に東海道が整備された後は[5]、江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)と平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿で、ここに中原御殿があった)とを結ぶ脇街道とされ、「中原街道」の名で呼ばれることとなった。別称として、相州街道・お酢街道・江戸間道・小杉道・こやし街道などがある。
小杉、下川井、中原に御殿が作られると、将軍が駿府往還や鷹狩などにも利用された[6]。なお、「中原街道」と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入って徳川幕府が行った1604年の整備以降である。
東海道が整備されると幹線道としての役割は東海道に譲るが、江戸 - 平塚間をほぼ直線につなぐ道路であり、脇往還として沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用された。東海道は大名行列に使われるため、その煩わしさを嫌う庶民や商人が利用した。赤穂浪士も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたと伝えられている。
現在は江戸時代とルートが多少異なるが、なお主要地方道として利用されている。
宿場
中原街道は脇街道であったため、東海道のような宿駅は設けられず、荷物等の受け渡しを行う継立場が下記の通り設けられた(なおこの継立場を中原街道の宿場とする見解もある)。
現在の経路
中原街道は現在の国道1号桜田通りから東京都道・神奈川県道2号線および神奈川県道45号線に相当し、高座郡寒川町一之宮の田村の渡し、または、四之宮の渡しで相模川を渡り、平塚市御殿へ達している。
中原街道ギャラリー
- 中原街道(平塚市真土).JPG
中原街道の碑(平塚市真土)、左奥は真土神社
- Kosugi goten.JPG
小杉御殿跡地の碑
- Marukobashi.JPG
丸子橋(昭和初期までは橋がなく、「丸子の渡し」があった)
脚注
- ↑ 品川区立品川歴史館編『平成22年度特別展・中原街道』2010年 6-12頁
- ↑ 参考文献『中世を歩く』167-194頁
- ↑ 横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター 「中原街道の整備事業に伴う発掘調査の質問に対する回答」
- ↑ 品川区立品川歴史館編『平成22年度特別展・中原街道』2010年 14-17頁。但し、大田区史編さん委員会編『大田区史』中巻 1992年 793頁 の様に、家康の入府路を池上・新井宿(現・大田区中央)を経る道と考える説もある。
- ↑ 江戸時代に東海道は神奈川を経由し、多摩川は六郷の渡し(川崎)で渡るようになった。
- ↑ 中島義一「徳川将軍家御殿の歴史地理的考察(第1報)ー南関東の場合ー(多田文男先生喜寿記念)」『駒澤地理』14、 駒澤大学、177-197頁、1978年。
参考文献
- 北倉庄一 著 『中世を歩く』 1998年(平成10年)2月25日、ISBN 978-4990016531
- 大田区史編さん委員会編『大田区史』中巻 1992年。
- 品川区立品川歴史館編『平成22年度特別展・中原街道』2010年。
- 中島義一「徳川将軍家御殿の歴史地理的考察(第1報)ー南関東の場合ー(多田文男先生喜寿記念)」『駒澤地理』14、 駒澤大学、177-197頁、1978年。